第35話 スキルゼロの異常性
屋根から飛び降りたグレンナが、大地を揺るがすような勢いで着地した。
その巨体からは想像もつかない速さで、即座に強盗の一人、小太りの男へと突進する。
「舐めてんじゃねえぞ、チンピラがァッ!」
彼女が構える巨大なタワーシールドが壁のように迫り、強盗は反応する間もなく盾の一撃を喰らった。
鈍い音とともに、男は数メートル吹き飛ばされ、うず高く積まれたゴミの山に叩きつけられ、呻き声を上げて気絶した。
一撃で戦闘不能に陥れる圧倒的な膂力だった。
もう一人の強盗、痩せた男がナイフをエルメラに向けようとした瞬間、その足元に影が走った。
スカウト・ティナが投げたワイヤー付きの鉄杭が男の足を見事に絡め取り、バランスを崩させる。
男がよろめいた隙を逃さず、ティナは崩れた体勢の男の腕を蹴り上げ、ナイフを宙に舞わせた。
カラン、と石畳に乾いた音が響く。
その喉元には、いつの間にか背後に回り込んでいたリーダー・マリスの魔銀製の短剣がピタリと添えられていた。
冷たい刃の感触に、強盗は完全に凍り付く。
彼は一瞬にして、自分の命が他者の手中に握られたことを悟った。
「動かないで。動いたら、次で終わりよ」
マリスの声は夜霧のように冷たく静かだった。
その抑揚のない声は、脅迫ではなく、確実な宣告として響いた。
戦闘開始からわずか十数秒。
熟練の冒険者パーティ《ルミナリス》による、あまりにも一方的な制圧劇だった。
裏路地の闇の中で、静かながらも確かな実力差が示された瞬間だった。
極度の緊張から解放された光也は、その場に崩れ落ちた。
肩のかすり傷から血が滲み、空腹と極度の疲労で視界が霞んでいく。
目の前で繰り広げられた閃光のような出来事に、彼の意識はついていけなかった。
「あの……人は……無事、ですか……?」
意識が遠のく中、彼の口から漏れたのは、自分のことではなく、助けようとした相手を気遣う言葉だった。
エルメラは、光也の肩にそっと手をかざし、優しく詠唱する。
「《ヒール》」
柔らかな光が光也の肩を包み込み、かすり傷がみるみるうちに癒えていく。
その光に、彼の身体が僅かに温もりを感じた。
「ええ、大丈夫。それよりあなた……」
エルメラは戸惑いながら尋ねた。
「本当に……特別な力は、ないの?」
その言葉を受け、ティナが再び光也に鑑定スキル《千里眼》を使用する。
彼女の目に映る情報ウィンドウは、何度試しても同じ結果を示し、ティナは信じられないという様子で目を見開いた。
「……うそ。何回やっても……"空白"。エラーですらない、完全な"無"……」
グレンナが、気絶した強盗を縄で縛り上げながら、忌々しげに呟く。
「そんな人間、見たことも聞いたこともねえ……」
マリスは短剣を鞘に収め、厳しい表情で光也を見下ろした。
その視線には、警戒と、理解を超えたものへの不信が混じっている。
「普通、人は生まれ落ちた瞬間に、世界から何らかのスキルを授かる。たとえそれが【生活魔法Lv.1】や【農耕Lv.1】のような些細なものでも。赤子ですら何かを持っているはずだ。"スキルゼロ"なんて、この世界の理に合わない」
マリスの言葉は、この世界の絶対的な常識を告げていた。
光也は、彼らの言葉の響きと、その視線の中に、再び「異物」として見られる感覚が蘇るのを感じた。
彼らの間に流れる沈黙は、光也の存在そのものが、この世界の法則を揺るがすものであることを如実に示していた。
光也の介入によって強盗から救われた少女は、震える声で感謝を告げた。
「ありがとうございます……ほんとに、ありがとうございます」
彼女は小さな革袋を胸に抱きしめたまま、足早に闇の中へと消えていった。
少女の姿が見えなくなった瞬間、緊張の糸が切れた光也はその場にぐらりと倒れ込んだ。
全身から力が抜け落ち、視界が急速に狭まっていく。
もう意識を保つのがやっとだった。
その時、エルメラがそっと光也の肩に手を置いた。優しい聖職者の手が、彼の身体に温もりをもたらす。
「……私、エルメラ」
彼女の声は、疲弊した光也の耳に柔らかく響いた。
「あなた、すごく……怖かったのに、助けに入った。変な子だけど、嫌いじゃないよ」
エルメラは、光也の瞳に真っ直ぐな視線を送る。
そこに偽りはなかった。
光也は薄目を開け、その名を必死に覚えようとする。
「……エル……メラ……さん……」
口の中で、か細くその名を繰り返した。
その様子を冷めた目で見下ろしていたマリスが、沈黙を破る。
「ここで別れましょ。正体が不明すぎる」
グレンナも同意するように腕を組んで続ける。
「このまま関われば面倒なことになる」
だが、ティナだけは、まだ光也から目を離せずにいた。
「でも……こんなの、初めて見た」
彼女の鑑定スキルが示した「空白」は、冒険者としての長い経験の中でも前例のない異常事態だった。
エルメラは、そんな仲間たちの言葉を遮るように、思わず口を開いた。
「この子、今夜は一人じゃ危ないよ。ねぇ、マリス、泊めてあげよう?」
彼女の言葉には、理性より感情が先立っていた。
マリスは眉一つ動かさなかったが、数秒の思案の後、静かに頷いた。
「……わかった。けど、一応こちらで保護する形にする。"念のため"、ね」
ティナは、その言葉の裏を探るように問いかける。
「あくまで"監視"じゃないの?」
マリスは視線を光也に向けたまま、小さく頷いた。
「まあ……保護と警戒は、同義よ」
その言葉は、彼らの判断基準があくまでも「危険管理」にあることを示していた。




