第40話 ラガン家の門前
王都の朝は、人と荷車と声が交差する音の洪水だった。
舗石の道を歩く冒険者たちの一団は、その喧騒の中にあっても、目立たぬよう自然な速度で進んでいた。
ただ、自然を装っているだけで、全員の視線は周囲を鋭く観察している。
ティナが小声でつぶやく。
「……さっきから兵士の数、多くない?」
「東門の方向に集中してるな。移動してるのかもしれない」
とグレンナ。
「慌てないことよ」
先頭を歩いていたマリスが、振り返らずに静かに言う。
彼女の足が止まる。
王都でも評判の老舗菓子店の前だった。
木の看板に優雅な筆致で書かれた屋号。
並ぶショーウィンドウには、可愛らしい焼き菓子の詰め合わせや、銀箔をまとったクッキー、紅茶と合わせるためのケーキのセットがずらりと並んでいる。
マリスは無言で扉を押し、店内に入った。
店の中は香ばしいナッツの香りと、シナモンの甘い匂いに満ちていた。
店主は彼女の顔を見るとすぐに、小さく頭を下げる。
「お久しぶりですね、マリス様。」
「ええ、急だけど今日中に。すぐに手渡せるようにお願い。……紅茶に合う方を」
手際よく包装を始めた店主を見つめながら、マリスは落ち着いた口調で続けた。
「……あの家には、温かい時間が似合うものじゃないと」
ティナがやや小声で隣から呟いた。
「……ねえリーダー。こんなときに焼き菓子なんて買ってる余裕、あるの? 兵士に見られたら怪しまれるかもしれないのに」
マリスは片目だけでティナを見た。
涼やかなその視線は、妙に安心感を与える。
「こういう時こそ、"普段通り"が一番よ。あからさまに挙動を変えると、それだけで目を引く」
彼女は手に取った紙箱を軽く揺らす。
「それに……手ぶらで人の家の門を叩くほど、礼儀知らずではないつもり」
言い切ったその声には、どこか余裕と優雅さがあった。
それがなぜか、光也の胸の中の緊張を少しだけ解きほぐす。
店を出ると、冷たい朝の風が頬を撫でた。
そして再び、一行は人波の中へと溶け込んでいく。
光也の隣に、エルメラが寄り添って歩く。
「……コウヤくん。緊張してる?」
声をかけられた瞬間、光也は少しだけ肩を跳ねさせた。
その反応を見て、エルメラはくすっと笑う。
「そんなに硬くならなくていいよ。ラガン家は、きっと優しくしてくれるよ?」
光也はうつむいたまま、小さくつぶやいた。
「……うん。でも……なんか、申し訳なくて……」
その声は、本当に小さくて、消え入りそうだった。
「僕が、みんなの邪魔になってるんじゃないかって……」
前を歩いていたグレンナが、足を止めずに言った。
「うるせえな。守るって決めたのは、こっちだ」
ぶっきらぼうに吐き捨てるような口調だったが、その言葉の端々に、確かな思いやりがにじんでいた。
「勝手に連れ回してんだ。謝るな」
ティナが少し前を歩きながら、ちらりと後ろを振り返った。
「でも、もしまた勝手に逃げたら、今度こそ縄でぐるぐる巻きにしてでも連れ戻すからね?」
「えっ……」
光也は驚いた顔をしたが、ティナの口元に浮かぶ冗談めいた笑みに、思わず苦笑した。
「……うん。わかった。ありがとう」
その「ありがとう」は、単なる礼ではなく、
「この人たちになら頼ってもいいかもしれない」——そんな、ささやかな信頼がこもっていた。
マリスは先頭を歩きながら、ふと後ろを振り返る。
少年の小さな横顔が、陽の光に透けて見えた。
手には荷物も武器もなく、ただその身一つで、彼は今ここにいる。
"庇護される存在"——それは、この世界では最も非合理で、最も守るべきもの。
(……だからこそ、私は彼を守る)
心の奥で、言葉にならぬ誓いが、静かに結ばれていた。
やがて、道の先に整然と並ぶ石畳の通り——貴族街の門が見えてきた。
王都の貴族街――それは“静けさ”が支配する、まるで別世界だった。
朝の市場を過ぎ、街道の喧騒を抜けて石畳を進むにつれ、まるで空気が入れ替わるように、人の声が遠ざかっていく。
一行が辿り着いたのは、貴族街の一角に構えるひときわ質素な邸宅だった。
他の屋敷が競うように白い石や金属装飾を施しているのに対し、その家は飾り気のない重厚な石造りの門と、鉄の格子を備えた木扉が静かに威厳を放っていた。
「ここが……」
光也が無意識に呟いた。
見上げる門の高さに、胸の奥が締めつけられるようだった。
だが、それは恐怖ではなく、どこか“越えてはならない敷居”のような気配。
まるで、自分がここに立っていいのかすら問われているような、重い空気。
グレンナの背に隠れるようにしていた光也の前で、マリスが静かに一歩、門に近づいた。
門の両脇には、武装した二人の衛兵が立っていた。
大剣を背負ったグレンナや、軽装で鋭い視線を周囲に投げているティナに、彼らの視線が一瞬、警戒色を帯びる。
無理もない。
この区域に、異質な冒険者風の一団が立つことなど滅多にない。
しかしマリスが外套の胸元から小さな金属の印章を取り出し、音もなく掲げた瞬間、二人の表情が変わった。
「――マリス様!」
ひとりが、明らかに動揺した声を上げ、すぐにもう一人の衛兵も直立して頭を下げた。
「これは大変失礼いたしました。お久しぶりでございます。旦那様と奥様には、すでにご連絡を?」
マリスは頷いた。
「ええ。受け入れの了承はいただいているはず。お通しいただけるかしら?」
「もちろんでございます、すぐに――!」
門が内側から音もなく開かれた。
その瞬間、外の空気が変わった。