第131話 不穏な予兆
やがて谷に、日常の匂いが戻り始めた。
初めての畑から小さな芽が出た日、母と子が手を取り合って笑い合った。
土にまみれた掌で収穫した芋を抱え、火にくべて焼き、ほくほくと割ったとき——子どもの顔に浮かんだ笑みは、どんな宝石よりも輝いて見えた。
小川では子どもたちが水しぶきを上げてはしゃいでいた。
石を積んで流れをせき止め、魚を捕まえようと夢中になる。
その背を見守る大人たちは、微笑みながらも決して目を離さない。
過酷な旅路で幾度も命を失いかけたからこそ、彼らはその笑顔を何より大切にしていた。
夜になれば、野営の火を囲んで歌が響いた。
追放され、迫害の末にこの地へたどり着いた人々の歌は、決して華やかではない。
だが静かで温かく、炎に照らされる横顔は確かに幸福を映していた。
迫害の傷は、決して癒えたわけではない。
故郷を失い、仲間を失った痛みは消えない。
けれど、この谷に生まれた日々は——守りたいと願えるものだった。
幻視の中でそれを見つめていた光也は、子どもたちの無邪気な笑顔と、それを見守る大人たちの柔らかな眼差しに胸を締めつけられた。
——自分も、こんな景色を守りたかったのではないか。
その思いが、幻視であることを忘れさせるほどに鮮烈に胸に迫ってきた。
幻視の中で光也は気づいた。
ここに集うのは、理から外れ、力を失い、追われるしかなかった敗者たち。
……そのはずだった。
だが目の前にあるのは敗北ではなかった。
知を寄せ合い、弱さを抱き合い、互いを補うことで立ち上がった力。
失われたものばかりのはずなのに——この谷には、確かな強さが息づいていた。
その時、男の声が響いた。
焚き火の赤に照らされた姿が幻視の中で浮かび上がり、落ち着いた声が光也の胸に届く。
「知は奪われても……祈りと共に繋がれていく」
その言葉はただの音ではなかった。
村人たちと同じように、光也の心に深く刻み込まれる。
忘れることのできない印のように、胸の奥に染み渡っていく。
幸福な日々が、当たり前のように流れていた。
畑は芽吹き、子どもたちは小川で遊び、夜には火を囲んで歌声が響く。
誰もが「ここなら大丈夫だ」と思い始めていた、その矢先だった。
森の外れで、見張りをしていた若者が駆け込んできた。
顔は蒼白に強ばり、声は震えていた。
「……焚火の跡があったんだ。しかも馬の蹄の跡まで……。誰かが……外から、俺たちを探っている」
その報告は、静かな谷に冷たい波紋を広げた。
人々の胸に、かつての迫害の記憶が蘇る。
「まさか……」
「いや、ここまで奥深く……」
動揺と安堵の言葉が入り交じり、ざわめきが広がっていく。
「見つかるはずがない」
そう繰り返す声にすがろうとする者もいた。
この谷は深く、道なき森に隠されている。
偶然に辿り着けるはずがない、と。
だが——リーダー的な男の表情は固かった。
「用心に越したことはない。見張りを倍に増やせ。火を焚くときは煙に気を配れ」
落ち着いた声だったが、その目には鋭い警戒が宿っていた。
彼だけが知っていたのだ。
迫害する者たちは理に従って動く。
理に背いた存在を見逃すことは決してない。
そして、その予感はもう覆せぬほど現実に近づいていた。
気づいた時にはすでに、滅びの影が村を取り囲みはじめていたのだ。