第23話 無謀な挑戦と現実
朝の世界は、まだ目覚めていなかった。
白くたなびく霧が、地を這うように森の入り口を包んでいる。
城の裏門を抜けた小道は、しっとりと濡れた草に覆われ、足を運ぶたびに微かな葉擦れの音を立てた。
鳥の羽ばたきが頭上でふっと響く。どこかの枝で眠っていた小さな命が、彼の気配に気づいて目覚めたのだろう。
空はゆっくりと白から青へと色を変えていた。遠く東の空に、淡い茜色が滲んでいく。夜が終わり、確かに「朝」が訪れようとしている。
光也は息を整えながら歩みを進めていた。左手には練習用の木剣。その柄を、右手でぎゅっと握り直す。
冷たい空気の中で、握る指先がかすかに震えていた。それは寒さのせいか、あるいは――不安のせいか、自分でも分からない。
(スキルなんかなくても、俺には……)
心の中に、ぽつりと声が落ちる。
("自分の体"がある。鍛えた反射、観察眼、地道に身につけた技術――これでやれるはずだ)
自信と不安が入り混じる思考の中で、それでも彼は一歩ずつ、確かな足取りで進む。
森はまだ彼を拒むでもなく、歓迎するでもない。ただ静かにそこに在る。
しばらく進んだところで、小道が樹々に呑み込まれそうになる直前、光也はふと足を止めた。
振り返る。
その先には、朝焼けの影を引きながらそびえる王城の塔。窓の一つひとつは眠ったままで、誰も彼の出発に気づく者はいなかった。
見送る声も、止める声もない――だが、それがむしろ彼の背を押していた。
「……行くぞ」
呟くように、小さく言ったその言葉。それは誰に聞かせるものでもない。ただ、自分に言い聞かせるように。
そして、彼は振り返ったままの姿勢を解き、前を向いた。霧はまだ濃いが、その向こうには新しい一日が広がっている。
不安も希望も、全て抱えて、その中へ――。
木々の間へと足を踏み入れた光也の姿は、静かに朝霧へと消えていった。
*
空が淡い群青色に染まりはじめる頃、城壁の見張り台にはまだ夜の名残が漂っていた。
夜勤明けの門兵――若い兵士が一人、片肘をつきながら退屈そうに森を見やっている。うつらうつらとまどろみかけた瞬間、霧の揺れる小道に人影が浮かび上がった。
「……ん?」
瞬間、眠気が吹き飛ぶ。兵士は身を乗り出して目を凝らした。
小柄な影。背中には袋、手には棒のようなものを携え、迷いなく森へと向かっていく。
(……あれ、"無スキル"のガキか?)
見間違いではなかった。異世界から来たというあの少年、光也だった。戦闘用スキルはおろか、すべてのステータスが軒並み平均以下の"空白の外れ"。その少年が、今、一人で――しかも武器らしきものは木剣一本だけで、森に入っていく。
「……ったく、正気かよ」
門兵は小さく舌打ちをして肩をすくめた。それでも職務として放っておくわけにもいかず、詰所へ向かった。
*
詰所には夜番の上官が一人、古びた木の椅子で居眠りをしていた。
「報告っす」
門兵の声に、上官は目を開け、無精髭を撫でながらあくびをかみ殺す。
「……ん。どうした?」
「さっきの異世界人の少年――光也とかいうやつが、一人で森に入っていきました」
その言葉に、上官は片眉を上げた。驚きというより、半ば呆れたような反応だった。
「……ほう? あの"スキル無し"が?」
「ええ。武装らしい武装もなく、木剣一本。荷物は小さな袋だけです。自殺志願か、夢見がちな坊ちゃんというところですね」
上官は椅子に深く身を預けたまま、頭を掻きながら言った。
「ま、どうせすぐ戻ってくるだろう。あの森は新人潰しで有名だからな。足をくじくか、魔物に追い回されて泣きながら帰ってくるさ」
門兵は苦笑を浮かべた。
「それとも……帰ってこないかも?」
上官の目が細くなる。だが、すぐにそれも興味を失ったようにため息に変わった。
「生存確認だけしてやれ。面倒は避けたい」
「了解です」
門兵は軽く敬礼し、再び階段を上がっていった。その背に、上官の声が夢うつつの中から漏れるように追いかける。
「無スキルのくせに、何をしに行くつもりなんだか……」
言葉は嘲りに似ていたが、声に込められた感情は薄かった。
城にとって彼は"特別な誰か"ではない。あくまで外れの一人。
そんな少年が森へ入ったこと――それは、この朝の光の中で消えていく、取るに足らない泡沫にすぎないと、誰もがそう思っていた。
*
朝の光が柔らかく王宮の窓を満たしていた。
書斎の空気は凛として静謐だった。高い天井。重厚な書棚。香の微かな煙が天井へと立ち昇る。
フィオナは肘掛け椅子に深く身を預け、膝の上に開かれた厚い本のページをゆっくりと指でなぞっていた。
彼女の長いまつげは伏せられ、唇は固く閉ざされている。全ての感覚が思索の中へと沈んでいた。
――コッ
控えめに扉が叩かれた。
フィオナは目を上げず、静かにひと呼吸置いて返した。
「入りなさい」
扉が開き、若い兵士が緊張した面持ちで入室する。
額には薄く汗が滲み、指先は不自然に揃えられ、礼の姿勢さえぎこちない。
「姫様、失礼いたします。……ご報告がございます」
フィオナは本から目を離さず、指先で紙の端をなぞりながら応じた。
「……なに?」
その声には温度も感情もなく、機械のように整然とした響きだった。
兵士は喉を微かに鳴らし、言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「"無スキル"の異世界人、光也殿が……今朝、裏門から森へ向かいました。単独行動です」
しばしの沈黙。
その時間は短かったが、妙に重く感じられた。
フィオナは視線を落としたまま、読んでいた行をゆっくりとなぞり終え、小さく、吐息のように呟いた。
「……そう」
それだけ。
語尾に抑揚はなく、まるでどうでもいいことのように。
兵士がその反応に戸惑いを覚えた瞬間、その場の空気が一変する。
ぱたん。
本を閉じる音が、書斎に乾いた響きを立てた。
フィオナはゆっくりと椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
朝霧に包まれた森。その奥に消えたであろう少年の姿を思い描く。
(……一人で、森に?)
彼女の内心に、冷たい水滴のような感情が落ちた。
(馬鹿ね)
そう呟いた口元が僅かに揺れる。怒りでも慈悲でもない。
ただ、予期せぬ事態への、わずかな苛立ち。
フィオナは踵を返し、背後に控えていた二人の近衛兵――金髪の剣士エリックと、短槍使いのミーナに簡潔に命じた。
「エリック、ミーナ。すぐに森を捜索。彼の足跡を追って」
二人は一礼し、影のように音もなく部屋を後にした。
出入口に残った兵士が、困惑した様子で声を上げる。
「……姫様も、向かわれるのですか?」
フィオナは迷いなくその問いに答えた。
「あとで、私も行く」
その言葉に偽りはない。淡々としているからこそ、揺るぎない意志が感じられた。
再び彼女の視線は窓の外へと戻る。
朝の陽光に滲む森の奥。その先に、若く、未熟で、無謀な"異世界人"の背が消えていった。
("何もない"者が、何を証明しようとしているの……?)
その疑問は呆れに似ていた。だがそこには確かに、芽生えかけた関心があった。
風がカーテンを揺らす。
その音だけが、静寂の書斎にさざ波のように残った。