第138話 母の声
夜が白み始めるころ、エルナは仲間たちに背中を押されるようにして歩き出した。
まだ冷たい空気の中、川面には月明かりがゆらゆらと揺れて映り込んでいる。
戦火に焼かれた谷の傷を隠すように、その流れはただ静かに、絶え間なく続いていた。
エルナは足を止め、水音に耳を澄ます。
その音は母の歌声を思い出させた。
小さな桶を抱えて母と一緒に水を汲んだ日々。
母が口ずさんでいた子守歌は、いまでも耳の奥で柔らかく響いている。
「……お母さん」
無意識に口から零れた声は、川のせせらぎに溶けて消えていった。
エルナは胸に抱えた石板をぎゅっと握りしめ、西の守りを託されるその役目を果たすべく、一歩、川辺へと踏み出した。
エルナの胸に甦るのは、母の腕に抱かれていた幼い日の記憶だった。
柔らかな温もりに包まれながら、耳に届いていたのは優しい歌声。
川のせせらぎに重なるようにして響くその旋律は、幼い心を安心で満たしてくれていた。
けれど、その時間はあまりにも短かった。
母は、彼女がまだ小さな子どもだった頃に命を落とした。
残された記憶はわずかで、抱きしめられた温もりも、歌声も、次第に霞んでいくはずだった。
―――しかし
母を喪ってからも、エルナの心には確かな気配が寄り添っていた。
孤独に沈む夜も、恐怖に震える時も、その気配は彼女を抱きしめるように支えてくれた。
まるで母の魂そのものが、自分の奥深くで共に在り続けているかのように。
エルナは石板を胸に抱きしめ、そっと瞼を閉じた。
「……お母さん」
その名を呼ぶ声は震えていたが、同時に温かさを求める子どもの響きでもあった。
エルナは深く息を吸い込み、川辺の小石を払って石板をそっと置いた。
両手を伸ばし、その冷たい表面に触れる。
指先から脈打つような感覚が伝わり、胸の奥に眠る鼓動と重なった。
「……どうか」
小さく祈りを紡いだ瞬間、石板の刻印が淡く光を帯び始めた。
青白い輝きは水面に反射し、揺れる川の流れに重なって複雑な紋様を描き出す。
夜風が頬を優しく撫でた。
その音はやがてせせらぎと混じり合い、耳に届く響きは――母がかつて口ずさんでくれた子守歌の調べに変わっていく。
エルナははっと息を呑み、瞳を潤ませながら石板を見つめた。
母が傍にいる――そんな確信が胸に広がっていった。
石板の光が川面に揺れ映る中、エルナの胸の奥で囁きが響いた。
「……エルナ。あなたはずっと、強くあろうとしていたわね」
優しく、温かい響きだった。
幼い頃、眠りに落ちるまで聞いていた歌声と同じ調べ。
その声に触れた途端、張り詰めていた心がほどけ、エルナの目から涙が溢れ出した。
「でも大丈夫。今度は私が、あなたに未来を贈る番」
「……お母さん……」
声を震わせながら、エルナは必死に訴える。
「行かないで……まだ一緒にいたい……」
しかし、その願いを否定するようにではなく、抱きしめるように母の声が重なった。
「私はもう、ずっとあなたの中で生きてきたの。これからも消えないわ。だから……この村に明日を贈らせて」
その囁きは、涙に濡れたエルナの胸を包み込み、痛みさえも温もりに変えていった。
エルナが震える手で石板に触れた瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
次の刹那、胸元から小さな光の粒がこぼれ出し、夜気に溶けるように立ち昇っていく。
その光は寄り集まり、やがて母の面影を宿した淡い輝きへと姿を変えた。
懐かしい温もりに包まれたエルナは、息を詰めたまま見上げる。
光はそっと彼女を離れ、石板の刻印へ流れ込んでいった。
紋様のひとつひとつが呼吸するように鮮やかな光を放ち、川辺全体を青白く照らす。
同時に、水面がふるえ、小さな波紋が広がっていった。
その揺らぎはやがて大きなうねりへと変わり、川そのものが祈りに応えるかのように輝きを増していく。
やがて、石板から天へと伸びる一本の透明な光柱が立ち上った。
水の上に浮かぶようにしてそびえ立つそれは、夜空を突き抜けるほどの清らかな輝きを放っていた。
エルナは涙で霞む視界の中、確かに見た。
――母の魂が、この地を守る力へと変わった瞬間を。
川辺にそびえ立つ透明な光柱は、北の丘から伸びる光と共鳴し合い、夜空の中で静かに絡み合った。
二つの柱が織りなす響きは、まるで見えざる糸が村全体を包み込むようであった。
結界は徐々に厚みを増し、これまでの「力による拒絶」を超えて、新たな層を得ていく。
それは視線を逸らし、記憶を薄め、存在そのものを外界の意識から滑り落とさせる――
まるで世界そのものが、この谷を「思い出すことをやめよう」としているかのようだった。
川風がふと止み、鳥の声も虫の音も、ひととき失われる。
静寂は恐ろしいほどの安らぎを孕み、境界の内と外を切り離していった。
エルナは涙を拭い、深く息をついた。
胸の奥には、まだ母の声の残響が温もりとなって残っている。
震える手を石板に重ね、彼女は静かに最後の祈りを結んだ。
その瞬間、結界の輪郭が確かに完成したことを、誰に告げられずとも彼女は悟った。