第28話 噂と自己喪失
昼間の喧騒が嘘のように、中庭は静まり返っていた。
太陽は西の空に傾き、城壁に長い影を落とし始めていた。
涼やかな風が吹き抜け、遠くでは使用人たちが門を閉める重い音が響いた。
フィオナ王女は、中庭の古びた石像の近くで、初老の騎士、アグリオスと静かに向き合っていた。
彼の甲冑は夕陽を受けて鈍く輝き、長年の経験が刻んだ深い皺が顔に刻まれていた。
厳格な表情は柔らかさを帯びていたものの、フィオナを見つめる眼差しは真剣そのものだった。
「王女殿下。あの少年に、なぜそこまでの贅沢を? この国の貴族たちでさえ、あれほどの待遇は――」
アグリオスの言葉には、光也への過剰な配慮に対する城内の不満が滲んでいた。
彼は王女の行動が理解できないと、率直に問いかけていた。
フィオナは、アグリオスの視線を受け止めず、遠く夕焼けに染まる地平線を見つめていた。
彼女の顔からは、相変わらず感情を読み取ることができない。
その声は静かでありながら、確固たる意志を感じさせた。
「贅沢な暮らしをさせれば、人は満たされ、そこから出ようとは思わない。――檻であることに気づかせずに閉じ込めるには、それが一番なのです」
アグリオスは、フィオナの言葉に驚いたように眉をひそめ、無意識に一歩後ずさった。
彼の顔に、かすかな動揺が走る。
「……監禁ということですか?」
フィオナはゆっくりと目を伏せた。
長い睫毛が影を落とし、その表情は依然として冷たい仮面のままだった。
しかし、その静けさの奥には、どこか深い悲しみが潜んでいるようにも見えた。
彼女の口から紡がれる言葉は、まるで他人の台詞のようだった。
「そうではありません。ただ……外へ出ようとすれば、彼は傷つきます。あの子は、まだ知らないのです。彼の存在が、どれほど脆い均衡の上にあるかを――」
彼女の言葉はそこで途切れた。
アグリオスはそれ以上何も言わず、重い沈黙が二人を包み込んだ。
フィオナの真意は、完全には理解できないまま、深い謎として残された。
彼女の視線の先では、城下町の灯りがぽつりぽつりと灯り始めていた。
それは、光也がまだ知らない、外の世界の明かりだった。
*
夕食の時間、城内の食堂は昼間とは異なる活気に包まれていた。
煌々と灯る魔石のランプが広間を暖かく照らし、城の衛兵や他の転生者らしき若者たちが、あちこちのテーブルで食事を囲んでいた。
楽しげな話し声が響き、ビュッフェ形式のカウンターからは香ばしい肉料理と彩り豊かな野菜の香りが漂ってきた。
窓の外はすっかり暗く、星が瞬き始めていた。
光也は自分の部屋で一人で食事を摂ることもできた。
いつも通り、使用人が完璧に整えた食事を人目を気にせず食べられたはずだ。
しかし、どこかに繋がりを求めて、光也は意を決して転生者たちが集まる食堂へ足を踏み入れた。
しかし、彼が食堂の入り口に立った瞬間、広間を埋めていたざわめきがぴたりと止まった。
まるで魔法をかけられたかのように、全ての会話が途切れ、皿とフォークが触れ合う音さえ消えた。
視線が磁石に引き寄せられるように一斉に光也へと向けられた。
好奇、警戒、そして明確な嫌悪――様々な感情が混じり合ったそれらの視線が、彼の全身を突き刺した。
光也はその場に立ち尽くした。
少し離れたテーブルで、数人の転生者たちのひそひそ話が、静寂の中で妙に大きく響いた。
「あれが……あの子か」
「王女の……お気に入りなんでしょ? なんか裏があるって噂だよ」
「スキルもないのに、特別待遇だってさ。ちょっと気持ち悪くない?」
彼らの声は、まるで指差すかのように、はっきりと光也の耳に届いた。
彼は誰かが声をかけてくれることを無意識に期待していた。
しかし、誰も彼に話しかけようとはしない。
ただ、好奇と嫌悪の入り混じった視線が、彼の全身を突き刺すだけだった。
(まただ。また僕だけ、特別なんだ。でも、これって本当に"特別扱い"なのか? むしろ、僕を他の皆から切り離すための「異物」の烙印じゃないか?)
彼の顔から血の気が引いていく。
喉の奥が詰まり、食事を摂る気力は消え失せた。
彼は震える指で持っていたスプーンを音もなく皿の上に置くと、そのまま踵を返し、来た時よりもゆっくりと、しかし確実に食堂から出て行った。
その背中にはまだ無数の視線が突き刺さっているのを感じていた。
食堂の扉が静かに閉まる音は、彼が完全にこの場所に「属していない」ことを、改めて告げているようだった。




