第109話 祈りの原点
ラファスを押さえつける兵士の鎧が、夕暮れの光を鈍く反射していた。
鉄と革の重みが、セリーナの細い体を無慈悲に地面へと押しつける。
「いや……! ラファスを……助けなきゃ……!」
必死に伸ばした手は空を掴み、弟の指先に届きそうで届かない。
胸の奥を掻き毟られるような焦燥感に、セリーナはただ祈った。
いつものように、弟の膝の傷を癒す時と同じように。
けれど——今回は違った。
「どうか……どうか……!」
血が沸き立つような痛みと恐怖の中で祈った瞬間、いつもの温かな光は生まれなかった。
代わりに、深く澄んだ暗い泉に触れるような感覚が、心の奥底から溢れ出した。
(これは……? 血でも肉でもない……魂……?)
全身を電流が駆け巡る。
セリーナは自分の力がただ肉体を癒すだけのものではないことに気づいた。
もっと深い場所に届き、もっと大切なものを守れる——そう直感した。
(私……治すだけじゃない……守れる……! ラファスのすべてを!)
視界の端で、弟の瞳が必死にこちらを求めている。
セリーナは涙を流しながら、その魂へと手を伸ばした。
柔らかく温かな光が広がり、彼女の魂とラファスの魂が重なっていく。
その瞬間、セリーナは無我夢中で、自らの存在そのものを差し出した。
「大丈夫、ラファス……私がいる。だから——絶対に、ひとりじゃない……!」
言葉は祈りに変わり、祈りは力となった。
鎧の重さも、議会の冷酷な影も、その瞬間だけは遠く霞んで消えていった。
セリーナの身体が、ふと淡い光に包まれた。
夜明けの光が人影を透かすように、彼女の輪郭が揺らぎ、内側から眩い輝きが滲み出ていく。
「……姉さん……?」
鎖に縛られたラファスが、その光景に息を呑む。
恐怖と驚愕で震える瞳に、セリーナは穏やかに微笑みかけた。
「ラファス……怖がらないで」
光はやさしく腕のように伸び、弟を抱きしめるように包み込む。
彼女の声は震えていたが、不思議なほど揺るぎない強さを宿していた。
「私たちはもう、ふたりじゃない。ひとつの祈り。だから——ひとりじゃない」
その言葉と同時に、セリーナの魂がほどけていく。
彼女の存在そのものが細い糸となり、ラファスの胸の奥へと流れ込んでいった。
胸に熱が走り、ラファスは叫ぶ。
「やだ……行かないで、姉さん!」
だが光は彼を否定せず、ただ優しく重なり合っていく。
涙と震えの中で、ラファスは確かに感じ取った——彼女は消えるのではない。
彼の内に、祈りとして共に在るのだと。
次の瞬間、光が弾けた。
轟音と共に、兵士たちを絡め取っていた鎖や呪術の束が爆ぜ飛ぶ。
淡い結界がラファスを中心に広がり、その内側には一切の干渉が届かなくなった。
兵士たちは目を見開き、たじろいだ。
「な……なんだ、この力は……」
最前に立つ封律議会の使者が愕然と呟く。
「魂そのものを……操作しただと……?」
恐怖と驚愕が入り混じった沈黙が広場を覆う。
ただひとり、結界の中心に立つラファスだけが、胸に宿る姉の温もりを感じながら震えていた。
——もう、ひとりではない。
ラファスの小さな足が、石畳を蹴った。
まだ幼い身体なのに、不思議と迷わずに走れる。
胸の奥で脈打つ光が彼を導いていた。
「姉さん……いるんだね……」
荒い息の合間に漏れた囁きに、内側から柔らかな声が応えた。
『ええ。どんな時でも、ずっと一緒』
胸の奥に宿る温もりが答えた瞬間、ラファスの足はさらに力強く地を踏んだ。
背後では、兵士たちの怒号と鎖の響きが追いかけてくる。
封律議会の術師たちが次々と捕縛の術式を展開し、足元には拘束の鎖が現れ、頭上には封印の光が降り注いだ。
だが——結界が輝くたび、そのすべてが砕け散る。
触れることすら許されないように、光の壁は波紋を描いて術を弾き、鎖を焼き切った。
「なぜだ……! 我らの封律が……効かぬ!?」
兵士たちの叫びは焦燥と恐怖に満ちていた。
ラファスは振り返らない。
ただ村の道を駆け抜け、茫然と見守る村人たちの間を縫い、森の闇へと飛び込んでいく。
胸の奥に響く姉の声が彼を包み込む。
『大丈夫。もう怖くない。私がいるから』
「うん……!」
涙で滲んだ視界を拭う暇もなく、必死に走る。
追っ手の兵士たちは執拗に術を放つ。
だがその度に光の結界が鮮烈に閃き、彼らの試みをことごとく打ち砕いた。
やがて、夜気に溶け込むように——ラファスの姿は森の闇の中で光の残滓となり、掻き消えた。
残されたのは、ただ呆然と立ち尽くす兵士たちと、恐怖に凍り付く村人たちだけだった。
*
眩い光が消え去った後、光也はしばらく呼吸すら忘れて立ち尽くしていた。
眼前で繰り広げられた光景——それは現実か幻かも判然としない。
だが確かに、彼の魂に焼き付けられていた。
姉の必死の叫び。
弟を護りたいと願い、すべてを投げ出して差し伸べた手。
そして、血肉を癒すだけでは届かず、魂そのものに触れたとき——彼女は自らの魂を差し出すことを選んだ。
「……魂を、犠牲にして……他者を保護する……」
光也は震える声で言葉を紡いだ。
その力は、力任せの術式でも、理に則った封律でもなかった。
ただひとつの、強すぎるほどの願い。
「失いたくない」という祈りが、魂を結び合わせ、守護の形を生み出したのだ。
それがやがて、"祈り"と呼ばれる力の始まりとなる——光也は直感で理解した。
その根源は、理論でも制度でもなく、ひとりの姉の必死の願いにあったのだと。
光也の胸に、かすかな温もりが宿る。
それは、遥か昔に生まれ、今もなお受け継がれる祈りの名残。
「……これが、始まりだったんだな」
そう呟いた瞬間、視界に揺らぎが走り、幻影は霧散していった。
残されたのは、鼓動を早める自身の胸の内と、確かに見届けた"原点"の記憶だけだった。