第129話 加護なき子
光也が供物台に指先を触れた瞬間、世界が大きく脈動した。
胸の奥まで震わせる低い響きとともに、視界は白い閃光に包まれる。
「……っ」
息を吸う暇もなく、意識が遠のいていく。
次に気づいたとき、彼は冷たい風に吹かれていた。
荒涼とした大地が果てしなく広がり、そこを歩く人々の行列があった。
ぼろ布をまとい、背に荷を負い、疲れ果てた顔で一歩一歩を踏みしめる。
老人も子どもも混じり、列は途切れることなく延びている。
光也は彼らのすぐそばに立っていた。
だが、呼びかけても声は届かない。
肩に触れようとしても、手はすり抜ける。
——これは、幻視。
彼はただ、見ているだけなのだ。
荒野を行く人々の列は、老人もいれば、幼子もいる。
背にくたびれた荷を負い、裂けた衣をまとい、ただ地を這うように歩き続ける。
顔は皆、憔悴しきっていた。
列の中に、ひとりの老人がいた。
深く刻まれた皺に血走った目を光らせ、腕に抱えるのは厚い書物だった。
革表紙は血のように赤く染まり、かすかに不穏な魔力が滲み出ている。
彼はぶつぶつと呟いていた。
「この知を……奪われてはならん。焼かせるものか。これは未来だ……未来を繋ぐ灯火なのだ……」
その手は震え、だが書を抱く腕だけは決して緩まなかった。
少し離れた列の中央に、幼い子どもの姿があった。
まだ十にも満たぬ小さな身体。
額には汗が浮かび、歩くたびに息が切れている。
石ころに躓いた瞬間、膝を打ち、あっという間に血が流れ出す。
周りの大人たちは慌てて駆け寄り、布を裂いて血を拭い、抱き上げた。
その子にはスキルがない。
神の加護さえ与えられぬ、ただの「弱き存在」
だからこそ、誰もがその子を全力で守ろうとしていた。
列の後方には、家族が肩を寄せ合って歩いていた。
母は疲れ果てた父の腕を支え、兄は妹を背に負っている。
彼らは「スキルを持たぬ者を庇った」ために、村ごと追放されたのだ。
誇りを守るために選んだ道——その眼差しはやつれていながらも、決して曇ってはいなかった。
さらに列を見渡せば、宗教上の異端を理由に追われた者、王の座を巡る権力闘争で敗れた残党など、様々な理由で行き場を失った人々がいた。
しかし、どの顔にも共通しているものがある。
それは、かすかな希望を手放していない目の光。
光也は黙ってその群像を見つめた。
——ここにいる誰もが、自分と同じだ。
「理」の枠から外れただけで、存在を許されなかった者たち。
荒野に、低い唸り声が響いた。
茂みをかき分け、牙をむいた獣の群れが姿を現す。
干からびた大地に餌は少なく、彼らは人の匂いに飢えた目を光らせていた。
「走れ!」
先頭の男が叫ぶと同時に、列は崩れる。
老人を支え、子を抱き、必死に駆け出す。
だが疲弊した足取りは遅く、すぐに追いつかれる。
背を裂かれた者が呻き声を上げ、地に倒れ込む。
「この子を頼む!」
誰かが幼子を仲間に託し、自らは獣の前に立ちはだかる。
石を投げ、声を張り上げて注意を引きつける。
その間に、別の者が倒れた仲間を背負い上げ、列の奥へと走る。
中心に抱かれていたのは——神の加護なき子。
細い肩は小さく震え、恐怖に顔を歪めながらも、周囲の大人たちが覆い隠すように取り囲んでいた。
「この子だけは……この子だけは必ず」
その声は祈りに似ていた。
ひとりが囮となり、またひとりが背負って逃げる。
誰かが転べば手を伸ばし、誰かが遅れれば全員で立ち止まる。
そこにあったのは、個の力ではない。
互いを支え合い、弱さを抱き合いながら生き延びようとする連帯だった。
やがて獣の気配が遠ざかり、人々は荒い息を吐きながら互いの無事を確かめ合う。
傷だらけであっても、守るべき命はまだここにある。
その事実が、彼らを再び歩ませる力となっていた。
長い逃亡の果てに、人々は森を抜け、深い谷に足を踏み入れた。
切り立った崖と鬱蒼とした樹々に囲まれ、外からの視線を拒むような地形だった。
谷底には清らかな小川が流れていた。
水面には木漏れ日がきらめき、岩陰には苔が柔らかく広がる。
枝には小さな実をつけ、野鳥のさえずりが響く。
まるで人の手が届かぬ自然の要塞。
疲弊しきった一団は、その場に膝をついた。
誰かが川の水をすくって飲み、誰かは地に倒れ込んで泣き声をあげた。
長い旅路で失ったものはあまりにも多かったが、この瞬間だけは胸の奥にほのかな安堵が広がった。
「……ここなら、もう見つからないかもしれない」
誰かがぽつりと呟くと、その言葉はゆっくりと波紋のように広がっていく。
「もう誰にも、見つからずに……」
「静かに……生きたい」
「子どもが……明日を迎えられる場所で」
声は弱々しく、けれど確かだった。
それは祈りであり、誓いであり、願いそのものだった。
光也はその祈りの声を、ただの幻視の響きとしてではなく、自分の胸に直接語りかけられているかのように聞いた。
その願いは、自分と同じ——弱いがゆえに、生きるために誰かに守られるしかなかった、あの頃の自分と重なっていた。
谷にこだまする声はやがて一つに溶け合い、光也の心を揺さぶり続ける。