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第39話 落ち着かない時間

朝の光が、木枠の窓から柔らかく差し込んでいた。


宿屋の食堂には、パンの焼ける香ばしい匂いと、淡いスープの湯気が漂っている。


だが、その穏やかな空気とは裏腹に、角のテーブルだけが妙に緊張していた。



「ちょっと見てくる」



ティナが立ち上がった。


背筋をぴんと伸ばし、ブーツの紐を引き締めながら、さりげなく腰の短剣を確認する。


「人の流れが落ち着いてきた。今のうちなら、様子を探れるかも」



「……一人で大丈夫?」


光也が不安そうに訊ねると、ティナは振り返らず、軽く片手を挙げただけだった。



「誰よりも怪しまれないのが、私の取り柄。すぐ戻る」



そう言い残し、ティナは朝靄の中へと静かに消えていった。





カチ……カチャ……


静かな食堂に、陶器とカトラリーがぶつかるわずかな音だけが響く。


光也は、目の前のスープを見つめたまま、ほとんど手をつけていなかった。


スプーンを握る手には、わずかに汗がにじんでいる。



「……冷めるよ、光也くん」



向かいに座るエルメラが、できるだけ明るい声で言った。


その声には優しさがある。


けれど、明るさの裏に、どこか焦燥が潜んでいるのも、光也には分かった。



「うん……ごめん」



俯いたまま、光也は小さく返す。


スプーンを動かそうとして、また止める。



グレンナは腕を組んで、窓際の席から街路を見張るように座っていた。


その目は真剣で、眉間には深い皺が刻まれている。



光也はスープを一口だけすすった。


冷めきっていて、味がほとんどしなかった。



エルメラは無理に笑ってみせながら、光也のパン皿に、ひとかけらのバターをのせた。



「ね、ちゃんと食べておかないと。逃げるって決まったわけじゃないけど……体力は必要だよ?」



「……ありがとう」



光也は小さく呟いたが、その表情はまだ曇っている。


彼の目には、まだ眠り足りないような疲れと、恐れと、悔しさが入り混じっていた。



マリスは一口だけ紅茶を口に含み、テーブルの下でそっと光也の手に触れた。



「怖いのは分かる。でも、私たちがついてる。……信じて」



その言葉に、光也はようやく少しだけ顔を上げた。


その時、宿屋の扉の向こうから──風を切るような気配が忍び寄ってきた。



次の瞬間、ドアが開く音が響く。



「ただいま」



ティナの声だった。


その声に、全員の手が止まった。


空気が変わる。


彼女の表情が、いつもよりわずかに険しいのを、誰もが一目で感じ取った。



「聞き込みもしてる。王都の門番から通行記録を洗ってるみたい」



光也の背筋が、ぴくりと跳ねた。


フォークの先に刺したリンゴの切れ端が、皿の上にぽとりと落ちる。



「……かなり本格的に探してるんだね」



震える声で呟いた光也に、グレンナが舌打ち交じりに応じた。



「まったく、どんだけ執着してやがんだ。しつけのなってねぇ王族どもめ……」



彼女は苛立ちを押し殺しながら、拳でテーブルを軽く叩いた。


普段なら冗談混じりに受け取られる所作だが、今は違った。


怒っていた。明らかに、"少年の境遇"に対して。


光也はうつむいたまま、声を絞り出した。



「……戻ったら、どうなるんだろう。あの部屋に、また……」



あの場所——王城の一室。


豪奢で、美しく、完璧に整えられた空間。


だが、そこにあったのは"自由のない静寂"だった。


スキルのない少年をただ「隔離する」ために用意された、柔らかい牢獄。


その記憶を思い出すだけで、胃の奥が重くなり、喉が詰まる。



「……移動する」



静かな声だった。


マリスが、淡々とした口調で宣言する。



「ここに長居はできない。見つかる確率が上がるだけだ」



彼女は背中から地図の巻物を取り出し、テーブルの上に広げた。


王都の縮図。その一部に指を置く。


指の動きに迷いはなかった。



「信頼できる場所を頼る。……ラガン家に預けるのが最善」



「ラガン家……?」と光也が口にすると、マリスは頷く。



「西地区に住む貴族の一族。中級貴族だが、頭の切れる家長がいる。昔、共に任務に就いたことがある。理知的で、こちらの事情も察してくれるはずだ。戦力にならない少年を匿うには……最も合理的な選択肢」



その"合理"という言葉に、妙なぬくもりがあった。


感情的な優しさではない。


だが、冷たい計算でもない。



「ラガン家なら安心だよ!」



と、エルメラが笑顔で言った。



「奥さんのシアさん、すっごくやさしい人だし、娘さんたちも明るいの。……ね? 大丈夫」



光也は少しだけ目を見開いた。


マリスとエルメラが"自分をどこかへ連れて行こうとしている"のではなく、"守ろうとしている"のだということが、ぼんやりと理解できた。



「……ありがとう。僕、そこに行きます」



そう答えると、マリスは頷いた。



「よし。なら準備を」



そう言って彼女が地図を巻き戻すと、エルメラが立ち上がり、光也の皿にそっと追加のリンゴを置いた。



「ちゃんと食べて、元気出して。ラガン家は、あったかいおうちだよ」



リンゴの切れ端は甘く、少しだけ、心の奥を溶かしてくれる味がした。


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― 新着の感想 ―
スキルのあるかいないかより主人公の人格?がもっと気になる、本当に光也なの? チグハグというか不安定というかマジでバグってるなんじゃない?そういう印象
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