第107話 無邪気な日常
ミロシュが最後の封律兵を退け、森に静寂が戻る。
光也は荒い呼吸を整えながら、目の前に鎮座する供物台へと歩み寄った。
「……これが、原初の供物台……?」
触れなければならない。
理由も理屈もなく、そう確信していた。
震える指先で石の表面に触れた瞬間、視界が弾け飛んだ。
白い光が奔り、森も仲間たちの姿も消え去った。
光の流れの中に、二つの影が浮かび上がる。
それは——姉と弟。
よく似た顔立ちを持ち、姉は柔らかな眼差しで弟の手を握り、弟は怯えるように俯いていた。
二人は互いを求めるように寄り添い、強く手を結んでいる。
光也は息を呑んだ。
これは幻なのか、それとも供物台が刻んだ記憶なのか。
だが確かに、その視線は彼に向けられ、声なき声が胸へと届いてくるようだった。
*
村はずれの野原には陽の光が降り注ぎ、風に揺れる草花がきらめいていた。
小川は澄んだ音を奏で、鳥たちが枝から枝へと飛び交う。
そんな穏やかな午後、姉弟は誰にも邪魔されない遊びに夢中になっていた。
「見て、きれいなお花が咲いてるよ!」
姉がしゃがみ込み、赤や白の小さな花を指さした。
手早く花を摘むと、器用に茎を絡ませて冠を編み始める。
慣れた指先が動くたび、「ほら、あと少しでできるよ」と笑顔で弟に語りかけた。
弟はその横で小川に石を投げていた。
「やった! 三回跳ねた!」
と声を上げ、水切りが成功するたびに顔を輝かせて姉の方を振り返る。
その無邪気な表情に、姉は自然と笑みを深めた。
「もう、はしゃぎすぎて川に落ちないでよね」
「大丈夫だよ!」
と言いながら次の石を投げる弟だったが、今度は思うように跳ねず、水面に沈んでしまった。
「あぁー」と肩を落とす。
その様子に姉は「ほらね」と微笑み、完成した花冠を弟の頭にそっと乗せた。
「えっ……なにこれ……」
不意を突かれた弟は頬を赤らめ、照れ隠しに花冠に手をやる。
姉は得意げに手を腰に当てて笑った。
「似合ってるよ、ほら、王子様みたい」
「やめてよ……!」
と顔を真っ赤にして抗議する弟に、姉は声を上げて笑う。
野原には二人の声が響き渡り、草花も小川も、その笑い声に包まれるようだった。
小川のそばで夢中になって石を探していた弟は、不意に足を取られた。
「うわっ!」と声を上げて転び、膝を石にぶつける。
瞬間、赤い擦り傷が走り、じわりと血がにじんだ。
「大丈夫!?」
姉はすぐに駆け寄り、しゃがみこんで弟の膝を見た。
驚きと心配の混じった声に、弟は涙目で「平気だよ……」と強がる。
「もう、また無茶するんだから」
姉は小さく息をつき、そっと弟の膝に手をかざした。
指先が触れると同時に、淡い光がにじみ、傷口を柔らかく包み込む。
祈りのように静かなその光は、少しずつ肉を繋ぎ、血を押し返していく。
弟は息を呑んで見守った。
じんわりとした温かさが広がり、痛みが和らいでいくのを感じる。
ほんの数瞬で、赤く擦れていた膝は元通りになっていた。
「……すごい」
思わず呟いた弟は、ぱっと顔を上げ、花冠を落としそうな勢いで笑った。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
姉はその笑顔に安堵しながらも、額に指を当てて軽く叱る。
「何度言ったらわかるの。ちゃんと足元を見て歩きなさいって」
「はーい……」と照れくさそうに返す弟の顔には、感謝の気持ちが溢れていた。
光が消えても、姉の手のひらには微かな温もりが残っていた。
その温もりは、彼女が弟を守るために存在すると告げているようだった。
*
夜。
母屋の片隅、油の匂いのする小さな灯火の下で、弟は背を丸めて紙に何かを書きつけていた。
小さな手に握られた羽ペンが擦れる音だけが、静かな夜気に溶けていく。
「……何してるの?」
声をかけると、弟はびくりと肩を震わせ、あわてて紙を隠そうとした。
「お姉ちゃん!? な、なんでもないよ!」
姉は怪訝そうに眉をひそめ、彼の手からするりと紙を抜き取った。
そこには不思議な紋様や記号がぎっしりと描かれていた。
見覚えのない形ばかりだが、整然と並ぶそれはただの落書きには見えなかった。
「これ……何?」
問いかけに、弟は少し唇を噛んだ後、小声で答えた。
「……この前、鍛冶屋のおじさんの手を少しだけ握ったんだ。そしたら胸の奥に、光の線みたいな模様が浮かんできて……。気づいたら、それを覚えていて、こうして書けるようになったんだ」
姉は息を呑んだ。
弟は恥ずかしそうに笑いながら、紙を広げる。
「見てて」
そう言うと、指先で記号の一部をなぞった。
すると紙の端がほのかに光り、小さな火花がぱちぱちと散った。
「……っ!」
姉の目が大きく見開かれる。
「ね、すごいでしょ? おじさんの"火打ちのスキル"を、こうやって紙に移せたんだ。誰でも使えるようになるんだよ」
無邪気に笑う弟。
しかし姉の胸をよぎったのは喜びではなく、不安だった。
魂の仕組みに干渉できるような力は、きっと……。
姉は弟の手をぎゅっと握りしめた。
「絶対に、誰にも見せちゃだめよ」
「……え?」
「約束して。どんなに嬉しくても、誰かに知られたらきっと大変なことになるから」
弟は戸惑いながらも、やがて真剣に頷いた。
「……うん。お姉ちゃんが言うなら」
灯火が揺れ、火花で黒く焦げた紙の端を照らす。
姉はその光を見つめながら、弟の笑顔を守るためなら何があっても——と強く心に誓った。