第130話 叡智の萌芽
谷に暮らしが根づきはじめた頃、集落の中央には自然と人々を導く男の姿があった。
彼は剣が誰よりも強いわけでもなく、眩い魔法を操る術師でもない。
だが彼には一つの特別な力があった。
それは——対象に触れるか、集中して観察することで、その者の魂に宿る「スキルの在りかた」を解析する能力だった。
解析された術は、紙や石に書き写すことで「誰でも扱えるスキル」として再現される。
男は言った。
「一人の力は小さい。けれど、力を分け合えば、私たちはもっと強くなれる」
最初に試みたのは、水を清めるスキルを持つ者だった。
男は彼の手を取り、静かに目を閉じる。
しばし沈黙が流れたのち、彼は石の板に刻みつけた。
清めの言葉と手順、そして力を呼び出す印。
やがて別の者がその石に触れ、同じように水を澄ませてみせた。
驚嘆の声が広がる。
「これで……誰でも、あの術が使えるのか」
それからは次々と力が記録されていった。
畑を耕す術。小さな火を安全に起こす術。怪我を防ぐ加護。
どの力も、一人の所有物ではなく「集落の共有財産」となった。
「畑を耕すなら、このスキルを」
「夜番には、この術を」
「子守には、この加護を」
男は人々の適性を見極め、最も効率よく力を配分していった。
その指示は穏やかでありながらも確かで、人々は安心して従った。
数か月も経たぬうちに、集落の姿は目に見えて変わった。
食卓には安定した収穫が並び、夜は火が絶えることなく灯り、子どもたちは走り回れるようになった。
人々は口を揃えて言った。
「彼がいるから、私たちは生きられている」
その男こそ、後に叡智の環を築き上げる者。
祈りの村に知の骨格を与え、弱き者たちを結びつける要となる人物であった。
夜の谷は静まり返っていた。
人々が眠りについた後、わずかな灯火だけがひそやかに揺れている。
集落の奥、岩壁に囲まれた小さな空洞に、数人の影が集まっていた。
その中心に座るのは、集落を導くあの男。
彼の周囲に、信頼できる者たちが膝を寄せ合っている。
「今日も……また拾ってきた」
ひとりが、擦り切れた羊皮紙を広げた。
王都から持ち出した文献の断片。
別の者は、異端とされ焼かれる寸前に持ち出した禁呪の理論を語る。
また別の者は、旅の果てで耳にした古い民間伝承の言葉を口にする。
それらはすべて、不完全で、断ち切られた知識のかけらに過ぎなかった。
だが、男はひとつひとつを大切に拾い上げ、石に刻む手を止めない。
「知を繋げば、未来が拓ける」
彼は穏やかな声で言った。
「どんなに失われても、繋ぎ直せば再び立ち上がれる」
人々はその言葉に頷き、互いの目を見つめ合う。
この場にいる者たちは皆、迫害の中で何かを失った。
故郷を、家族を、仲間を。
だが残った知のかけらは、まだ生きている。
男は刻む手を止め、仲間たちを見渡した。
その目は、炎の赤を映して力強く輝いていた。
「私たちは、“叡智の環”になる」
仲間たちが息を呑む。
「一人では途切れる線も……輪にすれば、決して絶えない。だから私たちは、互いを繋ぎ、知を繋ぎ、未来を繋ぐのだ」
静寂の中、その言葉だけがはっきりと響いた。
やがて、全員の胸に同じ確信が芽生える。
——ここに、叡智の環の最初の灯がともったのだ。