第3話 黒い夜の幕開け
夜。
天城光也の部屋は、きちんと整えられていた。
ベッドの端には畳まれた制服、棚には学年トップの証である表彰状やトロフィー、そして壁際の本棚には、整然と並んだライトノベル。
その中から今夜選んだのは『俺だけLv999の村人ですが?〜竜王倒して辺境開拓ライフはじめます〜』という一冊。
ページをめくる音だけが、部屋の静寂を切り取っていた。
──戦い。
──冒険。
──出会いと別れ。
──熱いセリフと、涙のクライマックス。
読後感は爽快だった。でも、どこか……虚しさが残る。
光也は本を胸の上に置き、天井をぼんやりと見上げた。
カーテンの隙間から、夜の光が細く差し込んでいる。
時計の針は、もうすぐ深夜を指そうとしていた。
「……もしも、異世界に行けたら――」
思わず、呟いた言葉。
誰に聞かせるわけでもなく。
ただ、想像の向こうにいる"もう一人の自分"に向けて。
「魔法? OK。剣術? 余裕。モンスター退治? たぶん感覚でいける。ステータスオールAの主人公枠、俺、いけると思うんだけどなぁ……」
くすっと、自嘲めいた笑みが漏れた。
自信じゃない。
根拠のない確信に近い。
それは過去の積み重ねが形作った、どこか"重さ"のない信念だった。
「たぶん俺、転生しても……無双する。けど、たぶんそれだけじゃ満たされないんだろな」
光也は、ベッドに体を沈めた。
天井の四角い蛍光灯の輪郭が、ぼやけてにじんでいく。
「こんなふうに、日々が平和で、才能に恵まれて、家族も優しくて、なのに――心の奥で、俺は"刺激"を求めていたんだ」
誰かと全力でぶつかりたい。
傷だらけになっても、それでも立ち上がりたい。
自分の限界を、自分の手で超えてみたい。
「誰かを助けたい。誰かに必要とされたい。褒められるためじゃなく、心が震えるような何かのために。俺が本当に欲しいのは、"勝つこと"じゃない。本気になれる、"意味"なんだ」
静かな夜。
カーテンの向こうで風がそっと鳴る。
光也の瞳は、もう一度だけ天井を見つめた。
「明日も、また普通に起きて、普通に完璧で、普通に笑って、普通に、満たされないまま過ごすんだろうな」
そう思った瞬間だった。
遠くで雷のような、でも機械音にも似た「何かが始まる音」が、ほんの一瞬だけ空気を震わせた。
光也は、それに気づかなかった。
──ただ、もうすぐ彼の"普通"が終わる。
世界が、動き出そうとしていた。
夜の風が、何かを警告するかのように吹き荒れていた。
*
街灯が軋み、光がぐらつく。その下に立つ少年の影も、ゆらりと地面に揺れている。
天城光也は、手に持った鞄を握り直した。剣道の稽古を終え、いつものように家路についた。だが、何かが違う。息を吸い込むだけで、喉の奥がざらついた。
自宅の門が半開きになっている。無人のはずの玄関から、かすかに光が漏れていた。
「……ただいま」
声をかけてから扉に手をかける。返事はない。
ギィ……
軋む音とともに扉が開くと、異変が目に飛び込んできた。
玄関の床に、靴が散乱している。母のサンダルが片方だけ、ぽつんと廊下の真ん中に転がっていた。
「……お母さん?」
口の中が急速に乾いていく。
足を踏み出すたびに、フローリングが軋む。その音が異様に大きく響く。
照明は点いている。だが、家は異常なほど静かだった。
まるで誰も住んでいない、時間が止まった空間に迷い込んだような感覚。
「父さん……みく?」
妹の名を呼ぶ声が、かすれていた。
廊下の奥――壁に、赤黒い染みが飛び散っていた。
一瞬、理解が追いつかない。だが、鼻の奥に広がる鉄臭さが、否応なく現実を引き戻してくる。
それは、血だ。
思わず足が止まる。心臓が鼓動を早め、呼吸が浅くなる。
目を逸らしたくても逸らせない。見なければいけない気がした。
リビングのドアがわずかに開いていた。中の明かりがちらついて見える。
蛍光灯の光が、壊れた蛾のように不規則に瞬いていた。
その隙間から、倒れた家具の影が見えた。
ドアに手をかけ、震える指でゆっくりと押し開ける。
そして――
ソファが横倒しになっていた。
ガラステーブルは砕け散り、鋭い破片が床に散らばっている。
その床一面に広がる、異様な赤。
花瓶が転がり、赤い液体と水が混ざって薄く伸びている。
壁には、誰かが暴れたような跡。ナイフのような凶器で刺された痕が、深く残っていた。
「…………!」
息が止まる。胸が強く締めつけられる。
誰もいない。けれど、確かにここで何かが起きた。
惨劇が――数分前まで、この家で。
ふらつく足で、光也はリビングの中心へと進む。
そこに、赤い液体の中に落ちていたものがあった。
それは、小さな髪飾り。白いリボンに、うっすらと血がついていた。
「……みく……?」
その名をつぶやいた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
喉の奥から熱がこみ上げる。けれど、涙はまだ出ない。現実を受け入れるには、あまりにも理解が追いつかなかった。
ただ、一つだけ確かだった。
この家に、破壊と死が訪れたということ。
息を吸った。鼻腔に残る血の匂いを、意識から消そうとする。だが無理だった。
音もなく、光也はその場に膝をついた。
「っ……!」
嗚咽が喉を裂くように漏れた。拳が、ぎゅっと握りしめられる。
何が起きた? 誰が? なぜ?
わからない。けれど――
「俺が……」
拳が床に触れた。破片が手の平に刺さって、血が滲んだ。それでも、構わなかった。
闇に包まれた部屋の中で、少年の中に、確かな"何か"が芽生えていた。
それは、正義の炎か。あるいは、復讐の影か。
光也の瞳に、静かに揺れる炎が灯った。
「当たり前」は、脆い。
光也のように全てを持っていた少年が、突然「何も持たない者」になったとき、そこに残るのは空虚か、それとも怒りか。
第三話では、彼の人生に初めて「喪失」という色が塗られました。
次回から、光也の心に宿った新しい"感情"が、彼をどこへ導くのか。
その行方を、ぜひ見届けてください。
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