第126話 最後の供物台
地下に広がる空間は、湿った石の匂いと鉄錆の臭気に満ちていた。
壁に吊るされた松明がかすかに揺れ、その影が縛られたイルセの顔を不気味に照らし出す。
彼女の額には冷や汗が伝い、細い指が必死に椅子のひじ掛けを握り締めていた。
目の前に立つカリムは、刃を持った部下に顎をしゃくる。
「洗脳が効かぬのなら、肉体から引きずり出すまでだ。……結界の核心、すべて吐いてもらおう」
「……やめなさい……」
イルセは唇を震わせて言った。
それでも声には力がなかった。
精神の奥底には確かに青白い光――エルナが残してくれた保護が息づいている。
だが肉体を裂かれれば、その支えすら揺らいでしまう。
すでに限界は近い。
刃が振り上げられる。
視界がぐらりと揺れるほどの恐怖が迫り、イルセの胸が締めつけられた。
(……ここまでか……)
その瞬間。
「そこまでだ!」
轟音が地下に響いた。
分厚い扉が爆ぜるように吹き飛び、まばゆい光が奔流となって流れ込む。
一同が息を呑む中、先頭に立っていたのはマリスだった。
彼女の指先から編み出された戦術魔法が幾重もの壁となり、刃を跳ね返す。
甲高い音を響かせながら金属が床に転がった。
「なっ……!」
カリムの部下が狼狽する間もなく、グレンナが突進してきた。
「道を空けろォ!」
轟く声と共に、鍛え上げられた腕が椅子ごと敵をはね飛ばす。
その迫力に、村人たちが思わず後ずさった。
影のように滑り込んだティナは、すでにカリムの立ち位置を制していた。
その双眸は鋭く敵を射抜き、逃げ道を塞ぐ。
「イルセさん!」
エルメラが駆け寄り、縛られた体を抱きしめるように治癒の光を注ぐ。
温かな輝きが傷を癒し、震えていた彼女の呼吸が少しずつ整っていく。
そして――。
「……守って!」
震える声が、静けさを破った。
イルセの視界の先に立っていたのは光也だった。
剣も魔法も持たない。
だが、その背筋を必死に伸ばし、庇うように両腕を広げていた。
恐怖に震えている。それでも退かない。
「イルセさんは……僕が守ります!」
無力な叫び。
だがその背中は、不思議なほど大きく見えた。
イルセは思わず息を呑む。胸の奥で、何かがざわめいた。
(どうして……この子の背中は……こんなにも温かいの……?)
一瞬、迫り来る恐怖も忘れ、視線が釘付けになる。
その時、背後から低い声が響いた。セラフだった。
白衣の裾を揺らしながら、冷静に状況を見極めるような瞳で光也を見つめている。
「……彼の魂は、我々が知るどの規格にも当てはまらない。世界の干渉を拒む“特異点”だ」
続いてミロシュが険しい表情で言葉を重ねる。
「村の命運を託すなら……彼しかいない」
イルセは目を見開いた。
自分が感じた直感と、叡智の環の者たちが語る確信。
それらが一つに繋がった瞬間、心臓が強く脈打つ。
彼女は深く息を吐き、懐に手を差し入れる。
指先が触れたのは、長年守り続けてきた古びた護符。
結界の心臓部――「最後の供物台」に繋がる唯一の鍵。
震える手でそれを取り出し、光也へ差し出した。
「……貴方にしか、辿り着けない場所があります」
光也の瞳が大きく揺れる。
自分には戦う力も、特別な技もない。
それでも、仲間や村を救いたいという気持ちは胸の奥で確かに燃えていた。
「……僕にできることなら」
小さく、それでも確かな声で頷く。
護符が彼の掌に渡された瞬間、空気がわずかに震えた。
まるでそれ自体が彼を待ち望んでいたかのように。
マリスが短く言い放つ。
「なら、行くしかないわね」
グレンナが拳を鳴らし、ティナが無言で頷き、エルメラが光也を見守るように寄り添った。
夕闇が迫る村の奥。
「最後の供物台」へと続く道は、まだ誰も踏み入れたことのない未知の領域。
だが今、一行は迷うことなく歩みを進めていた。
その先に待つのが絶望か希望か――誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、光也の魂だけが、その扉を開く鍵だということだった。