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第107話 無邪気な日常


ミロシュが最後の封律兵を退け、森に静寂が戻る。


光也は荒い呼吸を整えながら、目の前に鎮座する供物台へと歩み寄った。


「……これが、原初の供物台……?」



触れなければならない。


理由も理屈もなく、そう確信していた。



震える指先で石の表面に触れた瞬間、視界が弾け飛んだ。


白い光が奔り、森も仲間たちの姿も消え去った。


光の流れの中に、二つの影が浮かび上がる。


それは——姉と弟。


よく似た顔立ちを持ち、姉は柔らかな眼差しで弟の手を握り、弟は怯えるように俯いていた。


二人は互いを求めるように寄り添い、強く手を結んでいる。



光也は息を呑んだ。


これは幻なのか、それとも供物台が刻んだ記憶なのか。


だが確かに、その視線は彼に向けられ、声なき声が胸へと届いてくるようだった。



村はずれの野原には陽の光が降り注ぎ、風に揺れる草花がきらめいていた。


小川は澄んだ音を奏で、鳥たちが枝から枝へと飛び交う。


そんな穏やかな午後、姉弟は誰にも邪魔されない遊びに夢中になっていた。



「見て、きれいなお花が咲いてるよ!」


姉がしゃがみ込み、赤や白の小さな花を指さした。


手早く花を摘むと、器用に茎を絡ませて冠を編み始める。


慣れた指先が動くたび、「ほら、あと少しでできるよ」と笑顔で弟に語りかけた。



弟はその横で小川に石を投げていた。



「やった! 三回跳ねた!」


と声を上げ、水切りが成功するたびに顔を輝かせて姉の方を振り返る。


その無邪気な表情に、姉は自然と笑みを深めた。


「もう、はしゃぎすぎて川に落ちないでよね」



「大丈夫だよ!」


と言いながら次の石を投げる弟だったが、今度は思うように跳ねず、水面に沈んでしまった。


「あぁー」と肩を落とす。



その様子に姉は「ほらね」と微笑み、完成した花冠を弟の頭にそっと乗せた。



「えっ……なにこれ……」


不意を突かれた弟は頬を赤らめ、照れ隠しに花冠に手をやる。


姉は得意げに手を腰に当てて笑った。


「似合ってるよ、ほら、王子様みたい」



「やめてよ……!」


と顔を真っ赤にして抗議する弟に、姉は声を上げて笑う。


野原には二人の声が響き渡り、草花も小川も、その笑い声に包まれるようだった。



小川のそばで夢中になって石を探していた弟は、不意に足を取られた。


「うわっ!」と声を上げて転び、膝を石にぶつける。


瞬間、赤い擦り傷が走り、じわりと血がにじんだ。



「大丈夫!?」


姉はすぐに駆け寄り、しゃがみこんで弟の膝を見た。


驚きと心配の混じった声に、弟は涙目で「平気だよ……」と強がる。



「もう、また無茶するんだから」


姉は小さく息をつき、そっと弟の膝に手をかざした。


指先が触れると同時に、淡い光がにじみ、傷口を柔らかく包み込む。


祈りのように静かなその光は、少しずつ肉を繋ぎ、血を押し返していく。



弟は息を呑んで見守った。


じんわりとした温かさが広がり、痛みが和らいでいくのを感じる。


ほんの数瞬で、赤く擦れていた膝は元通りになっていた。



「……すごい」


思わず呟いた弟は、ぱっと顔を上げ、花冠を落としそうな勢いで笑った。


「ありがとう、お姉ちゃん!」



姉はその笑顔に安堵しながらも、額に指を当てて軽く叱る。


「何度言ったらわかるの。ちゃんと足元を見て歩きなさいって」


「はーい……」と照れくさそうに返す弟の顔には、感謝の気持ちが溢れていた。



光が消えても、姉の手のひらには微かな温もりが残っていた。


その温もりは、彼女が弟を守るために存在すると告げているようだった。



夜。


母屋の片隅、油の匂いのする小さな灯火の下で、弟は背を丸めて紙に何かを書きつけていた。


小さな手に握られた羽ペンが擦れる音だけが、静かな夜気に溶けていく。



「……何してるの?」


声をかけると、弟はびくりと肩を震わせ、あわてて紙を隠そうとした。


「お姉ちゃん!? な、なんでもないよ!」



姉は怪訝そうに眉をひそめ、彼の手からするりと紙を抜き取った。


そこには不思議な紋様や記号がぎっしりと描かれていた。


見覚えのない形ばかりだが、整然と並ぶそれはただの落書きには見えなかった。



「これ……何?」


問いかけに、弟は少し唇を噛んだ後、小声で答えた。


「……この前、鍛冶屋のおじさんの手を少しだけ握ったんだ。そしたら胸の奥に、光の線みたいな模様が浮かんできて……。気づいたら、それを覚えていて、こうして書けるようになったんだ」



姉は息を呑んだ。


弟は恥ずかしそうに笑いながら、紙を広げる。



「見てて」


そう言うと、指先で記号の一部をなぞった。


すると紙の端がほのかに光り、小さな火花がぱちぱちと散った。


「……っ!」


姉の目が大きく見開かれる。



「ね、すごいでしょ? おじさんの"火打ちのスキル"を、こうやって紙に移せたんだ。誰でも使えるようになるんだよ」


無邪気に笑う弟。


しかし姉の胸をよぎったのは喜びではなく、不安だった。


魂の仕組みに干渉できるような力は、きっと……。



姉は弟の手をぎゅっと握りしめた。


「絶対に、誰にも見せちゃだめよ」


「……え?」


「約束して。どんなに嬉しくても、誰かに知られたらきっと大変なことになるから」


弟は戸惑いながらも、やがて真剣に頷いた。


「……うん。お姉ちゃんが言うなら」



灯火が揺れ、火花で黒く焦げた紙の端を照らす。



姉はその光を見つめながら、弟の笑顔を守るためなら何があっても——と強く心に誓った。



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