第108話 幸福の断絶
夜の帳が村を包み、遠くで虫の声が繊細に響いていた。
二人は草原に寝転がり、星の瞬く夜空を並んで見上げている。
昼間の賑やかな笑い声はなく、ただ静かに、互いの温もりを確かめるように。
しばらくして、弟がぽつりと呟いた。
「……セリーナ姉さんがいるから、僕は平気だよ」
その声にはまだ幼さが残っていたが、言葉の奥には真剣な響きがあった。
セリーナは目を瞬かせ、横に寝転ぶ弟を見つめた。
彼の視線は空の星々に注がれている。
普段は怖がりで臆病な弟が、今は不思議と落ち着いた表情をしていた。
「私だって」
姉は小さく笑う。
「ラファスがいるから頑張れるの。だから……ずっと一緒だよ」
ラファスが振り返る。その黒い瞳に、星の光が映って揺れていた。
ふいに彼が手を伸ばす。小さな小指が姉の指を探るように差し出された。
セリーナはそっとその指に自分の小指を絡めた。
「絶対に離れない」
「絶対に」
二人の声が重なり、夜空に小さな誓いが刻まれた。
風が優しく草を撫で、遠い空で星が瞬いている。
その光の下、姉弟は無邪気な約束を交わした。
まるでそれが永遠に続く幸福の証であるかのように。
*
翌日。
いつものように陽光に満ちた野原で、セリーナとラファスの笑い声が響き渡っていた。
セリーナが摘んだ小さな野の花をラファスの髪に差し込むと、弟は「似合わないよ」と照れながらも頬を赤らめた。
二人の笑顔はあまりに自然で、村の空気さえ柔らかく包み込むようだった。
そのとき——。
ぎしりと重い金属の音が風を切り裂いた。
続いて、地を踏みしめる鈍い足音が幾重にも重なり合う。
遊びに夢中だった子どもたちが振り返り、村人たちの顔から血の気が引いていった。
「……来たぞ」
「封律議会の紋章だ」
誰かの掠れた声が広場を走り、ざわめきが広がった。
村人たちは恐れと敬意が入り混じった眼差しを交わしながら、自然と道を開けていく。
重厚な鎧を纏った使者たちが現れ、その胸には封律議会の紋章が燦然と輝いていた。
視線。
無数の眼差しが、ただ一点へと注がれていた。
セリーナとラファス。
遊びの続きが断ち切られ、二人は硬直した。
セリーナは咄嗟に弟の手を握りしめる。
小さな手の震えが伝わってくる。
「姉さん……」
ラファスの声はかすかに震えていた。
セリーナは必死に笑顔を作ろうとした。
「大丈夫よ。……離さないから」
弟の目に浮かぶ怯えを包み込むように、その手を強く握り返す。
ラファスもまた、必死に力を込めて応えた。
けれど、議会の使者たちの眼差しは冷ややかだった。
まるで彼らの存在そのものを測るように。
野原に吹く風が、一瞬にして冷たさを帯びた。
集まった村人たちのざわめきが、鎧の擦れる音に飲み込まれていった。
封律議会の使者たちは厳かに列を成し、その中心に立つ男が一歩前へと進み出る。
冷たい視線がセリーナとラファスを貫いた。
ラファスは反射的にセリーナの背に身を隠す。
セリーナは弟の肩を抱き寄せ、震える小さな手をしっかりと握った。
「……姉さん」
「大丈夫よ、ここにいるから」
互いの囁きがかすかに響いたその直後だった。
男が開いた口から発せられた言葉は、冷酷で重々しく響いた。
「双子の片割れは、"理に適わぬ存在"。存続は許されぬ」
空気が張り裂けた。
鋭利な刃物で、野原の幸福なひとときが一瞬で断ち切られたかのように。
村人たちが息を呑む。誰も声を出さない。
重苦しい沈黙と、信じがたい現実だけが辺りを覆った。
セリーナの心臓が激しく打ち鳴る。
たった今まで、確かに笑い合っていたはずなのに。
弟と花を摘み、歌を口ずさんでいたはずなのに。
ラファスの小さな手が、汗ばみ震えている。
その震えに応えるように、セリーナは必死に握り返した。
——絶対に、離さない。
だが、宣告の響きは容赦なく幸福を過去へと押し流していく。
姉弟の未来に、暗い影が落ち始めていた。
ラファスの腕を掴んだ兵士の手は、鉄の鉤のように冷たく、決して離すまいと食い込んでいた。
「姉さんっ!」
まだ幼い声が、村の広場に張り裂けるように響き渡る。
セリーナは反射的に弟の手を握り返し、全身で引き寄せようとする。
「離して! ラファスを連れて行かないで!」
涙に濡れた彼女の声は震えていたが、鋼の意志を秘めていた。
兵士は力任せにラファスを引き剥がす。
小さな体が揺さぶられ、ラファスの顔が苦痛で歪む。
それでも弟は必死に片手を姉のほうへ伸ばし、掠れた声を絞り出す。
「……姉さん……!」
村人たちは周囲で息を潜めていた。
恐怖に支配され、誰ひとりとして二人の間に割って入る者はいない。
泣き叫ぶ姉、必死に手を伸ばす弟。
その細い絆だけが、冷酷な空気の中で唯一の灯火のように揺らめいていた。