第2話 “完璧”の孤独
放課後・剣道場にて
放課後の校舎は、喧騒と静寂が混ざり合う不思議な時間帯だ。
陽の傾きが廊下に長い影を落とし、部活動に向かう生徒たちの声が遠くから響いてくる。
天城光也は、誰よりも静かに、自然に剣道場の引き戸を開けた。
キィという木の擦れる音が、まるで風景の一部のように溶け込む。
中ではすでに、竹刀の音と掛け声が交錯していた。
湿気を帯びた空気と床に染みついた汗の匂い。
部員たちの視線が一斉に扉へと向く。
「お疲れ様です」
そう言って軽く頭を下げた光也に、先輩も後輩も思わず背筋を伸ばす。
今日の相手は、隣県の強豪校のエース。
昨年の全国大会でベスト8に入った猛者だ。
道場に立つ彼の構えには、自信が満ち、無駄がない。
「……礼!」
顧問の中村の一声で試合が始まる。
次の瞬間。
パンッ。
竹刀が面を打ち抜く乾いた音が響いた。
一拍遅れて、相手の体が揺らぐ。
審判の旗が上がる。一本。
再び構え直す前に、光也は小さく息を吸った。
そして──間髪入れず、胴を斬る。
シュッ。
風を裂くような音と共に、見事な胴打ちが決まった。
試合は、それで終わった。
「ま、マジかよ……」
ざわめきが走る。
顧問が頭をかく。
「……やっぱ天城って、レベチだな」
褒め言葉のつもりだろう。だが、光也の表情は動かなかった。
──また、勝った。
「努力もしてる。でも、なんでだろう。
初めて竹刀を握ったときから、"できる"感覚があった。
相手の呼吸、足さばき、目の動き。
それを見た瞬間、どこを打てば勝てるか分かってしまう。
自分の体が、意思より先に"正解"を選ぶ。
勝てて当然。
褒められて当然。
でも──俺だけが、つまらないと思ってる。
道場を出たあと、光也は柔道場を覗いた。
軽い遊びのつもりで参加した練習試合でも、彼は一瞬で相手を投げた。
先生も生徒も目を見開き、どよめいたが──光也の心は動かなかった。
音楽室では、休憩中の先輩がショパンのノクターンを弾いていた。
その旋律を、光也は一度聴いただけで覚え、譜面も読まずに完璧に再現してしまった。
先輩は「……天才かよ」と苦笑したが、光也はただ微笑むだけだった。
英会話教室では外国人講師と流暢にジョークを交わし、
家庭科では焼き色まで完璧な卵焼きを作って、女子たちをざわつかせた。
──全て、"できてしまう"。
「どんなジャンルでも、少し触れればすぐに分かる。理屈も、動きも、音も、全てが感覚で理解できる。"できる"ことは気持ちいいはずなのに。なぜだろう。何も、心を突き動かさない」
「おい光也、今日の剣道、マジで鬼だったな」
帰りがけ、杉村が声をかけてくる。
光也は笑って「そう?」と返す。
でもその笑みの奥に、杉村だけが気づいていた。
光也がどこか、退屈そうな目をしていることに。
──何をしても、手応えがない。
──ゴールに着いても、息が上がらない。
──拍手が鳴っても、自分の心だけが静まり返っている。
「……俺は"できる"ことに慣れすぎた。壁にぶつかる経験がないから、這い上がることも知らない。勝つことは、当たり前になった。だから……俺は。本当の意味で、生きているって思えたことが、一度もない」
外は、茜色の空。
その下に立つ光也は、ふと空を見上げた。
風が吹く。
夕焼けが、やけにまぶしかった。
「異世界に行けば、変われるんだろうか。誰かに頼られて、必死に戦って、ボロボロになって。本気で、なにかを求めて。本気で、生きられるんだろうか──」
彼の中の"完璧"が、かすかに軋んだ。
それは、物語のはじまりの音だった。
どんな勝利にも、満たされない心がある。
天才・天城光也の中で、小さなひびが入り始めた第2話。
それは、崩壊の始まりか──再生のきっかけか。
光也という人物の“空虚さ”を、丁寧に描いてみました。読者の皆さんにも少しでも伝わっていれば嬉しいです。
まだまだ地味な展開ですが、次回から物語が大きく動き出します!
毎朝6時に投稿していきます。