第136話 儀式の始まり
夜がまだ色濃く、谷に漂う煙の匂いが鼻を刺していた。
黒く焦げた大地に足跡を刻みながら、セラフは石板を抱え、北の丘へと歩を進める。
胸に抱いた石板は重く、まるで村人たちの祈りと犠牲そのものが刻み込まれているかのようだった。
足元には崩れ落ちた小屋の残骸、焼けただれた土が広がっている。
一歩進むごとに、靴底に灰がまとわりつき、過ぎ去った惨劇を思い出させた。
遠く丘の向こうでは、封律議会の残党が放つ松明の灯火がちらちらと揺れている。
結界に阻まれて近づけぬはずの彼らの気配は、それでも重くのしかかる脅威だった。
それでも、セラフの歩みに迷いはなかった。
彼の背には、仲間たち――叡智の環の同志たちの祈りが寄り添っていたからだ。
谷の人々が抱く「もう二度と奪われぬ場所を」という願いを、彼は一身に背負っていた。
丘の稜線が近づくにつれ、冷たい風が頬を打った。
夜明け前の空はまだ暗く、それでも彼の目には一筋の光が差しているように思えた。
そこに、自らのすべてを注ぎ込む儀式が待っている。
丘へと歩みを進める途中、セラフは胸の奥に寄り添う気配を強く意識した。
それはいつの頃からか、常に自分と共にあったもの――姉、セリーナの魂。
幼い日、彼を守るためにセリーナは自らの魂を差し出し、彼と同調させた。
あの瞬間から、彼は一人でありながら二人でもある存在となった。
彼女は言葉を持たずとも、幾度も導いてくれた。
迷いに沈む時には背中を押し、恐怖に囚われる時にはそっと寄り添う。
炎に追われ、剣に脅かされる日々の中で、その気配は確かに彼の支えとなってきた。
セラフは石板を抱く腕に力を込める。
――姉がいなければ、ここまで辿り着くことはできなかった。
闇に包まれた丘道を進みながら、彼は静かに誓った。
これからの祈りは、自分だけのものではない。
共に歩んできた姉の魂とともに、この村の未来を守るための祈りであるのだと。
北の丘へ辿り着いたセラフは、息を整えると胸に抱えていた石板をそっと大地に下ろした。
冷たい土の上に据えられた石板は、刻まれた紋様を月光に照らされ、すでに淡い輝きを帯びていた。
セラフは膝を折り、両手をかざす。
その指先が紋様に触れると、石板は脈打つように青白い光を放ち始める。
《拒絶の魂》を核とし、新たに刻まれた複合の術式が呼応しているのだ。
「……」
彼は目を閉じ、心の底から祈りを紡ぐ。
村を、仲間を、未来を――二度と奪われぬようにと。
その瞬間、周囲の空気が震えた。
丘を渡る風がざわめき、草葉が一斉に揺れる。
まるで大地そのものが呼吸を始めたかのように、見えぬ脈動が辺りを包み込んでいく。
セラフの耳には、世界が応える低い鼓動のような響きが届いていた。
儀式は、確かに始まっていた。
石板の光がいっそう強まり、青白い脈動がセラフの胸へと染み入ってくる。
その瞬間――心の奥底で、懐かしい声が響いた。
「……ラファス。ここまで強くなったのね」
幼き日に耳にした、あの優しい声色だった。
一瞬で胸の奥が熱くなり、堪えていた涙が込み上げる。
セラフは震える唇を結び、声にならぬ叫びを喉に押し込めた。