第17話 空欄の名に誓う
歓喜に包まれていた空気が、潮が引くように退いていく。
ざわ……ざわ……
さっきまで輝かしいスキルに喝采を送っていた観衆が、一斉に視線を逸らし始めた。
声をひそめ、遠巻きにするような重苦しい空気。
煌びやかだったホールは、居心地の悪い沈黙とざわめきの狭間に沈んでいた。
「……まじかよ……」
「スキルなし……だと? 転生者なのに……」
「召喚ミスじゃねぇのか?」
誰もが"特別"を期待していた。
奇跡を信じていた。
だからこそ、その真逆――「何も持たない者」という現実は、受け入れ難かった。
貴族たちは眉をひそめ、口元を歪めた。一部は憐れむように、また一部は露骨に嘲笑を浮かべながら。
「哀れなものだ。異世界から来たというのに、この有様とは……」
「王家の神官が騒いでいたから、よほどの逸材かと思えば、これか」
「使い道のない駒など、ただの荷物よ。早々に追い払うべきだな」
光也の周囲から、熱が消えていく。声も、目線も、遠ざかっていった。
――拒絶。
――落胆。
――憐憫。
あらゆる感情が、光也という存在を中心に収束し、否定という濁流となって押し寄せた。
彼はまだ壇上に立っていた。まるでひとりだけ違う時空に置き去りにされたような、不確かな浮遊感に包まれながら。
(……は? いや、何かの……間違いだろ)
(俺の魂には……俺のこれまでの記憶には……)
(だって、俺は……確かに"選ばれた"からここに来たはずで……)
(……待て……本当に、何もないのか……?)
脳裏を駆け巡る、無数の映像。
この世界に呼ばれる前、胸に宿った確かな予感。
「力を持っている」と、どこかで信じ切っていた己の直感。
それらが――今、足元から音を立てて崩れ落ちていく。
身体の芯が凍えていく。
掌に残る《天命の晶球》の残光さえ、今では冷たい"否定の印"のように思えた。
壇上から戻るよう促されても、足が竦んで動かない。
心がまだ、この現実を受け入れられずにいた。
そのとき、観衆の一部から嘲笑が漏れた。
「あはは、見たか? 顔真っ青だぞ」
「いや、あれは泣きそうだな」
「勇者どころか、ただの失敗作じゃねぇか」
笑いは静かに、だが確実に広がっていく。
まるで目の前の"異物"を取り囲み、この場から追い出そうとするかのように。
――光也は、自分が異分子であることを、痛烈に思い知らされていた。
――視線を感じた。
壇上を降りかけたその瞬間、光也の足が止まる。
まるで氷柱のように鋭い視線が、背中に突き刺さった。
そっと振り返る。
高位貴族の列のさらに奥、玉座の横――。
そこに、彼女の姿があった。
王女フィオナ。
背筋を伸ばしたまま、微動だにしない。
――光也を、真っ直ぐに見据えていた。
彼は思わず目を逸らしたくなった。
だが、できなかった。
(……また睨まれた。今度は……もっと鋭く)
(まるで"期待を裏切った"という目だな)
(俺に何か凄いスキルがあると、そう思い込んでいたのか)
(……すみませんね。俺……"無能"なんで)
自嘲の念が、心に苦く染み込む。
つい先ほどまでフィオナは、選ばれし若者たちに祝福の微笑みを向けていた。
それが今では、鋭く細められた眼差しとなって、自分を貫く。
もはや誰も、自分に期待など抱いていない。
会場には落胆と冷笑、諦めの空気が満ちていた。
光也は、王女の視線から逃れるように、足早に壇を降りた。
軽く揺れるスフィアの残光が、その背を虚しく照らす。
すでに光也の存在は、舞台の中心から外れていた。
壇から降りた彼に、誰一人声をかけない。
つい先ほどまで「勇者だ!」「神の選びし者だ!」と讃えられていた若者たちは、目を逸らし、距離を置く。
まるで、目の前に立つのが不吉の象徴であるかのように。
沈黙の中、王座の脇に控える重臣たちの声が、こっそりと漏れてきた。
「兵士にもなれまい。いや、それどころか、炊事係にも及ばないのでは?」
騎士団長らしき男が鼻で笑うと、周囲に乾いた嘲笑が広がった。
遠巻きにしていた貴族の息子が、呟く。
「"選ばれし者"じゃなかったのか……なあ、見間違いか? スキル欄、空欄だったよな?」
「いや、間違いない。"該当なし"だ。こんなの初めて見た……」
「神の悪戯というところか」
乾いた笑い声が、会場のあちこちに散りばめられ、やがて静かに消えていった。
光也は、そのすべてを聞いていた。
だが、目を伏せることなく、静かに息を吐いた。
「――なるほど」
「最強だったはずの俺が、“何も持たない”と、こうも軽く扱われるのか」
「スキルがなければ、存在の価値もない……そんな世界か」
「だが……面白いじゃないか」
拳を握ることも、声を荒げることもしない。
ただ、胸の奥で静かな炎が灯り始めた。
心の片隅では、まだ現実を受け入れられない自分がいる。
自分の魂の深淵に、確かに何かが眠っているはずだ。
だが、それを見出してくれる者は誰もいない。
ならば――。
「何もないなら、自分で掴むまでだ」
「俺は、“ゼロ”から始めてやる」
誰にも頼らず、誰にも期待されず。
無から、有を創り出す。
その覚悟が、静かに芽吹いていた。
祝福と栄光の残り香が漂う広間の隅で、
"空欄の少年"は、孤独の中で初めて――自らの運命に、爪を立てた。
――沈黙。
場内には、まるで"取り返しのつかない失敗"を目の当たりにしたかのような、
重く冷たい沈黙が漂っていた。
広間の天井近くに吊るされた巨大な燭台の炎すら、今は心もとなく揺らめいている。
まるで光也一人が、空気ごと異界へと隔離されたかのようだった。
ゆっくりと歩みを進める彼に、誰一人として近づこうとはしない。
神官たちは書物を伏せ、騎士たちは腕を組み、貴族の子息たちは虚空に視線を彷徨わせる。
光也と目線を合わせることさえ、まるで忌むかのように。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
周囲からの嘲笑、落胆、拒絶。それらは光也の存在そのものを否定するものであり、多くの読者にとっても、心を抉るようなシーンだったかもしれません。
しかし、ここが物語の“起点”です。
ここまで来るのに、まさか十七話もかかるとは――正直、自分でも少し驚いています。
“スキルなし”という、物語的にはむしろスタート地点に過ぎないはずのシーン。それでもこの瞬間に至るまでの空気感や天城光也の想いを丁寧に描きたくて、気がつけば長くなってしまいました。
光也にとっては、ある意味で“本当の旅”が始まる第一歩でもあります。
ここまで読んでくださった方に、深く感謝を込めて。
次回から、ようやく彼の「ゼロからの物語」が動き出します。
どうか彼の孤独に、少しだけ寄り添っていただけたら幸いです。