表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
131/139

第131話 不穏な予兆


やがて谷に、日常の匂いが戻り始めた。


初めての畑から小さな芽が出た日、母と子が手を取り合って笑い合った。


土にまみれた掌で収穫した芋を抱え、火にくべて焼き、ほくほくと割ったとき——子どもの顔に浮かんだ笑みは、どんな宝石よりも輝いて見えた。


小川では子どもたちが水しぶきを上げてはしゃいでいた。


石を積んで流れをせき止め、魚を捕まえようと夢中になる。


その背を見守る大人たちは、微笑みながらも決して目を離さない。


過酷な旅路で幾度も命を失いかけたからこそ、彼らはその笑顔を何より大切にしていた。



夜になれば、野営の火を囲んで歌が響いた。


追放され、迫害の末にこの地へたどり着いた人々の歌は、決して華やかではない。


だが静かで温かく、炎に照らされる横顔は確かに幸福を映していた。



迫害の傷は、決して癒えたわけではない。


故郷を失い、仲間を失った痛みは消えない。


けれど、この谷に生まれた日々は——守りたいと願えるものだった。



幻視の中でそれを見つめていた光也は、子どもたちの無邪気な笑顔と、それを見守る大人たちの柔らかな眼差しに胸を締めつけられた。


——自分も、こんな景色を守りたかったのではないか。


その思いが、幻視であることを忘れさせるほどに鮮烈に胸に迫ってきた。



幻視の中で光也は気づいた。


ここに集うのは、理から外れ、力を失い、追われるしかなかった敗者たち。


……そのはずだった。


だが目の前にあるのは敗北ではなかった。


知を寄せ合い、弱さを抱き合い、互いを補うことで立ち上がった力。


失われたものばかりのはずなのに——この谷には、確かな強さが息づいていた。



その時、男の声が響いた。


焚き火の赤に照らされた姿が幻視の中で浮かび上がり、落ち着いた声が光也の胸に届く。


「知は奪われても……祈りと共に繋がれていく」


その言葉はただの音ではなかった。


村人たちと同じように、光也の心に深く刻み込まれる。


忘れることのできない印のように、胸の奥に染み渡っていく。



幸福な日々が、当たり前のように流れていた。


畑は芽吹き、子どもたちは小川で遊び、夜には火を囲んで歌声が響く。


誰もが「ここなら大丈夫だ」と思い始めていた、その矢先だった。


森の外れで、見張りをしていた若者が駆け込んできた。


顔は蒼白に強ばり、声は震えていた。



「……焚火の跡があったんだ。しかも馬の蹄の跡まで……。誰かが……外から、俺たちを探っている」


その報告は、静かな谷に冷たい波紋を広げた。


人々の胸に、かつての迫害の記憶が蘇る。


「まさか……」


「いや、ここまで奥深く……」


動揺と安堵の言葉が入り交じり、ざわめきが広がっていく。


「見つかるはずがない」


そう繰り返す声にすがろうとする者もいた。


この谷は深く、道なき森に隠されている。


偶然に辿り着けるはずがない、と。



だが——リーダー的な男の表情は固かった。


「用心に越したことはない。見張りを倍に増やせ。火を焚くときは煙に気を配れ」


落ち着いた声だったが、その目には鋭い警戒が宿っていた。


彼だけが知っていたのだ。


迫害する者たちは理に従って動く。


理に背いた存在を見逃すことは決してない。



そして、その予感はもう覆せぬほど現実に近づいていた。


気づいた時にはすでに、滅びの影が村を取り囲みはじめていたのだ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ