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第32話  夜明けの王都


夜明け。


まだ青白い空には薄靄が漂い、王都全体がぼんやりとした輪郭を見せていた。


本来なら一日が始まる前の穏やかな時間であるはずが、今日は違った。



王城の周囲では、警備兵たちが慌ただしく駆け回り、彼らの足音と、金属の擦れ合う音が早朝の静寂を切り裂いていた。


港では臨時の検問が突如として始まり、船の出入りが厳しく制限された。


出港を待つ船乗りや荷物を運ぶ市民たちの間から困惑の声が漏れ始め、それは小さな波のように広がっていった。



その頃、城下町の市場では露店が開き始めていた。


まだ人影もまばらな群衆の中に、一人の少年が紛れ込んでいた。


深くフードをかぶり、粗末な外套を羽織ったその姿は、周囲の景色に溶け込もうとしているかのようだった。


光也は、まるで何事もないかのように、人々の間を縫うように歩を進めた。



彼の心臓は高鳴ったままだった。


冷たい夜風に吹かれながら城壁を越え、石畳の小道を走り抜けてきたのだ。


慣れない運動に肺がひりひりとした。


しかし、それ以上に彼の心を満たしていたのは、未知の場所への解放感と、見つかるかもしれないという切迫した恐怖だった。


(見つかるな……騒ぐな……)


昨日まで彼の心を支配していたのは、豪華な檻の中での絶望だった。


しかし、今は違う。


冷たいアスファルトの感触、朝食の準備で漂う薄い出汁の香り、そしてどこからともなく聞こえる庶民たちの話し声。


その全てが彼には新鮮で、まるで「自由」の香りを含んでいるかのようだった。



誰にも知られず、誰にも縛られず。



光也の小さな身体は、希望と不安の間で揺れながらも、確かに前へと進んでいた。


彼の歩みは、まだ秩序も安寧も約束されていない、混沌と自由の狭間へと向かっていた。


彼が踏み出したその一歩が、この王都の静かな日常に、小さな、しかし確かな崩壊の波紋を広げ始めていた。







光也の部屋を出たフィオナは、無言のまま執務室へと戻った。



重厚な扉が背後で静かに閉まり、その音だけが部屋の静寂に吸い込まれていった。


中央の長机に、慣れた手つきで王都の巨大な地図を広げる。


手袋を外す所作もまた、完璧なまでに整然としていた。


無駄な動きは一切なく、その表情は感情というものが存在しないかのように平坦で読めない。


数秒後、控えめなノックと共に、侍従長、騎士団の連絡係、そして情報組織の報告官が次々と入室してきた。


彼らの顔には、事態への緊張と、王女の次なる言葉への警戒が張り詰めていた。


部屋の空気は刃のように冷たかった。



フィオナは地図に視線を落としたまま、淡々と告げた。



「ひとり、子どもが姿を消しました。探索を開始します。対象の特性から、全区域への連絡を前提とします」



その言葉は彼らの予想をはるかに上回る発令だった。


ざわめきが生じ、騎士団の副長が控えめに問いかけた。



「……そこまでの措置を取る必要が……?」



フィオナは言葉を切らず、即座に返答した。


その声には一切の迷いがない。



「必要です。放置すれば二次被害の可能性がある。行動傾向、地理認識、身分――"目立つ"より"溶ける"方を選ぶ人間です。そういう者は、王都で最も見つけにくい」



その冷静な判断力に、全員が再び黙り込んだ。


彼女はすでに光也の行動を読んでいた。


感情を挟まず、ただ事実と論理だけで物事を捉える、管理者としてのフィオナの顔がそこにあった。



フィオナは自ら地図上にペンでポイントを記しながら、指示を出した。



「まず貴族街から外れた旧市街の廃屋群。次に地下道と接続している三つのエリア。"階層が多く、監視が薄い場所"を重点的に。外部へ向かった可能性は……低い。今は、まだ」



情報官が補足する。



「近衛の記録では、深夜の動きは不審なし。扉は開錠され、足跡もなし。おそらく"計画的"です」



フィオナは頷いた。



「その通り。衝動ではない。だからこそ、通常の手順では追えない。捜索は広範囲・非公式ルートを含める。裏手の商業組合、元冒険者筋にも連絡を」



一人の年配の侍従が、声を潜めて問うた。


その言葉には、事態の収拾と不測の事態を避けるための懸念が滲んでいる。



「……対象は、いずれ戻ってくるのでは? この規模の動員は、"公的に動かす理由"が必要かと」



フィオナは即答した。


その眼差しは凍えるように冷ややかだった。



「動員の理由は、"内部での情報遮断"です。城内からの消失。責任はここにある。それ以上の説明は不要」



その言葉には「それ以上の言葉は許さない」という絶対的な意志が込められていた。


部屋にいる全員が、女王としてではなく、純粋な"管理者としてのフィオナ"の顔を見た。


彼女の指示は、もはや疑問を挟む余地のない、鉄の掟だった。



フィオナは最後に、一人一人の顔を見据えて確認した。



「制限時間は十二時まで。それ以降は全域への通達。それまでに発見できなければ、次の段階に進む」



その「次」が何を指すのか、誰も問おうとはしなかった。


空気は極度の緊張に満ち、全員が即座に動き出し、王都の広大な迷宮へと散っていった。




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