第125話 裏切りの疑念
冷たい石造りの地下室に、灯火がかすかに揺れていた。
椅子に縛られたイルセの額には汗が滲み、その瞳は疲弊の色を帯びている。
目の前に立つカリムは、表情を崩さぬまま淡々と声を投げかけた。
「……イルセ。わかっているだろう。村を守れるのはお前だけだ」
傍らの部下が続ける。
「皆の命がかかっている。お前が口を開けば、それで済むんだ」
別の声が重なる。
「村を救うためだ。犠牲を避けるためだ。お前が決断すれば、誰も傷つかずに済む」
正義を装った言葉が、繰り返し耳に流れ込んでくる。
そのたびにイルセの胸は揺さぶられ、呼吸が浅くなる。
「……わたしが……決断すれば……」
無意識に唇から漏れ出た言葉に、カリムの目が鋭く光った。
彼は一歩、イルセに近づき、低く囁く。
「そうだ。お前が選ぶのだ。――結界の核の在処を」
イルセの視界が滲み、炎の光が遠ざかっていく。
意識の奥底で「言ってはならない」と警鐘が鳴っているのに、舌は勝手に動き出しそうになる。
「……結界の……核は……」
その声は細く、かすかに震えていた。
カリムの部下たちは息を呑み、互いに目を合わせる。
確信に満ちた笑みが、彼らの口元に広がっていった。
村を守る最後の要が、今まさに崩れ落ちようとしていた。
イルセの口から危うい言葉がこぼれ落ちかけたその時、背後に控えていた部下のひとりが小声でつぶやいた。
「……妙だな」
カリムの部下が眉をひそめる。
「最近のエルナ、妙に単独で動いている。報告も少ない……まさか——」
カリムの視線が細くなる。
「裏切り、か?」
緊張が走ったそのとき、石造りの扉が静かに開いた。
現れたのはエルナ。
淡い光を帯びたような微笑みを浮かべ、まるで疑念を見透かしたように首を横に振った。
「裏切りだなんて……ひどいです。私はずっと皆さんの役に立とうと動いていただけなのに」
その声音は澄み切っていて、嘘を探ろうとする耳にすら迷いを残さなかった。
彼女はまっすぐイルセに歩み寄り、静かにその頭に手を添える。
「……あともう一歩、ですね」
カリムたちの口元に、不気味な笑みが浮かぶ。
「やはりか……これで決まる」
だがその瞬間、イルセの意識の奥底に——青白い光が微かに瞬いた。
過去。
あの日、エルナが背中と頭に触れたとき。
「冷静な判断を下せるように」と囁かれ、体内に残された温もり。
それは洗脳の一種だと思っていた。
だが今、精神を侵食する暗い囁きに絡め取られかけたとき、その温もりだけが自分を底から支えていた。
(……あれがなければ、私はすでに堕ちていた……!)
イルセの心臓が強く脈打つ。
虚ろだった瞳に、微かな抵抗の光が戻り始めていた。
エルナの指先から、柔らかな光が再び広がった。
その瞬間、イルセの胸奥で、崩れかけていた精神が一気に反転する。
「……私は……堕ちてなどいない。守られていた……あなたに……」
イルセの声が震えながらも確かな響きを取り戻す。
カリムたちが一斉に狼狽した。
「な……なぜだ!? なぜ効かない!?」
「ここまで誘導したはずだ……もう抗える余地など残っていなかったのに!」
彼らは知らない。
イルセの精神が、崩壊寸前で踏みとどまれた理由を。
エルナは穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと耳元で囁いた。
「——だから言ったでしょう。私の役目は、守ることです」
その瞬間、イルセの瞳に完全な正気が宿る。
結界を守る者としての意志と誇りが、炎のように再び燃え上がった。
カリムたちの勝利を確信した空気は、一転して瓦解する。
静まり返った地下に、イルセの呼吸とエルナの言葉だけが強く響いていた。