第41話 ラガン夫妻との面会
柔らかな陽光が差し込む中、目に映るのは見事に整えられた庭園だった。
石畳の小道を縁取るように、低木と季節の花が咲き乱れ、空気には甘い花の香りが漂っている。
噴水の水音が、遠くから控えめに聞こえる。まるで別世界の静寂。
光也は、一歩、門の内側に足を踏み入れた。
その瞬間――まるで、何か見えない膜をくぐったような感覚に襲われる。
外の兵士の靴音も、叫び声も、雑踏のざわめきも、この中には届かない。
「……きれい……」
自然に口をついて出た言葉に、光也自身が驚いた。
庭の真ん中に植えられた一本の樹。
その梢には朝露がまだ残り、陽光を反射して微かに煌めいている。
城の中庭とは違う。これは“飾り”ではなく、“暮らし”の中にある自然だった。
「安心した?」
隣から、エルメラがそっと声をかけた。
光也は少しだけ、頷く。
(ここなら……)
まだ完全には信じ切れていない。
だが、確かに自分は“追われている少年”ではなく、“誰かに託された子供”として扱われている。
そのことが、ほんの少しだけ、心を軽くしていた。
「行きましょう」
マリスの言葉に、一行は小道を進み始めた。
その先にある扉の向こうに、光也の新しい一日が、静かに待っている。
王都貴族街の静謐な空気を背に、マリスたちはラガン邸の中へと案内された。
応接室に足を踏み入れた瞬間、柔らかな陽光が大きな窓から差し込み、上品に彩られた空間が広がっていた。
壁には淡い草花模様の織物が掛けられ、棚の上には銀細工の置物や繊細な陶器がさりげなく並んでいる。
香り立つのは、朝摘みのミントとシナモンを混ぜたような、心をほぐす香り。
部屋の奥で、すでに待っていたラガン夫妻が穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。
「やあ、マリス嬢。久しぶりですね。まったく、お変わりない」
柔らかくも確かな品位を漂わせる男――ラガン伯爵が、ゆったりと歩み寄る。
「そちらも、お元気そうで何より」
マリスも穏やかに返す。旧知の間柄を思わせる、わずかなほころびを帯びた微笑。
ラガン夫人も静かに歩み寄り、マリスの両手を包み込むように握った。
「こんな朝に訪ねてきたのだから、ただのお茶会ではないのでしょう?」
夫人の声音には優しさと察しの良さが同居していた。
マリスは小さく頷き、背後に控える光也を促すように片手を差し出す。
光也は緊張した面持ちで一歩前へ出た。
「彼が、お願いしたい子です。――名は光也。……事情があって、王城から逃れてきました」
ラガン夫妻の表情が、わずかに変わった。
だがそれは驚きではなく、事態の重さを即座に読み取った者の顔つきだった。
伯爵は視線を光也に向け、その目に知性の光を宿す少年をじっと見つめる。
身なりは質素で、目立った武具もない。
それでも、その目には確かな"意志"が宿っていた。
「……君が、光也君だね」
伯爵の声は深く穏やかだった。
光也は息を詰めたまま、慌てて頭を下げた。
「は、はい……ご、ご迷惑を、おかけします……」
小さく震える声。
その中に、怯えと恐縮が滲んでいる。
「光也は……異世界から召喚された存在です。ですが、スキルは発現せず、王の命令で保護されていたものの……状況が変わりました」
マリスの語る口調は淡々としていたが、その目には強い責任感が宿っている。
「この子には何の罪もありません。むしろ——巻き込まれただけなのです。いずれ王都も騒がしくなるでしょう。しばらく、ここで静かに過ごさせてやってほしいのです」
夫人がマリスの言葉をじっと聞いたあと、そっと光也の前へ膝をついた。
彼女の手が、ためらいもなく光也の手を包み込む。
「……怖かったでしょう? でも、もう大丈夫よ。ここは安全な場所。あなたを、ちゃんと守るから」
その言葉に、光也は目を見開いた。
母の手に似た、柔らかく温かい感触が、指先から胸の奥へと染み込んでくる。
「……あの……ありがとう、ございます」
かすれた声で、そう言った。
「さあ、立って。そんなに緊張しないで」
夫人は立ち上がると、柔らかく微笑んだ。
「ところで、君。甘いものは好き? ちょうど焼きたてのクッキーがあるの。ミント入りの、うちの娘たちの大好物なのよ」
光也は一瞬きょとんとしたあと、小さくうなずいた。
「……はい、好きです」
そこへ、応接室の扉がそっと開いた。
「お母さま、誰か来ているの?」
現れたのは、年齢的には光也と近いか少し上の少女だった。
整った顔立ちに栗色の髪、抑えられた気品を身にまとっている。
少女——クラリスの視線が、部屋の中をさっと見渡し、光也に向けて留まった。
「……あの子?」
その隣から、もう一人の小さな少女がひょいと顔を出した。
「おにーちゃん!? おにーちゃんだーっ!」
「ミナ、ちょっと待ちなさい」
夫人が軽く声をかけ、ミナはきゅっと足を止めるが、好奇心に目を輝かせたままだ。
クラリスはほんの一瞬、光也を品定めするような視線で見た。
だがその瞳に浮かぶのは、侮りではなく——警戒だった。
(なんで男の子がここに?)
そう言いたげな表情を、光也は感じ取った。
マリスは焼き菓子の包みをテーブルに置き、夫妻に向き直る。
「何かあれば、すぐに知らせてください」
伯爵はしっかりと頷いた。
「もちろんです。マリス殿からの頼みを軽んじるような者は、我が家にはおりません」
光也は、その言葉にまた深く頭を下げた。
自分は今、確かに"誰かに守られている"。
だが同時に——この静けさが永遠ではないことも、彼の胸にはしっかりと刻まれていた。