第139話 同僚の記憶
――東の森へ。
夜明け前の空はまだ深い藍を帯び、谷を包む空気には湿った冷たさが残っていた。
ミロシュは両腕に石板を抱き、ひとり森の奥へと歩みを進めていく。
足下の土は夜露に濡れ、踏みしめるたびにかすかに音を立てた。
戦火を免れた木々は沈黙を守り、枝葉に滴る露が淡く光を返している。
鳥の声すら聞こえず、ただ彼の息づかいだけが森に溶けていた。
――静けさが、かえって胸を締めつける。
石板の冷たい重みは、彼に過去の罪を思い起こさせる。
かつて共に学び、共に理を探ろうとした同僚が、理から外れたという烙印一つで粛清された。
あの日の叫び、伸ばせなかった自分の手。
「……俺が、止められなかった」
低く呟いた声はすぐに森の闇に飲まれた。
後悔の影は消えず、歩を進めるたびに足を鈍らせる。
だが、それでも進むしかなかった。
東の森は、夜明けと共に訪れる新たな祈りを待っている。
ミロシュは深く息を吸い込み、胸の奥に沈んだ痛みを押し隠すように歩みを続けた。
――記憶は、森の闇よりも鮮烈に甦った。
まだ封律議会に仕えていた頃。
石造りの広間に冷たい灯火が揺れていた。
上座に並ぶ上司たちは、理を絶対視する眼差しを崩さず、一人の術者を椅子に縛り付けていた。
その術者――ミロシュの同僚であり、共に研究と討議を重ねてきた男だった。
「魂の構造異常、確認済み。危険因子の可能性あり——ゆえに、抹消する」
判決のように告げられた言葉に、同僚は声を荒げた。
「やめろ……俺は何も——!」
ミロシュは立ち尽くしていた。
喉は張り裂けそうに震え、足は一歩も前に出なかった。
上司たちの眼差しは鋭く、反駁の余地など与えなかった。
次の瞬間、同僚は術によって封じられ、粛清の儀が執り行われた。
彼の叫びも、瞳に宿る怒りも、すべては焔に呑まれて消えた。
その場にいながら、何もできなかった自分だけが残った。
「……もし、あのとき共に抗えていたなら」
森を歩くミロシュの唇から、その悔恨が零れた。
胸の奥を苛む痛みは、長い年月を経ても薄れることはなかった。
自分は同僚を救えなかった――その烙印が、魂に刻まれたまま消えぬのだ。
東の森の奥。
木々が途切れ、わずかに月明かりが差し込む開けた場所に、ミロシュはたどり着いた。
胸に抱えてきた石板を、ゆっくりと地面に据える。
その表面には、幾重にも重ねられた紋様が刻まれていた。
指先でそっとなぞりながら、彼は深く息を吐き出す。
「……ここで、終わらせる」
両手を石板に置いた瞬間、紋様が淡い蒼光を帯び、刻み込まれた線が生き物のように脈打ち始める。
静寂に包まれていた森がざわりと揺れ、梢が小さくきしむ。
葉擦れの音は、まるで囁きのように彼を取り囲んだ。
そして――。
心の奥底に、懐かしい声が響いた。
温かさと痛みを同時に呼び覚ますその響き。
かつて失われたはずの同僚の声だった。
「……ミロシュ」
彼の胸が強く震え、両の目が大きく見開かれる。
石板を通して魂に触れたのは、間違いなくあの日の同僚だった。