第106話 村人の不安
夜の帳が降り、村の広場に集まった人々は、互いの顔を見合わせながら低くざわめいていた。
松明の炎が赤々と揺れる中、そこに立つのはカリムとその部下たち数名。
いずれも昼間より険しい表情を浮かべている。
カリムはゆっくりと前に歩み出ると、ざわめきを切り裂くように声を上げた。
「──皆も感じているだろう。封律議会がこの村を査定している」
その言葉に広場が静まり返る。
焚き火の弾ける音だけが耳に残った。
「放っておけば、この村の行く末はやつらの判断ひとつで決まる」
カリムの眼差しは暗がりに光り、群衆を鋭く見渡した。
「封律議会が我らを守ってくれるとでも思うか? 否。彼らはただ"理"に従い、必要とあらばこの村ごと切り捨てるだろう」
吐き出された言葉は冷気のように村人たちの胸を刺した。
誰かが小さく息を呑み、別の誰かが震える声を漏らす。
「だからこそ、我々自身が立ち上がらねばならない。村を守るのは我ら自身なのだ」
カリムの部下が一歩前に出て、「その通りだ!」と声を張り上げた。
広場に不安と動揺が広がり、やがてそれは「何かしなければ」という焦燥へと変わっていく。
炎に照らされたカリムの横顔には、静かな笑みが浮かんでいた。
村人たちが互いに顔を見合わせる中、カリムの部下のひとりが前に出て、わざと声を落として語り始めた。
「皆、知っているか……。封律議会は"理を外れた人間"を処分してきたと」
ざわ、と人々の背筋が震える。
「それはもう昔の話だろう?」と誰かが弱々しく答えた。
だが部下は首を振る。
「いや、今も変わってはいない。……聞いたことがある。ある村では、"結界そのものが理を外れている"と判断され、村ごと消されたと」
「そんな……!」
「まさか、噂だろう……?」
村人たちの間に恐怖と不信が広がっていく。
その波を利用するかのように、別の部下が言葉を重ねた。
「考えてみろ。我らの村の結界は特殊だ。封律議会の目から見れば"理から外れた存在"と見なされかねない。だからこそ、今こうして査定を受けているのだ」
「ま、まさか……この村が……処分される……?」
「だったら、どうすれば……」
不安に揺らぐ声が次々に漏れる。
そこでカリムがゆっくりと両手を広げた。
「恐れるな。だからこそ我々が策を講じるのだ。結界を守らねばならん」
彼の声には不思議な力があり、恐怖に包まれた人々の心を強く引き寄せた。
「封律議会に全てを委ねれば、村はいつか消される。だが我々と共に動けば、この村は生き延びられるのだ」
不安に囚われた人々は、まるで頼り綱を見つけたかのようにカリムの言葉に頷いていった。
──広場に渦巻く噂は、確かな疑念と不信へと変わりつつあった。
夜の広場は、松明の炎に揺らめきながらも、まるで冷たい風が吹き抜けたかのように張り詰めていた。
「そんな……私たちの村が……!」
年老いた女が声を震わせる。
「封律議会に従っていれば安全ではないのか? 彼らには大きな力がある。むしろ逆らう方が危険だ」
不安に駆られた村人の言葉に、周囲の者たちも次々と頷いた。
「そうだ……余計なことはせず、彼らに任せるべきだ」
「下手に動けば、かえって村が潰されるかもしれない」
広場に不安のざわめきが広がる。
その空気を切り裂くように、カリムが一歩前へ出た。
「安全……だと?」
静かな声だったが、その言葉には重みがあった。
村人たちの視線が一斉に彼へ集まる。
「ならば問おう。なぜ"侵入不可能"とされてきたこの村に、外の者が入ってこられるのだ?」
息を呑む音が広場に走る。
カリムはゆっくりと人々を見渡し、確信に満ちた口調で続けた。
「答えは一つ。すでに結界は揺らいでいる。封律議会はそれを知り、査定と称して監視を強めている。彼らが結論を下す前に、我々自身で結界を守る道を選ばねばならない」
広場に漂っていた「従順でいれば安全だ」という空気は、たちまち揺らぎ、不安が恐怖へと変わっていった。
村人たちの目に、迷いと混乱が映る。
その中心で、カリムの声はさらに強く響いた。
「信じるべきは封律議会か、それともこの村の未来か──」
炎の光に照らされた彼の姿は、不安に沈む村人たちにとって、まるで唯一の拠り所のように見え始めていた。
広場の空気はすでに重く、吐息すら白く濁るように感じられた。
そんな中、カリムの傍らに控えていた部下の一人が一歩進み出て、低く鋭い声を放った。
「結界の力が削がれれば、この村は無防備となる。外敵に蹂躙され、封律議会も、我らも……村を守ることはできぬ」
村人たちの表情が揺れる。恐怖が胸の奥で膨らんでいく。
部下はさらに言葉を重ねた。
「だが……守れる者が一人いる。結界そのものを理解し、扱える者だ」
カリムがその言葉を受け、広場の中心に立って人々を見渡した。
そして決定的な一言を静かに落とす。
「その知識を持つのは、ただひとり──イルセ老人だ」
ざわめきが広場を満たす。
白髪を編んで背に垂らした、穏やかな表情の老女の姿が脳裏に浮かんだ者も多い。
長年村を支えてきたあの女性──だが、彼女は固く口を閉ざし、結界の仕組みを誰にも語ろうとはしなかった。
カリムは炎に照らされながら、声をさらに低くして続ける。
「彼女が口を開けば、この村は救われる。だが……彼女は沈黙を守り続けている。ならば、我々が力を合わせて説得せねばならぬ」
広場のあちこちから、怯えと同意の声が漏れる。
「イルセ様なら……」
「どうか、お話を……」
村人たちの視線は次第に、救いを乞うようにカリムへと集まり始めていた。
広場のざわめきは、次第にひとつの方向へと流れていった。
恐怖に押されるように、誰かが小さく口にする。
「……イルセに話を聞いてみよう」
その声に呼応するように、別の村人が叫んだ。
「今は協力すべきだ! 結界が崩れれば、私たちは終わりなんだ!」
賛同の声は次第に大きく、重なり合っていく。
「イルセ様なら答えを知っているはずだ」
「頼むしかない……!」
群衆の動きは雪崩のように勢いを増し、広場全体を飲み込んでいった。
その光景を見て、カリムは静かに微笑んだ。満足げに。だが声に出す時は、あくまで謙虚を装う。
「我々はただ導くだけだ。選ぶのは、村の皆だ」
あたかも決定権は自分たちではなく、村全体にあるのだと言わんばかりに。
だがその言葉の裏にある意図を感じ取った者もいた。
群衆の影に立つ数人の村人は眉をひそめ、唇を噛む。
「……何かおかしい」
心の中でそう思う者もいたが、不安と焦燥に押し流されるように、多くの人々は頷いてしまうのだった。
夜の炎に照らされ、広場の空気はひとつの結論へと収束していく。
──イルセに語らせねばならない。
広場を満たしていたざわめきが、次第に薄れていった。
焚き火のパチパチと弾ける音だけが夜気に残り、村人たちは不安げな表情のまま三々五々、家々へと戻っていく。
その背中を見送りながら、カリムは口元にゆるやかな笑みを浮かべた。
表向きの穏やかさはもはや不要だった。
部下だけが残った空間で、彼の声は低く、鋭さを帯びる。
「……いい流れだ」
闇に響いたその言葉に、近くに立つ部下たちがかすかに頷いた。
カリムは焚き火の炎をじっと見つめ、吐息のように続けた。
「イルセさえ引き出せば、あの魂柱も……この村も、我らのものとなる」
その声音には、もはや村の安寧を思う色は一片もなかった。
静まり返った広場に、野心と企みの残滓だけが濃く滲み出していた。