ラウンド3:量子もつれ~奇妙な遠隔作用?
あすか:「神はサイコロを振るのか…ラウンド2では、決定論か確率論か、そして観測される前の『実在』はあるのかという、物理学の根幹を揺るがす大激論が繰り広げられました。」(一呼吸置いて、真剣な眼差しで)「しかし、量子の扉の先には、さらに私たちの常識を覆す、もっと奇妙な世界が広がっています。アインシュタイン博士、あなたが量子力学の不完全性を鋭く指摘するために、ポドルスキー氏、ローゼン氏と共に提唱された、あの有名なパラドックス…ご自身が『不気味な遠隔作用』とまで評された現象について、口火を切っていただけますでしょうか?」
アインシュタイン:(待っていましたとばかりに、しかし表情には依然として納得のいかない色が濃く)「よろしい。あれは、量子力学がもし『完全』な理論であるならば、我々の信じる物理学の基本的な考え方、すなわち『局所実在論』と矛盾してしまうことを示そうとしたものだ。」(周囲を見渡し、特にボーアに向けて語りかけるように)
アインシュタイン:「想像したまえ。あるプロセスによって、二つの粒子(例えば電子)が生成され、互いに反対方向に飛び去っていくとする。そして、これら二つの粒子は特別な関係、いわゆる『もつれた状態』にあるとする。例えば、片方の粒子のスピン(自転のような性質)が上向きだと分かれば、もう片方のスピンは必ず下向きである、という具合にね。」
あすか:「互いの状態が関連し合っている、ということですね?」
アインシュタイン:「そうだ。さて、この二つの粒子が、宇宙の果てと果てほど、どれだけ遠く離れたとしても、この相関関係は保たれる、と量子力学は言う。ここで問題だ。もし私が、地球にいる観測者が、こちらに飛んできた粒子Aのスピンを測定し、『上向き』だと確定させたとしよう。その瞬間、量子力学によれば、はるか彼方、例えばアンドロメダ星雲にいる観測者が持つ粒子Bのスピンは、測定するまでもなく『下向き』に確定するのだ!」
(アインシュタインは、信じられない、というように首を振る)
アインシュタイン:「これは一体どういうことかね?地球での測定行為が、光の速さでも何百万年もかかるような遠い場所にある粒子の状態を、瞬時に決定づけるというのか?これはまるで…テレパシーではないか!何か得体の知れない力が、光速を超えて影響を及ぼしているとしか思えない!これこそ、私が『不気味な遠隔作用(spookyactionatadistance)』と呼んだものだ!物理法則が、こんな非局所的な作用を許すはずがない!量子力学の記述は、やはり『不完全』なのだよ!」
ボーア:(アインシュタインの熱弁を静かに聞いていたが、ここで穏やかに、しかし断固として反論を始める)「アインシュタイン君、君の思考実験の鮮やかさには、いつもながら感服するよ。だが、君の結論は、前提となる考え方、つまり粒子がそれぞれ独立した『実在』を持つという古典的な描像に囚われすぎているのではないかね?」
アインシュタイン:「どういう意味かね、ボーア君?」
ボーア:「その二つの粒子はね、たとえどれだけ空間的に離れていようとも、生成された瞬間から一つの分かち難い『量子系』として記述されるべきなのだよ。それらは独立した存在ではない。片方の粒子について何かを測定するということは、その粒子単独の状態を知るというよりは、その相関した『系全体』の状態について、我々が情報を得るということなのだ。」
アインシュタイン:「系全体だと?それは言葉の綾ではないのかね?」
ボーア:「いや、そうではない。地球での測定が、アンドロメダの粒子の状態を『変化』させているわけではないのだ。測定する前から、二つの粒子の状態は、いわば運命共同体のように結びついている。地球で『上向き』という結果が出れば、それは同時に、アンドロメダでは『下向き』という結果が出るような相関が、初めからその系に内在していたことを示しているに過ぎない。これは、光速を超えた情報の伝達ではないのだよ。むしろ、我々の『局所性』という概念自体が、量子の世界では見直しを迫られているのだ。」
ハイゼンベルク:「ボーア先生のおっしゃる通りです。EPRパラドックスで問題になるのは、測定前の物理量が確定した値を持っているという『実在性』の仮定と、遠隔作用は存在しないという『局所性』の仮定を、同時に満たそうとするところにあります。量子力学、特に不確定性原理は、測定前の物理量が確定値を持つという考え方自体を否定しているのです。何を測定するか、という選択が、初めて結果を確定させるのです。」
シュレーディンガー:(腕を組み、考え込むように)「数学的には…そうなのかもしれないな。量子もつれという現象は、私の方程式からも導かれる奇妙な帰結の一つだ。だが…」(アインシュタインの方を見て)「アインシュタイン博士の言う『不気味さ』は、私も感じずにはいられないのだよ。まるで幽霊のような繋がりが、遠く離れた粒子の間にあるかのようだ。直観的には、到底受け入れがたい。」
アインシュタイン:(ボーアに向き直り、最後の抵抗のように)「それでも納得できん!ボーア君、君の言う『系全体』だの『相関』だのという言葉は、結局のところ、この奇妙な非局所性をごまかすためのものに聞こえる!物理学は、我々の素朴な直観に反するからといって、宇宙の基本的な構造原理であるはずの『局所性』や、観測から独立した『実在性』を、そう簡単に放棄してしまって良いものではないはずだ!」
ボーア:(アインシュタインの目を真っ直ぐに見返し、静かに、しかし確信を込めて)「しかし、アインシュタイン君、自然が実験を通じて我々に示すものが、我々の『基本的な原理』と矛盾するのならば、我々は、その原理の方をこそ疑うべきではないのかね?量子力学は、不完全どころか、我々に、これまで想像もしなかったような豊かで深遠な、新しい世界の描像を与えてくれたのだ。我々は、その声に耳を傾けるべきではないだろうか。」
(アインシュタインとボーアの視線が交錯する。数十年にわたる論争の歴史が、その視線の中に凝縮されているかのようだ。他の二人も固唾を飲んで二人を見守っている。スタジオには緊迫した沈黙が流れる。)
あすか:(感嘆のため息をつきながら、その沈黙を破る)「…はぁ……。時空を超えた、究極の論争…。言葉もありません。アインシュタイン博士、ボーア博士、そしてシュレーディンガー博士、ハイゼンベルク博士。皆様、まさに歴史に残る、素晴らしい議論をありがとうございました!」(感動を隠せない様子で)「この知的な激闘の熱を少し冷ますために、ここで一度、休憩といたしましょう。皆様、どうぞこちらへ。」
(あすかに促され、四人の偉大な物理学者たちは、まだ議論の余韻を残しながらも、ゆっくりと席を立つ。)