第39話 落ち着かない時間
朝の光が、木枠の窓から柔らかく差し込んでいた。
宿屋の食堂には、パンの焼ける香ばしい匂いと、淡いスープの湯気が漂っている。
だが、その穏やかな空気とは裏腹に、角のテーブルだけが妙に緊張していた。
「ちょっと見てくる」
ティナが立ち上がった。
背筋をぴんと伸ばし、ブーツの紐を引き締めながら、さりげなく腰の短剣を確認する。
「人の流れが落ち着いてきた。今のうちなら、様子を探れるかも」
「……一人で大丈夫?」
光也が不安そうに訊ねると、ティナは振り返らず、軽く片手を挙げただけだった。
「誰よりも怪しまれないのが、私の取り柄。すぐ戻る」
そう言い残し、ティナは朝靄の中へと静かに消えていった。
*
カチ……カチャ……
静かな食堂に、陶器とカトラリーがぶつかるわずかな音だけが響く。
光也は、目の前のスープを見つめたまま、ほとんど手をつけていなかった。
スプーンを握る手には、わずかに汗がにじんでいる。
「……冷めるよ、光也くん」
向かいに座るエルメラが、できるだけ明るい声で言った。
その声には優しさがある。
けれど、明るさの裏に、どこか焦燥が潜んでいるのも、光也には分かった。
「うん……ごめん」
俯いたまま、光也は小さく返す。
スプーンを動かそうとして、また止める。
グレンナは腕を組んで、窓際の席から街路を見張るように座っていた。
その目は真剣で、眉間には深い皺が刻まれている。
光也はスープを一口だけすすった。
冷めきっていて、味がほとんどしなかった。
エルメラは無理に笑ってみせながら、光也のパン皿に、ひとかけらのバターをのせた。
「ね、ちゃんと食べておかないと。逃げるって決まったわけじゃないけど……体力は必要だよ?」
「……ありがとう」
光也は小さく呟いたが、その表情はまだ曇っている。
彼の目には、まだ眠り足りないような疲れと、恐れと、悔しさが入り混じっていた。
マリスは一口だけ紅茶を口に含み、テーブルの下でそっと光也の手に触れた。
「怖いのは分かる。でも、私たちがついてる。……信じて」
その言葉に、光也はようやく少しだけ顔を上げた。
その時、宿屋の扉の向こうから──風を切るような気配が忍び寄ってきた。
次の瞬間、ドアが開く音が響く。
「ただいま」
ティナの声だった。
その声に、全員の手が止まった。
空気が変わる。
彼女の表情が、いつもよりわずかに険しいのを、誰もが一目で感じ取った。
「聞き込みもしてる。王都の門番から通行記録を洗ってるみたい」
光也の背筋が、ぴくりと跳ねた。
フォークの先に刺したリンゴの切れ端が、皿の上にぽとりと落ちる。
「……かなり本格的に探してるんだね」
震える声で呟いた光也に、グレンナが舌打ち交じりに応じた。
「まったく、どんだけ執着してやがんだ。しつけのなってねぇ王族どもめ……」
彼女は苛立ちを押し殺しながら、拳でテーブルを軽く叩いた。
普段なら冗談混じりに受け取られる所作だが、今は違った。
怒っていた。明らかに、"少年の境遇"に対して。
光也はうつむいたまま、声を絞り出した。
「……戻ったら、どうなるんだろう。あの部屋に、また……」
あの場所——王城の一室。
豪奢で、美しく、完璧に整えられた空間。
だが、そこにあったのは"自由のない静寂"だった。
スキルのない少年をただ「隔離する」ために用意された、柔らかい牢獄。
その記憶を思い出すだけで、胃の奥が重くなり、喉が詰まる。
「……移動する」
静かな声だった。
マリスが、淡々とした口調で宣言する。
「ここに長居はできない。見つかる確率が上がるだけだ」
彼女は背中から地図の巻物を取り出し、テーブルの上に広げた。
王都の縮図。その一部に指を置く。
指の動きに迷いはなかった。
「信頼できる場所を頼る。……ラガン家に預けるのが最善」
「ラガン家……?」と光也が口にすると、マリスは頷く。
「西地区に住む貴族の一族。中級貴族だが、頭の切れる家長がいる。昔、共に任務に就いたことがある。理知的で、こちらの事情も察してくれるはずだ。戦力にならない少年を匿うには……最も合理的な選択肢」
その"合理"という言葉に、妙なぬくもりがあった。
感情的な優しさではない。
だが、冷たい計算でもない。
「ラガン家なら安心だよ!」
と、エルメラが笑顔で言った。
「奥さんのシアさん、すっごくやさしい人だし、娘さんたちも明るいの。……ね? 大丈夫」
光也は少しだけ目を見開いた。
マリスとエルメラが"自分をどこかへ連れて行こうとしている"のではなく、"守ろうとしている"のだということが、ぼんやりと理解できた。
「……ありがとう。僕、そこに行きます」
そう答えると、マリスは頷いた。
「よし。なら準備を」
そう言って彼女が地図を巻き戻すと、エルメラが立ち上がり、光也の皿にそっと追加のリンゴを置いた。
「ちゃんと食べて、元気出して。ラガン家は、あったかいおうちだよ」
リンゴの切れ端は甘く、少しだけ、心の奥を溶かしてくれる味がした。




