第33話 理性を超えた衝動
王宮の中庭に、捜索を終えた数名の部下が戻ってきた。
彼らの顔には疲労と焦燥が色濃く浮かび、朝からの厳しい任務の過酷さを如実に物語っていた。
彼らはフィオナの前に整列し、報告を始めた。
「……旧市街、クレイン通り裏の廃屋周辺で……小柄な影を目撃したという証言が複数……。確証は、ありません」
報告は慎重な言い回しに終始した。
だが、その言葉の端々からは、わずかながらも手掛かりを得たという期待が滲んでいた。
フィオナは報告を聞き終えると、静かに椅子から立ち上がった。
その所作は穏やかでありながら、周囲の空気が凍りつくほどの重みを帯びていた。
鋼鉄の意志を宿したような視線で部下たちを制し、微かに唇を開く。
「──そこへ、すぐ騎士団を」
その声は絶対的な命令として響き渡った。
「全員は動かさない。精鋭を少数。速く、静かに」
「"囲む"のではなく、"包む"のよ。音を立てずに」
その言葉は命令でありながら、どこか祈りのような響きを帯びていた。
部下たちはフィオナの言葉に一礼すると、風のように去っていった。
ざわめきが遠ざかり、フィオナの周囲には再び静寂が戻った。
*
時刻は真夜中を過ぎていた。
王都を覆う湿った夜霧が煤けた建物の輪郭をぼやかし、遠いガス灯の光を滲ませていた。
空気は骨の髄まで冷え切り、淀んだ排水の臭いと、冬風に運ばれてくる家畜の匂いが混ざり合っていた。
それは王城の清浄な空気とは対極にある、生々しく荒んだ匂いだった。
場所は王都最下層の貧民街の外れ。
人の往来は完全に途絶え、静寂を破るのは、どこかの家から漏れる赤子のすすり泣きと、風にゴミの転がる乾いた音だけだった。
濡れた石畳がわずかな光を鈍く反射し、黒い鏡のように闇を映していた。
崩れかけたレンガ塀と積み上がったゴミの山の隙間。
その物陰に、光也は息を殺して身を潜めていた。
城を抜け出して数時間、彼の身体はすでに限界を迎えていた。
身にまとうのは、泥と汚れで本来の色を失ったボロ布。
王城で与えられた絹の服とは比べるべくもなく、寒さを防ぐことさえできない。
手足の感覚は失われつつあり、かじかんだ指で必死に腕を抱いている。
空腹で胃が刺すように痛み、痙攣が全身を小刻みに揺らしていた。
「寒い……腹が減った……」
肉体的な苦痛が思考を鈍らせる。
自分の心臓の鼓動が耳に響き、それが追手の足音に聞こえて何度も身を硬くした。
頭の中には、ただ一つの言葉がこだましていた。
「大丈夫だ、ここまで来れば……。あの屋敷の連中も、こんな掃き溜めまでは追ってこないはずだ。誰にも見つかるな。息を殺せ。そうすれば、明日からは……明日からは、自由になれるんだ……」
「自由」という言葉が、凍えた唇から無意識に漏れる。
それは彼にとって唯一の希望であり、ここまで突き動かしてきた強迫観念に近い祈りだった。
しかし、その「自由」が具体的に何を指すのか、今の彼にはもう分からない。
ただ、あの息苦しい場所から逃れること、それだけだった。
ふと、視線の先の袋小路から人の争う声が聞こえてきた。
闇夜に、ガラの悪い男たちの押し殺した威圧的な声が響く。
「おい、さっさと出せって言ってんだろ!」
「金目のもんはそれだけか? 嘘つくんじゃねえぞ!」
その声を遮るように、か細いが必死な少女の声が響いた。
「やめて……! お願いします、これだけは……! 母の、母の薬なんです……!」
光也は反射的に身を深く隠した。
濡れた石畳に顔を伏せ、視線を凝らすと、体格の良い男二人が一人の少女を取り囲んでいた。
一人は小太りで脂ぎった顔、もう一人は痩せて目つきの鋭い男だ。
少女は小さな革袋を、壊れ物のように胸にきつく抱きしめている。
「関わるな。見つかるぞ。俺には関係ない」
光也の理性が警告する。
自由を手に入れるためには、目立つわけにはいかない。
見て見ぬふりをして、奴らが去るのを待つのが最善策だ。
そうすれば、明日には自由になれる。
しかし、少女の「薬なんです……!」という悲痛な叫びが、耳の奥で反響した。
「……薬。…………母親のための……。」
その一言が、光也の理性のタガを外した。
飢えと寒さで動かないはずの体が、衝動に突き動かされて地面を蹴った。
もつれる足を必死に動かし、よろめきながら物陰から飛び出す。
「やめろッ!」
自分でも驚くほど大きな声が、裏路地の湿った空気を切り裂いた。
強盗の男たちと少女が、一斉に振り向く。
突然現れたボロ布の少年に、男たちは一瞬、何が起きたのか分からない様子で面食らった。
「あ?」
しかし、光也が武器も持たない非力な子供だと分かると、すぐに侮蔑的な嘲笑を浮かべた。
痩せた男が懐から錆びたナイフを抜き、その切っ先を光也に向ける。
「なんだこのガキ。正義の味方のつもりか? 死にてえのか、コラ」
少女は、突然現れた庇護者に驚きと恐怖、そしてわずかな希望が入り混じった目を向けている。
光也の手には何もない。
体格差は歴然。
全身の震えは、恐怖か寒さか、もはや判別がつかない。
だが、その瞳だけは飢えも恐怖も超越した、燃えるような光を宿していた。
一歩も引かない。
(ここで死ぬかもしれない。必死に逃げ延びてきた全てが無駄になる。それでも、この光景から目を背けることはできなかった。あの時、何もできずに見ているだけだった後悔を、二度と繰り返したくなかった。)
光也は震える声で、しかしはっきりと、一言一句を絞り出すように叫んだ。
「その人を、放せ。……俺が持ってるもの、全部渡すから。だから……頼むから、見逃してやってくれ」
自分には渡せるものなど何一つない。
王城で与えられたものは、すべて置いてきた。
それでも、それが彼の精一杯の虚勢であり、今の彼にできる唯一の抵抗だった。
夜霧に溶けそうな闇の中、光也の小さな身体は、少女を守る盾として、二人の男の前に立ちはだかっていた。