第135話 結界の代償と不安の影
谷を焼き尽くしていた炎が、突如として押し返されるように揺らめき、やがて跡形もなく霧散していった。
討伐兵たちの矢も剣も、術師たちの呪も、結界の縁に触れた瞬間に砕け散り、彼らは慄きながら退いた。
夜空に広がったのは、不気味なほどの静寂。
先ほどまで耳を裂いていた悲鳴や怒号は途絶え、代わりに残ったのは、焦げた木材の臭いと、黒くすすけた煙だけだった。
村人たちは、互いに寄り添いながらその光景を見つめる。
「……助かったのか」
誰かが、声とも吐息ともつかぬ震え声で呟く。
だが、その言葉に安堵の色は宿らなかった。
仲間の半数以上は帰らぬ人となり、炎に飲まれた家々はただの灰と化した。
先ほどまで傍らにいたはずの笑顔が、もうそこにはいない。
結界は確かに彼らを守った。
しかしその代償として、あまりにも多くのものが失われた。
その静けさは、勝利の後の凱歌ではなく――喪失と疲労に押し潰された、沈黙の谷を包み込んでいた。
結界が谷を覆ってから幾日かが経った。
確かに封律議会の兵たちは侵入できず、剣も呪も結界の縁で砕け散った。
それでも、谷の外には依然として黒鉄の鎧が鈍く光っていた。
外周の丘や森の縁には、討伐隊の残党が陣を張り、絶えず監視の目を光らせている。
夜になれば松明の灯りが点々と連なり、まるで捕らえた獲物を囲うように村を取り巻いていた。
「見つかっているのに、攻め込んではこない……」
その事実が、かえって人々の胸を締めつける。
誰かが囁く。
「結界を破る新しい術を探しているのかもしれない」
「いや、兵を補充して大軍で再び攻め込むつもりだ」
「時間をかけて、俺たちが疲弊するのを待っているだけだろう」
答えのない推測ばかりが、夜ごとにさざ波のように広がっていく。
水を汲みに行く母親の背は怯えで小刻みに揺れ、畑を耕す手にも力が入らない。
子どもが笑おうとしても、その声はすぐに不安の影にかき消される。
結界は確かに谷を守った。
だが、人々の心までは守れない。
恐怖と疑念が、静かに村を蝕んでいった。
夜半、谷に響いたのは子どもの悲鳴だった。
夢にうなされ、炎に焼かれる家や迫り来る兵士の幻影に怯えて泣き叫ぶ。
母親は抱きしめて宥めながら、堪えきれずに涙を零した。
「結界があっても……心は守れないのね……」
その声に、周囲の女たちもすすり泣きをこらえられなかった。
子を抱いて逃げ惑った夜が、誰の胸にも焼き付いている。
守られているはずなのに、恐怖は消えない。
昼には、焚き火を囲んでいた老人が深い溜め息をつき、ぽつりと漏らした。
「このままでは……生き延びたところで、魂が壊れてしまうわい」
その言葉に、誰も反論できなかった。
やがて村のあちこちで囁きが飛び交うようになる。
「結界に頼っていて、本当にいいのだろうか」
「また犠牲を払うことになるのではないか」
「次は誰が……」
議論は答えを見つけることなく、ただ不安をかき立て、互いの胸を引き裂いていった。
結界の内側で暮らしていながら、村は静かに崩れていくように見えた。
夜更け、谷を覆う結界の静けさの中で、ひとつの灯りが密かに揺れていた。
小屋の奥に集まったのは、リーダー的な男――セラフハーデンと、彼を支える少数の仲間たち。
互いの顔には疲労と不安が刻まれていたが、それ以上に何かを決めねばならないという焦燥があった。
沈黙を破ったのはセラフだった。
「……物理的な拒絶だけでは足りない」
その声は冷静でありながら、張り詰めた鋼のように硬い。
仲間たちが顔を上げる。
「我々はなお世界に見られている。この谷が“存在する”と知られている限り、狙われ続ける」
彼の言葉に、小屋の中に冷たい風が吹き込んだような緊張が走った。
一人の術者が唇を噛みしめ、苦渋を滲ませながら問いかける。
「結界を……さらに強くするのか」
セラフは静かに頷いた。
「今度は、“存在を知られない”結界が必要だ」
彼の瞳は迷いを許さぬ光を宿し、仲間たちを見渡す。
「誰にも見えず、認識されず……忘れ去られる場所へ。我々はその中で生き延びる」
重苦しい沈黙が落ちた。
だがその沈黙の奥で、誰もが悟っていた――新たな犠牲を伴わなければならないことを。
会合の終わり際、セラフは膝の上から重々しい石板を取り出した。
表面には新たな紋様が刻まれており、燭火を受けて青白く脈打つ。
それは《拒絶の魂》を基盤に、さらに拡張するための核――未来を賭けた最後の手立てだった。
セラフは石板を両手で掲げ、低く静かな声で告げる。
「次は……祈りを重ね、認知を拒絶する層を結界に付与する」
小屋の中に、重苦しい沈黙が広がる。
仲間たちは互いの顔を見合わせ、目を伏せた。
誰もが理解していた。
――その術には再び、犠牲が伴うだろう。
だが、否定の言葉を口にする者はいなかった。
やがて一人が深く息を吐き、うなずいた。
続いて、もう一人が拳を握りしめる。
恐怖は確かにそこにあった。
だが、それ以上に「守らねばならない」という決意が静かに満ちていく。
石板の刻印が淡く明滅する。
それはまるで、人々の覚悟を映し取っているかのように見えた。