第112話 "未定義"
光也は沈黙の後、唇を噛み、決意を固めるように問いかけた。
「……僕に自然に備わっている"構造"って、何なんですか?」
声は少し掠れていた。信じがたかった。
そんな特別なものが自分に備わっているなど、考えたこともなかったからだ。
イレーネはじっと光也を見つめ、やがて静かに告げた。
「——あなたは"無"ではない。"未定義"なのです」
「……未定義?」
光也は思わず聞き返した。
その耳慣れない言葉が、胸の奥に不安を呼び起こす。
横でミロシュが頷き、補足するように説明した。
「普通、"スキルを持たない"とは、ただの空虚を意味する。だが君は違う。君の魂は……この世界に馴染まないほど、鍛え抜かれているんだ」
「鍛え抜かれている……僕の魂が?」
光也は眉をひそめた。自分にそんな覚えはない。しかし二人の視線は揺るぎなかった。
イレーネが一歩前へ進み、淡々と説明を続けた。
「普通の者に宿るスキルとは、生まれた瞬間に定められる"脚本"のようなものです。魂の空欄に、この世界の理がコードを書き込む——それがスキルです」
光也は目を見開いた。
「……じゃあ、僕にはその"空欄"がなかったということですか?」
ミロシュが重々しく頷く。
「そうだ。君の魂には、すでに何かが満ちていたんだ。前の世界で積み重ねた鍛錬や葛藤、克己……魂そのものが鋼のように硬化していた」
イレーネの声が、その言葉を裏付けるように続いた。
「だから、この世界は君にスキルを刻めなかった。まるで硬化した鋼にナイフを押し当てるように——傷すら付けられなかったのです」
光也の心臓が大きく跳ねた。
「……それで、僕には何も宿らなかった……」
イレーネは静かに首を振った。
「いいえ、誤解してはいけません。あなたは"無"ではないのです」
光也は息を呑む。
「あなたは"未定義"」
イレーネの言葉はまっすぐに光也の胸へ突き刺さった。
「つまり——どのようにでも定義され得る存在なのです」
「……どのようにでも?」
光也は思わず繰り返した。
その言葉は信じがたい響きだった。
ミロシュがゆっくりと頷き、言葉を添えた。
「そうだ。普通の者は、生まれた瞬間に"与えられたスキル"を背負って生きる。それは変えられない脚本だ。だが君は違う。君は与えられる者ではなく——"選び取る者"なんだ」
光也は思わず口を開いた。
「選び取る……僕が?」
イレーネの瞳が細まり、低い声が回廊に響いた。
「もしあなたが——本当に何者かになりたいと願い、そのために歩み続けるのなら。既存のどのスキルにも似つかない、"概念そのもの"を宿すことになるでしょう」
「概念……そのもの……?」
光也の頭は混乱した。
しかし、胸の奥で何かが震えていた。
ゼロだと思っていた自分が、実は無限の可能性を秘めていると言われた衝撃。
それは恐怖であり、同時にかすかな希望の光でもあった。
イレーネは最後に静かに告げた。
「あなたは"ゼロ"ではありません。——"∞(無限)"なのです」
光也は、ただ呆然と二人を見つめ返すしかなかった。
石造りの回廊に、彼の鼓動だけが異様に大きく響いていた。