第12話 クロウの夜
情報の隙間に生き、誰にも見つからない場所で刃を握る。
そんな男がいたとして、果たしてそれは「生きている」と言えるのか。
これは、記録に残らない英雄の物語。
名を持たず、顔も知られず、ただ“クロウ”として存在し続けた男の、たった一つの選択の話。
常識も、論理も、国家の枠組みすら意味をなさない世界の片隅で。
彼が守りたかったものとは何か。
そして、守れなかった日々を超えたその先に、何があるのか――。
ビルは黒く沈んでいた。
十階建ての廃墟――かつては通信会社のオフィスビルだったが、今は武装集団の根城と化していた。
人質七名。残された時間は、あと三時間。
「交渉は決裂。突入は上層部の判断待ちだ。ただし、中で何かあれば即時制圧に移行する」
署内の臨時作戦会議室。指揮官の声が重く沈む。
そのとき、背後の扉が静かに開いた。
「……彼が来た」
誰かの囁きが漏れる。
空気が張りつめる。現れた人物は影のように佇んでいた。
黒の戦術ジャケット。ノーエンブレム。短い髪に無表情。
だが、その目の奥だけは異様なほど"静かに燃えていた"。
「コードネーム、クロウ。突入許可が下り次第、任せる」
彼は無言で頷いた。
*
時刻は21時32分。
警察の包囲網が敷かれたビルの裏手、換気口から"クロウ"は無音で潜入した。
敵の見張りの位置、武器の種類、廊下の死角、床の軋み――すべてが、既に彼の脳裏に刻み込まれていた。
一階、二階、三階……。
必要最小限の動きで制圧を重ねる。
ナイフの反射すら警戒し、ライトは使わない。
代わりに、敵の"呼吸音"を頼りにする。
五階。最初の難所。
巡回中の二人組の一人が、不意に足を止めた。
「……なあ、今、誰か通らなかったか?」
その言葉が消える前に、影が舞う。
刹那。二人の男は音もなく床に崩れ落ちた。
睡眠導入剤入りのガスピストルが喉元に刺さっていた。
クロウの姿は、既に六階へと消えていた。
*
九階で、彼は足を止めた。
ここから先は"変数"が多すぎる。
敵が仕掛けたはずの地雷――だが、その配置に違和感があった。
「囮か」――その読みを確信したクロウは、あえてそのルートを選んだ。
予想通り、それは敵の"逃走経路"だった。
クロウは音もなく、監視の死角へと滑り込んだ。
*
十階――最上階。
人質が拘束されている会議室。
敵リーダーが叫ぶ。
「包囲されているのは分かってるんだ! こっちには地雷もあるぞ! 下手に動いたら――」
その瞬間、室内の電灯が"瞬く"。
次の瞬間、リーダーの背後から伸びた影が、その腕をねじり上げた。
悲鳴も出ない。
銃声もない。
ただ、静かに。
"制圧"は完了した。
*
翌朝のニュース。
「昨夜の立てこもり事件は、警察による迅速な制圧により、人質全員無事に保護されました。なお、事件の詳細や突入の経緯については非公開となっており――」
記者たちは問い続けた。
誰が突入したのか。なぜ人質に一切の傷もなかったのか。
一部では「クロウ」という名前がささやかれていた。
都市の影。
命の境を歩く"設計者"。
生還率1%のミッションを完遂した、誰よりも静かな"亡霊"。
だが、彼の素顔を知る者はいない。
ただ、ひとつ。
真夜中に、その名を耳にした者たちは、こう囁く。
「奴がいるなら、大丈夫だ」
*
夜風が静かにビルの屋上を撫でていた。
この高さまで登る人間など、まずいない。
警察への報告義務すら果たさず、光也はただそこに立っていた。制圧したばかりの建物の最上階。喧騒が去った後の静寂に包まれ、彼の気配は夜景に溶け込んでいた。
黒いジャンパーの裾が風に揺れ、背負った木刀がかすかに軋んだ。
腰には数本のナイフ。どれも、研ぎ澄まされた"人間の意志"でしか扱えない武器だった。
イヤホンからは英語のニュースが淡々と流れる。国際情勢、武装蜂起、紛争地の緊張、破綻国家のレポート。
彼にとっては、眠る前の読み聞かせのようなものだった。
「お前なら、どんな仕事でも成功する」
過去の声が耳の奥で蘇る。
それは"祝福"ではなかった。ただの烙印だ。
武術の師たちは、彼を弟子とは呼ばなかった。「兵器」として育てた。
拳も刃も、人の命を奪うために研ぎ澄まされた。
その期待に応える毎に、彼は"人"を失っていった。
感情も、優しさも、未来も。
けれど、ある日ふと気づいたのだ。
これは、本当に"過去を取り戻すための力"だったのかと。
「俺は、誰かの未来を守るために戦う」
そう決めた。
そうして今、"クロウ"は存在する。
警察のデータベースには痕跡すら残らない。
情報は暗号でやりとりされ、作戦は極秘裏に遂行される。
任務が終われば、彼の存在も消える――まるで最初から存在しなかったかのように。
今夜もまた、生還率1%のミッションを完遂して帰還した。
多くの者が倒れ、すべてが壊れた後に。
生き残ったのは、"クロウ"ただ一人だった。
耳に馴染んだニュース音声が、突如として歪む。
「……breaking news…国連からの声明によれば……バイオ――」
「――анализ завершен――」
「――無限循環ノ臨界、観測範囲ヲ超過――」
異なる言語。意味不明の文節。
ノイズと共に混線した音声が流れ込み、空気が静かに"異質"さを帯びていった。
次の瞬間、世界が揺れた。
空が――揺れている。
夜空に浮かぶ月のそばで、淡い青白い"円"がゆらめき始めた。
まるで、ガラスの水面に石を投げ込んだように、空が脈打つ。
光也はイヤホンを外し、静かに目を細めた。
無表情の奥で、何かが動いた。
「……世界が歪んでいく」
重力が、微かに乱れているのを感じ取る。
直感が警鐘を鳴らす――これは単なる異常気象ではない。
空間そのものが、境界線を崩し始めていた。
風が吹き抜けた。
街のネオンがかすかに揺らめき、時間が"遅れる"感覚に包まれる。
「俺はもう、守れなかった日々に戻るつもりはない。必要なら、どんな世界でも――俺は、"クロウ"であり続ける」
何を守るべきか――彼はそれを深く理解していた。
だからこそ、いかなる場所に立とうとも、ただ静かに刀を握り直すのみ。
上空の断層が、ゆっくりと回転を始める。
夜空に開かれる"扉"――それは音もなく現れた。
世界が変わろうとしている。
光也は、一切の迷いなく屋上の縁へと歩み寄り、静かに息を吐いた。
その佇まいは、凍てつくように冷たく、限りなく静謐だった。
まるで、この瞬間を待ち望んでいたかのように。
「理屈も理由もいらない。ただ、必要とされるなら――行くだけだ。」
その呟きを最後に、光也の姿が夜風と共に掻き消えた。
屋上には深い静寂だけが残された。
そして、再び世界は動き出す。
―To be continued in Another World.
『12話まで読んでいただき、本当にありがとうございます。』
光也という男は、決して強がっているわけではありません。ただ「クロウ」として在るしかなかったのです。
無表情で、冷徹に見える彼の奥には、確かに“人間の温度”があります。そう感じていただけたなら嬉しいです。
ここから、物語はいよいよ異世界へと突入します。
魔法、スキル、別の価値観――クロウにとっては「また別の戦場」に過ぎないのかもしれません。
どうかこれからも、静かに見守っていただけたら嬉しいです。
また次のページでお会いしましょう。