第31話 静寂の中の崩落
王城の広々とした食堂には、朝の柔らかな光が厚手のカーテン越しに差し込んでいた。
フィオナ王女は、いつものように金色の縁取りが施された長テーブルに向かい、朝食へと静かに手を伸ばした。
銀のナイフとフォークが陶器の皿に触れる音すら、微かにも聞こえない。
彼女の前には精緻に盛り付けられた焼きたてのパンと、艶やかに輝く果物が並び、光沢あるティーカップからは細い湯気が立ち昇るばかり。
完璧に管理された、いつもと変わらぬ朝の食卓。彼女は一口ずつ、ゆっくりと食事を進めていた。
その静寂を、突如として乱暴に開かれる扉の音が切り裂いた。
「こっ、光也様が……お部屋にいらっしゃいません!」
顔面蒼白になった使用人の少女が、息も絶え絶えに部屋へ飛び込んできた。
その声には恐怖と混乱が滲んでいた。
フィオナの手がぴたりと止まった。
彼女は顔を上げない。
永遠とも思える沈黙が数秒流れた。
やがて、フィオナはわずかに目を細めて、静かに呟いた。
「……もう一度、確認を」
使用人は震える声で続けた。
「何度呼びかけても応答がなく、鍵もかかっていませんでした。あと……記章が置かれていて……」
その言葉に被せるように、別の兵士が小声で報告を入れた。
「城門・外門の記録に光也様の通過履歴はございません。……つまり、警備網の外から──密かに、抜け出された可能性が高いかと」
フィオナは静かに椅子を引いた。
「……私が見に行く」
フィオナの声は氷のように冷たく澄んでいた。
そこには怒りも焦りも、焦燥の色さえも見えない。
だが、その場にいる誰もが理解した。
それは感情を押し殺した、静かな震えなのだと。
彼女の内部で何かが静かに、しかし決定的に崩れ落ちる音を、彼らだけが感じ取っていた。
*
光也の部屋の扉が、ゆっくりと開かれる。
フィオナは付き人たちを伴わず、一人で部屋の中へ足を踏み入れた。
誰もいない部屋には淡い朝の光が窓から差し込み、床に斜めの影を落としている。
光也の気配は、もうそこにはなかった。
フィオナの視線が、部屋の中を静かに巡る。
散らかった机の上では、インクの染みの付いたノートが開かれたまま、過去の彼を置き去りにしているようだ。
小さな木箱が開けられ、その中には光也が常に身につけていたはずの記章が、決別の証のように丁寧に置かれている。
ベッドには彼が眠っていた証の寝癖の跡だけが残され、枕元では一枚の紙切れ──地図の切れ端が風に揺れていた。
フィオナは無言のまま部屋を一周し、机の前で立ち止まる。
冷たい指先でノートの角をそっとめくり、書きかけの文章に触れる。
そこには王都の外にある街の名前──「ミュレア村」が記されていた。
彼女の視線がその地名に留まる。
小さく、彼女の唇から吐息が漏れた。
その音に自身が驚いたように、わずかに目を伏せる。
フィオナの指が微かに震え、ゆっくりと拳を握る。
だが、それは机を叩きつけるためではなく、自らの胸に押し当てるためだった。
彼女は目を閉じた。
心の奥に渦巻く感情──それは怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからない。
ただ一つ確かなのは、「彼は黙って去った」という事実。
そして、これまでの全てが、彼には「檻」としか映っていなかったという、残酷な真実。
フィオナは、再びそっと目を開く。
「……どこまでが私の過ちだったのかしら」
その呟きは誰にも聞こえなかった。
朝の光が窓から差し込み、彼女の無表情な横顔を無慈悲に照らしていた。
光也の部屋の扉が閉ざされると、廊下には重い沈黙が満ちた。
側近や女官、兵士たちは皆、沈痛な面持ちで扉の前に立ち尽くしていた。
彼らの視線は、扉の奥、光也が去った空間へと注がれたままだった。
その沈黙の中、フィオナが部屋からゆっくりと姿を現す。
その顔からは感情の機微を読み取れないものの、纏う空気はこれまで以上に張り詰めていた。
彼女は静かに呼吸を整え、誰も見据えることなく、ただ前を向いたまま、低く冷静な声で命令を下した。
「……王都全域を封鎖なさい」
響く声は冷徹な響きを帯びていた。
その抑えた語気には確かな圧があった。
それは怒りや威圧ではなく、決意に裏打ちされた沈黙のようなものだった。
「門の監視を強化して。港も含めて」
彼女の言葉一つ一つが、廊下の空気を凍らせていく。
命令を受ける兵たちはフィオナの背越しに立ち、一瞬息を呑んだ。
彼女の言葉が王都に厳重な警戒網を張ることを意味していると、彼らは瞬時に理解した。
「──絶対に逃がさないように」
最後の言葉は、祈りのように、あるいは呪いのように、廊下の隅々まで染み渡った。
女官たちは動けないままその場に立ち尽くしていた。
彼らの目に映るフィオナの背中は、冷たく、あまりにも美しい彫像のようだった。
だが、その背を見つめたまま、ひとりの女官が心の中でつぶやく。
(……あの方の声が、かすかに揺れていた……)
それは彼女にしか聞こえなかった、わずかな音だった。
まるで張り詰めた弦が、その限界で微かに震えるような、そんな儚い音が聞こえた気がしたのだ。




