第104話 ティナの偵察開始
森の夜は異様なほど静寂に包まれていた。
虫の音さえ途絶え、風は枝葉を避けるように細く滑り抜けていく。
ティナは足を止めた。
――肌に纏わりつく重い気配。
まるで森そのものが脈動しているような異様な魔力の波を、彼女の感覚が捉えていた。
「……嫌な感じだわ」
呟いて、草むらに身を沈める。
息を殺し、波の流れる方角を探る。
斥候として鍛えた感覚は、風の流れや地の揺らぎさえも手がかりにできた。
木の根を伝って走るかすかな力の線を見つけ、ティナはそっと前進した。
森の奥――。
そこに、光を飲み込むような不自然な空間が広がっていた。
「……隠蔽結界」
視界にはただの闇。だが、研ぎ澄まされた感覚には、幾重にも張り巡らされた術式の層が触れてくる。
まるで夜そのものを引き裂き、偽りの風景で覆い隠しているようだった。
ティナは目を細めた。
(封律議会……。間違いない。あれは彼らの仕業だ。)
腰の短剣に軽く触れる。だが抜かない。
今は戦いの時ではなく、情報を得る時だ。
彼女は呼吸を浅く整え、気配遮断の術式を重ね掛けした。
体から漏れる魔力を糸のように細くして、闇に溶け込ませる。
続いて、潜伏の技を発動。
葉の揺れ、影の深さ、すべてを利用して自らを風景の一部と化した。
「……よし」
森の匂いに混じり、わずかな人の気配が鼻をかすめた。
彼女は音もなく、一歩を踏み出す。
闇の奥へ、封律議会の影が待つ方向へと。
暗い森の奥――。
張り巡らされた隠蔽結界をすり抜け、ティナは息を殺して身を伏せた。
そこは小さな空き地。
木々を削り、地を固めて造られた粗末な兵営が広がっていた。
焚き火の火はほとんど煙を上げず、熱気も結界内に封じ込められている。
外から見ればただの闇。だが、その中心で今響く声は明らかに――封律議会のものだった。
「第一目標――光也」
重々しい男の声が夜気を切り裂いた。
ティナの目が反射的に細まる。
中央に立つのは、威容を放つ鎧姿の男。
その鋭い眼光に兵たちの視線は釘付けになっていた。
「第二目標――ディアル領域結界の核。副次目標、魂柱の回収だ」
その名を聞いた瞬間、ティナの背筋に冷たいものが走った。
魂柱――村の祈りの象徴、生命の根源。
彼らは本気で村を解体するつもりなのだ。
男――ヴェスタンと呼ばれる人物の隣には、一人の女が控えていた。
黒衣をまとい、氷のような眼差しで兵の列を見渡している。
彼女が一歩進み出て、淡々と告げた。
「対象の少年は抵抗が乏しいと見込まれる。だが、同行者に未知数の存在がいる。油断は禁物だ」
「各班は術式刀を即座に展開可能な陣形を維持。捕縛を最優先、殲滅は二次とする」
冷徹な声。
その言葉の刃が兵たちの心を律していく。
その女――ティセルと呼ばれた存在が、作戦の隙間を一つ残らず埋めていった。
ティナは唇を噛みしめた。
胸の鼓動が高鳴る。喉が渇く。
だが一歩でも枝を踏み鳴らせば終わりだ。
身を低くして、ただただ息を潜める。
闇と一体になりながら、彼女は決して見逃せぬ敵の言葉を心に刻み込んでいった。
その刹那。
「…………」
ティセルの肩がわずかに動いた。
冷たい空気を切り裂くように首を巡らせ、その双眸が闇を射抜く。
真っ直ぐに――ティナの潜む茂みの方向を。
「そこにいるのは……誰だ?」
鋭い声が空間を裂くと同時に、隠蔽結界が激しく軋んだ。
無数の符が宙に舞い、結界が"内側から"反転する。
潜伏していた空間が炙り出され、ティナの気配を白日の下に晒そうとしていた。
「しまっ――!」
枝を蹴り、ティナは飛び出した。
だがすでに遅い。
拠点の周囲に待機していた封律兵たちが一斉に殺到する。
鎧の擦れる音、術式刀が抜かれる冷ややかな響き。
夜の森に、狩りの開始を告げる足音が轟き渡った。