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第29話 逃走


真夜中、光也の豪華な部屋は完全な静寂に包まれていた。


窓から差し込む月明かりだけが、天蓋ベッドのシルクのシーツや磨かれた家具の影を長く伸ばしている。


外の城下町の明かりは、遠くで瞬く星のように小さく、手の届かない場所にあることを示していた。



光也はベッドに腰掛けたまま、やがて静かに立ち上がり、窓辺に寄り添った。


彼の目は遠くの街の灯りを捉えているが、その瞳には何の光も宿っていない。


食堂で浴びた視線が、まだ背中に冷たく突き刺さっていた。



「これはもう……贅沢な牢獄だよな」



彼の小さな声は囁きに近く、部屋の空気に溶けてしまいそうだった。


自嘲するように続ける。



「僕、何か大事な役割があるわけでもないのに、こんな扱いされて……」



彼の言葉には深い絶望が滲んでいた。この城での日々が、まるで自分を蝕む毒のように感じられる。



「まさか"何か"に変わるのを待たれてる……?」



頭の中で、文官の言葉が響く。


「スキルを持たず生まれた者など、かつて一人も存在しませんでした」


光也は、自分がただの「サンプル」として、この豪華な檻に閉じ込められているのだと、確信し始めていた。


この先の見えない恐怖が、彼の胸を締め付けた。







同時刻、王城の奥深く、フィオナの執務室。



書物が山と積まれた重厚な部屋には、小さなランプの明かりだけが机の上をぼんやりと照らしていた。


部屋全体は深い森の中の静寂のように音一つしない。


フィオナは執務机に座り、一枚の古びた羊皮紙をじっと見つめていた。


その表情は相変わらず感情の機微を読み取れず、まるで完璧な彫像のようだったが、微かに深い疲労の色が漂っていた。


彼女の指先が無意識のうちに羊皮紙の端をなぞる。



控えめに扉を叩く音が響き、側近の一人が静かに入室してきた。



「王女殿下、よろしいでしょうか」



フィオナは小さく頷いた。


側近は、その表情から何も読み取れないにもかかわらず、どこか緊張した面持ちで口を開いた。



「彼に何か特別な力があるのですか? それとも……ただの好意ですか?」



側近の言葉には、城内のざわめきと同じような答えを求める疑問が込められていた。


フィオナは答えなかった。


ただ無言で、机の端に置かれた古びた一冊の本に視線を落とす。


その表紙は長年の使用で擦れ、かろうじて『召喚記録 第一章:欠陥なき者』と記されているのが読み取れた。



側近が困惑したように重ねて問う。



「……なぜそこまで?」



フィオナは何も答えなかった。


ただ視線だけをゆっくりと窓の外へ向け、街の灯りが瞬く闇の彼方を見つめた。


遠くの灯りは、一つ一つが異なる人生の物語を抱えているかのようだった。


そして、ほとんど聞こえないほどの小さな声で呟いた。



「……別に」



彼女の言葉は氷のように冷たかった。


しかし、その無感情な瞳の奥底には遠い光が宿っているように見えた。


それは諦めにも似た諦観か、あるいは何かを護ろうとする強い意志の表れなのか。





真夜中。


月が空高く昇り、光也の部屋は完全な闇に包まれていた。


わずかな月明かりだけが窓から差し込み、天蓋ベッドのシルクのシーツを青白く照らしている。


外は静まり返り、風の音すら聞こえない。


城全体が深い眠りについているかのようだ。



光也はベッドの上でうつ伏せになり、絹の枕に顔を埋めていた。


彼の身体は小刻みに震え、瞳からは熱い涙が止めどなく溢れ出る。


喉の奥から、小さな嗚咽が漏れた。


(これは優しさなのか? それとも、ただの檻なのか? どちらにしても、もう耐えられない……)


彼の心の中で、これまでの抑圧と孤独が幾重にも積み重なり、ついに限界を迎えていた。


食堂で浴びた視線、訓練から排除された屈辱、そしてフィオナの感情のない「優しさ」が、彼を追い詰めていた。



静かに起き上がり、裸足で冷たい床に降り立つ。


床板のひんやりとした感触が、彼の決意を一層強くした。


部屋の隅々を見渡すと、そこには彼自身のものが何一つない。


ただ、誰かが用意した完璧な「サンプル」のための空間があるだけだった。


これ以上、ここに留まる意味はない。



光也は、まるで何かを探るように、そっと窓辺へ近づいた。


窓枠に手を伸ばすと、奇妙な細工が施された鍵に触れる。


一見すると鍵がないように見えるその仕掛けは、特定の箇所を押すとカチリと小さな音を立ててロックが外れる。


誰かが、彼が外に出られないように、しかし彼が「気づかない」ように仕掛けた巧妙な罠だった。



(これは檻だ。金色の、柔らかくて、静かな――でも、間違いなく檻だ)



窓を開けると、ひやりとした夜風が頬を撫でた。


その冷たさが、彼の心を覚醒させる。自由への衝動が、全身を駆け巡った。



光也は誰にも見つからないよう、細心の注意を払いながら音もなく部屋を出た。


広すぎる廊下は巨大な洞窟のように静まり返っている。


裸足の足音が心臓の鼓動と同じように大きく耳元で響く。


使用人に見つかる恐怖と、ここから逃げ出したいという強い衝動が、彼の全身を交互に支配していた。



城の内部構造は滞在中に頭に叩き込まれていた。


彼は最も人目につきにくい場所を知っていた。


それは城の裏側にある物資搬入用の古い通路だった。


朽ちかけた石段が不規則に並び、長年使われていないためか、隙間から草木が生えている。


湿った土の匂いが鼻をつく。


彼はその石段を慎重に降り、奥にある城壁の小さな亀裂を見つけた。


子供の彼がようやく通れるほどの狭い隙間だった。


体をねじ込み、土と埃にまみれながらも、必死でその隙間を抜ける。



ついに、城の裏庭へと出た。



満月が空高く輝き、庭園の木々と遠くの城下町の屋根をくっきりと浮かび上がらせていた。


冷たい夜風が容赦なく頬を打つ。


振り向くと、巨大な城が闇の中にそびえ立っている。


その輝かしい外観とは裏腹に、彼にとってはまさしく「贅沢な監獄」だった。



光也は振り返ることなく、城下町へ向かって走り出した。


心の中で、彼自身の声が響く。



「逃げなきゃ……。この"優しさ"から、僕は自由にならなきゃ」



彼の目の前には未知の世界が広がっている。


飢えや寒さ、人々の冷たい視線が待ち受けているかもしれない。


しかし、そこには「管理」も「監視」もない、本当の自由があるはずだと、彼は信じていた。


彼の小さな身体は、希望と恐怖を抱えながら、闇の中へと消えていった。


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