第21話 孤独な部屋と揺るぎない記憶
陽が傾きはじめた城内の一角。
そこは誰の目にも触れぬ、使われなくなった古びた部屋。
壁には色褪せたタペストリーがかかり、窓辺のカーテンは埃を纏って薄灰色に沈んでいる。
書棚は空っぽで、暖炉にも火は入っていない。
そんな寂れた待機室で、光也は一人、ぽつねんと腰を下ろしていた。
ただ虚ろに床を見つめ、時の流れすら感じることなく。
誰にも必要とされず、どこへも行き場がなく、まるで"この世界"そのものから忘れられたような静寂。
コン、コン――
扉を叩く音が、その沈黙を破った。
「……どうぞ」
声を出すのも久しぶりな気がした。
現れたのは、王城付きの使用人らしき青年。丁寧に礼をし、紙ではなく口頭で淡々と告げる。
「コウヤ・アマギ殿。王女殿下のご意向により、しばらくの間、殿下のご判断を仰ぐこととなりました」
光也は返事を忘れていた。
「…………」
まるで聞き間違いか、幻を見たかのように、ただ目を瞬かせる。
そして、ようやく言葉が零れる。
「……殿下? フィオナ王女が……俺を?」
確かにそう言った。"判断を仰ぐ"――つまり、自分の未来は、あの王女の手に委ねられたということか。謁見の間で、あれほど冷たい目で睨んできた彼女が。
「……なんで……?」
喉の奥で呟いた声は、自分にすら届かないほど小さかった。
まるで浮遊する霧の中にいるように、現実感が遠ざかっていく。
──内なる声が、かすれた思考の中でぼやけては浮かぶ。
(あれだけ睨んできたのに……今度は庇ってくれるのか?)
(それとも……俺を見張るため?)
胸の奥に冷たい感情が広がる。
希望でも安堵でもない。
ただ、不安と混乱の渦。
"待機"と言われ、誰にも期待されず、見放されたはずの自分が、突然、"王女の判断に委ねられた"。
理解できない。
だが、否応なく、物語は――自分の知らぬところで動き始めていた。
使用人は黙礼すると、音もなく部屋を後にした。
再び静寂が満ち、蝋燭の火がわずかに揺れる。
きしむ音を立てながら、硬いベッドに腰を下ろした。
床は冷たく、背後の壁からはひやりとした感触が伝わってくる。
燭台の揺らめく光が、天井に淡い影を描いていた。
「……俺は」
ぽつりと、声がこぼれる。
「この世界では、"何も持っていない"のか」
誰に向けたわけでもない言葉が、虚ろに石壁に吸い込まれていく。
まるで、自分の存在そのものが、この部屋ごと世界から切り離されているかのようだった。
ふと視線を机へ移す。
深い傷の刻まれた木肌。そのひとつひとつが、長い年月の証だった。
──だが、机を見つめる目は、いつしか過去へと向いていた。
(でも……本当に"何も"ないのか?)
心の中で、記憶が息を吹き返す。
(前の世界で、俺は剣道も空手も、柔道も極めた。型だけじゃない。
実戦もこなした。武道大会で幾度も優勝し、精神も、体も、鍛え上げた)
脳裏に蘇るのは、道場の汗の匂い、木刀が打ち合う音。
黒帯を締めた自分、誇り高く礼を交わす仲間たち。
(論理も、歴史も、人の動きも──考えることは得意だった。
力だけでなく、流れを読み、相手の"間"を見抜く──それが俺の戦い方だった)
手に、じわりと熱が宿る。
気づけば、拳を強く握りしめていた。
「……スキルがないだけで、"俺"が消えたわけじゃない」
その言葉には、小さくとも確かな決意が宿っていた。
何も与えられなくとも、自分の中にはまだ何かが残っている。
世界が価値を認めなくとも──自分自身がそれを否定する理由にはならない。
暗い部屋に、拳を握りしめた青年の影が、静かに浮かび上がる。
たった一本の蝋燭の光が、その瞳に淡い輝きを宿していた。
*
夜が城を包み込んでいた。
窓のないその部屋には、一本の蝋燭が淡い橙色の光を落としていた。火は静かに揺れ、石造りの壁に伸びる影を波のようにゆらめかせる。
光也は床に正座し、背筋を伸ばしていた。呼吸は静かに、深く。目を閉じたまま、ゆっくりと拳を構える。
──型を取る。
それは彼にとって、瞑想であり、祈りであり、存在の証明だった。
誰も見ていなくともいい。評価も報酬もいらない。
ただ、自分の内にある「核」に触れ続けていたかった。
「……はっ」
低く息を吐きながら、右の拳をまっすぐに突き出す。無駄のない動き。柔らかでいて芯のある気迫。
蝋燭の火が、ふっと揺れたそのときだった。
──気配。
扉の向こうに、かすかな空気の揺れを感じる。
(……誰か、いる?)
即座に立ち上がり、型から静かに離れ、足音を殺して扉に近づく。きしむ音を立てぬよう、慎重に木の取手に手をかける。
ギ……とわずかに開いたその先に──
そこに立っていたのは、あの少女だった。王女・フィオナ。月明かりも届かぬ石廊下で、彼女の金の髪だけが淡く光を帯びていた。
まるで幽霊のように静かで、冷たい無表情のまま、光也の顔をじっと見つめている。
「……何か、ご用ですか?」
思わずそう尋ねたのは、彼女の視線に射すくめられたような感覚のせいだった。
だが、フィオナは何も答えない。視線を逸らすこともなく、口を開くこともなく、ただ一拍の静寂のあと──彼女はゆっくりと踵を返し、黙ってその場を立ち去った。足音すら残さず、影のように。
光也はしばらくのあいだ、開いた扉の前に呆然と立ち尽くしていた。
(……監視、されてる?)
(それとも──俺に、何か……)
夜の静けさは、答えを持っていなかった。ただ、残された蝋燭の火が再び揺れ、彼の影を長く引き伸ばすだけだった。