第116話 動乱の予兆
マリスは椅子に腰掛けたまま、一人ひとりに視線を巡らせて口を開いた。
「封律議会の方針は分かったわ。だが——この村で人々を直接動かしているのはカリムよ。彼の狙いを掴まなければ、次の一手は打てない」
ティナはその言葉に頷き、即座に手帳を広げた。
「市場を見張るべきね。武器や食料の動きに不自然さがあれば、裏に計画が潜んでいるはず」
グレンナは腕を組み、低く唸った。
「あたしは人の口から探るさ。飲み屋に顔を出せば、酒に舌が緩んで余計なことを喋るやつがいるだろう」
エルメラは不安げに皆を見回しながらも、勇気を振り絞って言葉を添えた。
「診療所にも行ってみます。怪我人や病人が増えていたら……それも何かの兆しになるはずです」
マリスはそれぞれの提案を整理するように聞き、まとめるように言った。
「いいわね。各自の立場で情報を集める。目的は村の動向を掴むこと——今は戦うのは早い」
短い沈黙のあと、光也が静かに言葉を継いだ。
「……確かに、今は焦るべきじゃないな」
自然と全員の視線がマリスへと集まる。彼女は小さく頷き、簡潔に結論を下した。
「決まりよ。準備が整い次第、動き出しましょう」
その場に安堵と緊張が入り混じった。
だが、ただ一人、ミロシュだけは目を伏せたままだった。
彼の胸に芽生えていたのは、他の全員とは異なる静かな決意——。
方針が決まり、それぞれが行動の準備に取りかかろうと立ち上がる中、ミロシュだけは黙したままだった。
一見すると冷静で、仲間の決定を受け入れているように見える表情。
だが胸の奥では、密かな炎が燃え上がっていた。
――待っているだけでは、真実には辿り着けない。
議会に従うティセルなど、本当にあり得るのか。
彼女の中にあった優しさ、疑念、そして希望――ミロシュはそれを確かに知っている。
報告にある非道な姿と、どうしても結びつかない。
膝の上で拳を固く握りしめる。
その震えを悟られぬよう、ミロシュは深く息を整えた。
その様子を、光也は隣から静かに見つめていた。
彼の脳裏にも、幻視で垣間見たティセルの記憶がよみがえる。
人を思いやる声色、議会に疑問を抱きながらも前に進もうとした姿――。
光也は、ミロシュの動揺の理由を理解していた。
だが口を開くことはしない。
自分が言葉にすれば、彼をさらに追い詰めるだけだと分かっていたからだ。
*
夕暮れ時の市場は、ざわめきと匂いに満ちていた。
焼き立てのパンの香り、魚を並べる桶の生臭さ、行き交う人々の足音が交じり合い、雑多な熱気を生み出していた。
ティナは布のフードを深くかぶり、人混みに紛れながら歩いた。
片手で小さな手帳を押さえ、もう片方の手で羽根ペンを走らせる。
「塩漬け肉――価格、先月の倍。干し魚も同様。……武具の露店が増えている?」
目に入ったのは、普段なら旅人向けの小さな防具程度しか扱わない露店だった。
だが今日は剣や槍まで並び、しかも安くはない。
ティナは足を止めず視線だけを走らせ、手帳の余白に素早く書き留めた。
背後から行商人同士の低い会話が耳に入る。
「……またか。あいつらが根こそぎ買っていく」
「今月だけで三度目だ。俺たちの取り分まで消える」
ティナの目が細くなる。聞き流すふりをしながら、その言葉を正確に記憶に刻み込んだ。
「特定の集団による買い占め……やはり動きがある」
人々の喧噪の中、ティナは冷静に歩みを進め、市場の奥へと足を運んでいった。
*
薄暗い飲み屋の扉を押し開けると、酒と油の匂いが混じった熱気が流れ出てきた。
グレンナはずかずかと中へ入り、堂々と腰に手を当てて声を張り上げた。
「女将、強い酒を頼む! 一番きついやつだ!」
ざわめきが一瞬止み、数人の客が目を丸くした。だがすぐに笑いが広がる。
「ははっ、負けてられんな」
「おい、俺ももう一杯だ!」
グレンナは豪快にジョッキをあおり、喉を鳴らして飲み干すと、近くの村人に肩を回した。
「おい、兄弟。最近どうだ? 村の景気は」
「んぁ? まあ……よくはねえな」
酔いの回った中年男が、鼻をすすりながら答える。
「物は高くなるし、人も減ってきた。……あぁ、そういや反対派の連中、最近見ねえな」
グレンナは耳をそばだてながらも、表情は崩さず笑った。
「へえ、どこに行ったんだ? 旅にでも出たか?」
その言葉に、別の酔っ払いがにやけて口を挟んだ。
「へっ……旅だとよ。あいつらなら——裏手の倉庫に連れて行かれたって話だ」
「おい、余計なことを言うな!」
と隣の男が慌てて止める。
だがすでにグレンナの耳には十分だった。
彼女は豪快に笑い声を上げ、あえて話題を逸らした。
「ははっ、そりゃ穏やかじゃねえな! よし、次の酒だ!」
酔客たちが再び笑いに戻る中、グレンナの瞳だけが鋭く光っていた。
*
昼下がりの診療所は、かすかな薬草の香りに包まれていた。
木製の扉を押して入ったエルメラは、白衣を纏う老医師に軽く頭を下げた。
「お手伝いが必要でしたら、私も治癒魔法でお力になれます」
老医師は驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「おや、ありがたい。ちょうど寝かせている患者が多くてね」
エルメラは包帯を替えたり、額に手を当てて熱を確かめたりしながら、さりげなく会話を続けた。
「怪我人が多いですね……村で何か起きたのですか?」
「ふむ……表向きは事故や喧嘩だと聞いているがな。しかし同じような切り傷や打撲が続いていてね」
老医師は小さくため息をついた。
「それに、皆が口をつぐんで話そうとしない。まるで何かを恐れているようだ」
エルメラの胸が騒めいた。
そのとき、彼女が包帯を巻いていた青年患者が、ふと視線を逸らし、震える声で漏らした。
「……反対派の人たちが、いなくなったの……知ってますか?」
エルメラは息を呑んだ。
青年はすぐに唇を噛み、黙り込んでしまう。
だがその一言で十分だった。
「ありがとうございます。……少しでも早く良くなりますように」
彼女は優しく微笑みかけ、傷を癒す光をそっと流し込んだ。
老医師も患者も安堵したように目を細めたが、エルメラの心は重かった。
――これは偶然ではない。村の奥で、何かが確実に動いている。