おい高橋、お前に会いたいよ。※迷子から覚醒へ
━ 今、この瞬間、満足しているか。不満がないだけか。━
吉田則夫45歳。細身で178㎝と背が高め、顔つきはぎょろっとした目に、頬骨が出て厚めの唇、見た目は地味で、どこにでもいる普通のサラリーマン。2つ年上の妻は大学の同好会「ミステリーサークル研究会」の先輩で、丸顔に凛々しい眉、丸い目に丸い鼻、おまけに小柄で少しポッチャリしていて、美人ではないがとてもチャーミングでよく笑う。たまにケンカもするけれど、とても尽くしてくれる。子供は今年20歳を迎える娘が1人いる。結婚22年目である。
本当に平凡な人生だが、心に一つだけ痞えがあり、その痞えは、おそらく妻も同じではないだろうか…。
子供の頃、スーツ姿の父親が『スーツはサラリーマンの戦闘服だ』と言っていた影響を受けて、スーツで海外を渡り歩く商社マンが格好良く見え憧れていたが、ちなみに父親は普通の事務職員だったが……。バブル崩壊後の日本での就職活動は、大学卒業でも厳しい時代。第一希望、第二希望とも、就職試験に落ち、その後も落ち続け、なんとか内定をもらった会社は、幅広く商品を扱う商社ではあるものの、海外とは無縁の小さな会社で、それでも良しとしたのは、友人達が就職の内定をもらう中、ただ1人取り残されているのではないかという焦りや不安が心の中で積み上がり、学校の成績があまりよくなかったことは棚上げにし、就職難を言い訳に半ば夢あきらめの気持ちで決めた会社でありながら20年勤めている。
やり直すなら、高校時代に戻って、一流大学を目指してちゃんと勉強すれば、なりたい商社マンになれたかもしれない。子供が成人し、1人になれる時間が増えると、則夫は時々そう思うのだった。と言うのも、去年、入社してきた新人の高橋守の話が影響した。
高橋は気さくな男で、何が楽しいのかいつもニコニコしていて、誰とでもすぐに仲良くなり、人懐っこい気質が営業に向いていたのか、社内での営業成績も優秀だ。則夫とは年の差があるものの、則夫の大学時代の話を聞いて『同じミステリー研究だ』と思い込み、則夫が何度も『ナスカの地上絵の研究だ』と言っても、『ナスカも同じミステリーっすよ』とわかってもらえない。また、ミステリーの話になると、話が長くついていけない所もあり、中肉中背で切れ長の目に、スっとした鼻筋、清潔感がある顔立ち、おしゃれなマッシュスタイル、見た目が俗に言う爽やかなイケメンであるにもかかわらず、話題がミステリーだの別の次元だの、現実とは違う世界の話が多いためか、『痛い奴』と思われ気味で、女子社員にはあまりモテない。
高橋と飲みに行くと、必ず話題に上がるのが、パラレルワールドという別世界の話だが、則夫は目を輝かせながら話をする高橋のことが、なんとなく気に行っていて、今回も飲みに付き合うことになった。
「……で、その世界では、自分と同じ姿の『自分』が生活してるんすよ。すごいと思いませんか?」
「ふふふ、そうだな……」
「てか、聞いてないでしょ。僕の話。ありませんか、もしあの時、違う選択をしていたらって思うこと。ありません?…ぼかぁね、さ、最近、おもうんすよ」
「おいおい、飲みすぎじゃないのか?小さく言葉噛んでるぞ。そろそろ、帰ろうか?」
「よっぷぁらってないれすよ!!」
「酔ってるだろ…なんかあったのか?」
「なぁんにも、ないれすようぃ」
「酔ってんじゃねぇか。そろそろ出よう」
「も、もう一軒いきましょ、酔い覚ましに、ね、お願いします」
「しょうがねぇなぁ。酔い覚ましに、いつもの喫茶店に行くか」
「あい、いきやしょ」
「酔い覚ましだぞ、酔い覚まし。それと、俺は終電よりも一本前の電車じゃないと、最寄り駅からのバスがなくなるんだからな」
「わかってますよぅぃ」
「頼むぜ、ほんとに」
則夫は10年前に地方に家を買ったため、通勤に1時間はかかる。以前は終電で帰ってもバスがあったのだが、過疎化の影響とバスの運転士が少ないことから、2年前にバスのダイヤが変わり、終電で帰るとバスがなくなり、タクシーもなかなか通らないような田舎なので、自宅まで40分以上歩かねばならない。
喫茶店に着くと、アイスコーヒーを2つ注文し、たばこを吸いなら、一口飲んだところで、高橋が話はじめた。
「課長は今の現状に満足してますか?」
高橋はそう問うと、上着のポケットからたばこを出し、則夫と同じように、吸いながら一口飲んだ。
「どうした、急に。てか、課長じゃなくて、課長代理な。代理。課長が入院しちゃってるから」
「満足してますか?」
「酔ってないのか?」
「僕、実は、酒ものすごく強いんですよ。酔ったフリしてるんです」
「え?」
「課長ともう少し、話したく、いや聞いてほしくて。で、満足してますか?」
「……だから代理だってば。高橋、お前、おかしな宗教とかマルチ商法とか、引っかかってんじゃないのか?大丈夫か?」
「ははははは、警戒されるの無理ないですね。違いますよ。実はね、高校の時から付き合ってる彼女と、昨日、別れたんです。でね、別れずにいたら、どんな人生かなって。もし、パラレルワールドが存在して、もう1人の自分がその人生送ってるとしたらって、考えたんですよ。同じミス研にいた課長なら、少し共感というか、なんというか、、、」
「だから課長代…まぁいいや、それとミス研じゃなくて、地上絵の研究会で、そんな参加してなかったしな。というか、彼女と別れたって…。あの、ほらあの子だろ?前に紹介してくれて、うちにも遊びに連れてきたことあった、あの子…。名前なんて言ったかな。カミさんとも話してたんだが…似合いのカップルで結婚すると思ってた」
高橋は則夫にとても懐いていて、則夫のことは上司というよりは兄貴的存在に思っていたのか、何度か家に遊びに来た中で、一度、彼女を紹介したいと連れてきたことがあり妻とも面識がある。
「名前は律子です……。僕は…。結婚するつもりで付き合ってたんですが…」
「律子さん、りっちゃんて呼んでたな。別れたって…」
「はい。結婚が決まったら、課長に仲人をお願いするつもりでした。実は、僕の彼女、いや、元カノか。大学のミスコンで1位になったこともあるんです。おまけに頭もいい。でね、仕事はキャビンアテンダントなんです。でも、やりたい仕事じゃなかったと感じたらしく、通訳や翻訳の仕事をやりたいと。それで、語学留学すると言い出して、今は結婚は考えられないそうなんです。となると、遠距離恋愛になるんですが、僕はそれでもいいと言ったんですけどね、待たれると勉強に集中できないとか、あなたはあなたの人生考えていいのよとか、なんだかんだで別れたがってるように聞こえちゃって……」
「で、別れたのか?」
「……はい」
「彼女のこと、とても愛してたんだな…」
「…。今も愛してますよ。付き合ってる期間が長くて、居るのが当たり前になっていたから。あ、女子社員にミステリーの話するのも、彼女を安心させるためだったんですよ。僕は、モテる見た目をしているらしくて、高校の時に僕から告白して、彼女と付き合い始めたんですが、彼女が僕の知らないところで、嫌がらせ受けていて、それが僕のことを好きな女の子達からだったんです。で、女の子達がひいてしまうような変な奴になろうと考えて、UFOとか宇宙人とか、パラレルワールドとか。そんな話ばっかり調べまくって周りに話してるうちに、ウザがられて彼女への嫌がらせもなくなったんです。今では、それが癖になって趣味になりましたけど、ははは」
泣きそうな笑みを浮かべながら話す高橋に対して、黙って聞いてやることしか、できないもどかしさにいた則夫に気遣ったのか、高橋は話を続ける。内容は、パラレルワールドという別世界の話だが、則夫を心配させまいと笑いを交えながら話す高橋の姿に、慰めの言葉さえ浮かばない自分の語彙力のなさが、苛立ちにも似た複雑な気持ちのまま、静かに見ているしかない則夫だった。
高橋の別世界の話は、高橋の心中を思うと、ほとんど頭に入ってこないものの|、人に話すことで、高橋の気持ちが少しでも解れるのではないかという思いから、ときには頷き、ときには『うん。そうだな』と相槌をうつ。2時間ほど経っただろうか。電車の時間が近づき、高橋も静かにアイスコーヒーを飲み、たばこを1本取り出すと、
「これ吸ったら、帰ります。課長の電車の時間が」
「おいおい、さっきは電車の時間のこと言ったけど、高橋の気が済むまで、今夜はとことん付き合うぞ」
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。って言っても、当分引きずっちゃうと思いますけど」
屈託のない笑顔を見せる高橋を見て、辛そうな胸の内を感じ則夫は思わず、別な話題をしようと考えながら、あちこち目線を配ると、前から気になっていた高橋の右手の甲、親指の付け根に少し目立つケロイドが見えた。
「その、親指の付け根は、あれか?ケガしたのか?」
「これ、小学校に上がる前だったかな。親父がジッポライター持ってて、たばこに火をつけるたびに、格好いいなと憧れて、触るなって言われてたんですが、親父が風呂に入ってる間に、真似して遊んでたら火がついちゃって火傷したんです。男の子あるあるってやつですよ。怒られるのが怖くて、ものすごく腫れて痛いのに我慢してたら、朝、おふくろに見つかって大騒ぎ。出勤前の親父が仕事休んで、病院に車で連れて行ってくれたんです。あの時は、親父に怒鳴られるかと思ったんだけど、何回も何回も、痛いだろ、ごめんな大丈夫だからなって、心配して…その時できた傷です。僕、一人っ子で、親父がとても可愛がってたから、火傷を見て大慌てしたんでしょうね。病院連れて行くとき、僕を担いで靴も履かず、靴下のまま駐車場の車に飛び乗って、おふくろのことも財布も免許証も忘れて行ったもんだから、おふくろが後ろを、ママチャリで猛スピード出して追いかけたんですって。僕、火傷までは覚えているけど、他のことは全く記憶にないから。後からその話聞いたとき、両親の様子が浮かんで大笑いしましたよ」
思い出し笑いしながら、親指の付け根にあるケロイドをそっと撫でる高橋を見て、
「素敵な両親だな。高橋が良い男なのも納得だ…。どうだ。うちで飲むか?遠いけど」
と声をかける。
高橋は真顔になり、すぐに人懐っこい笑顔に戻ると、
「いや、本当に大丈夫です。個人的な話をこんな時間まで、ありがとうございました」
「遠慮するなよ。うちのカミさんのこととか気にしなくていいんだぞ」
「……。課長、本当に優しい良い人ですね。大丈夫っす。遠慮とかじゃなくて、色々、聞いてもらって、少し気分が楽になりました。また、へこみそうなときに、お願いします」
「…そうか、わかった。あと、代理な。課長代理。出世とは無縁の中年だ」
「ははは。信頼があるから任せられるんでしょ。先輩。密かに先輩のこと頼りにしてる業者、多いんですよ。僕、外回りだから、先輩の評判がいい話入ってくるんすよ」
「そ、そうか?なんか照れるな。普通に仕事してるだけなんだけどな」
喫茶店を出て5分ほど歩くと駅に着く。その間も、そっとしとくことが一番いいのか、なにか元気づけれらないか、あれこれ考えていたが、消化不良な気持ちのまま黙って歩く則夫の後ろを、高橋も黙って歩いていた。駅に着いたところで、高橋の方を向くと、
「先輩!、今度、僕の秘密基地行きませんか?」
「秘密基地?なんだそりゃ??」
「とっておきの場所があるんです。誰にも教えてない」
「秘密基地か。子供の頃を思い出すな。家から小学校までの間に古い寺があってさ、寺の裏の山の中に、友達何人かで集めた板切れ持ち込んで、ぼろ板を立てて並べただけの小屋たてて、そこで、そろばん塾をさぼって、友達と駄菓子食べたりマンガ読んだり…。そのうち坊さんに見つかって、親にバレて、めちゃくちゃ叱られたよ」
「ははは。板切れで小屋ですか」
「そう。小屋っていっても釘とか使ってないから大きな楠に板切れを立てかけて、屋根はどうしたっけなぁ。小枝をたくさん集めて、かぶせたんだったかな。あの頃はそれが大冒険のような気がして、楽しかったな」
「僕の秘密基地はそんな小屋じゃないですよ。高くも低くもない、ちょうど良い感じの場所で視界を邪魔するものもなく、とても綺麗で遠くまで見えるんです。昼と夜とでは見える景色も違くて。僕にとっては素敵な場所です」
「そうか。それは楽しみだ」
「はい。ぜひ!」
高橋は、先ほどまでとは違う、いつもの笑顔を見せると、じゃまたと片手を上げて、足早に則夫が向かうホームの反対側へ去って行く。その姿を目で追いながら、胸が詰まる思いを消化しきれず、頑張れよ高橋、頑張れ。と小さく呟きながら姿が見えなくなるまで、目で追った。そして、久しぶりに失恋の痛みを思い出した。
大学生二年の頃、当時、学内で一番の美人と噂され、誰もが憧れた、葉山洋子とい言う、密かにマドンナと呼ばれる女性がいた。女性に内気な則夫は、同じ授業を取ってるだけで満足だったが、そのマドンナに声を掛けられ、告白されたことがある。則夫にとっては宝くじ一億円が当たったに等しい感覚で、それまで女の子とまともに付き合ったことがないため、どう答えたらいいのか分からずにいると、洋子の提案で、お友達から始めることになった。しかし相手は高根の花。緊張して会話も上手くできないないまま、数回、デートしたが『思った通りのつまらない人ね。もっとギャップのある人かと思ったのに』と言われてしまい、自分で分かっていることを、他人にましては憧れの人に言われたことで傷つき、学内で見かけるたび、心が苦しく辛い日々を過ごした。高橋の場合、それとは違うが『別れ』に関しては、心が痛むことに変わりはない。
最終電車の1本前の電車に乗ることができた則夫は、空いてる座席に座り、胸ポケットからスマホを取り出し、妻和恵にメッセージを送る。
『バス間に合うよ』
バスに間に合わない場合は、和恵が寝てなければすぐに返信がきて、駅まで車で迎えに来てくれることになっているが、返信がなければ、歩いて帰るのだ。
『ハイ了解』
和恵は、家を購入した頃から、自転車で20分ほど離れた所にある、青果市場に週4日、パートに行くようになった。体を動かずことが好きな和恵は、結婚当初、ハイキングや山登りといったアウトドアに興味があり、よく2人で出かけていた。なぜ、大学でミステリーサークルの同好会に入ったのか聞いてみると、『地上絵って高いところからでないと見えないのよ。高い所にロマンを感じるのよね』と、よくわからないことを言い、そのうち富士山にも登りたいと言っていたが、娘の美咲を妊娠してから、行く機会が減り、あのことがあってからは、則夫も和恵もアウトドアから自然と遠のいていった。
最寄り駅で降りると、今までいた街の中とは違い、空気感が一気に変わる。桜が咲き始める頃だが、この辺りは、山に近いためか、気温も2度ほど低い。酔いも醒め、肌寒さが体にしみる。駅を出て少し左へ行くと、最終バスが停車していて、則夫は寒さで身震いしながら乗り込んだ。バスは時間通り出発し、道が混むこともなく、乗り降りするお客もほとんどいない。自宅近くのバス停まで10分もかからず到着し、バス停からは歩いて5分ほどで則夫の家に着く。便利と言えば便利だが、車が必須な田舎町である。
門扉を手前に引いて、一段上がると玄関があり、段の所にはパンジーやミニバラを植えたプランターが左右に二つずつ、扉に近づくとセンサーで照明が付くようにしてある。門扉の左横に車1台分が置けるガレージも付いている。則夫は鞄から鍵を取り出し開けて入った。入って左はリビングと台所、目の前には2階に上がる階段があり、美咲の部屋と、寝室がある。1階奥にはトイレとバスがあり、右奥には、8畳ほど広さで物置を兼ねた書斎。カウンターキッチンは広くはないが和恵の希望に沿って付けられ、キッチンの前には家族が使うには程よい大きさの食卓、そして、ソファベットと小さめのガラステーブル。全体的に明るく見えるように、アイボリー系でまとめられ、落ち着ける場所になっている。リビングを出ると、3坪くらいの庭がありガレージと繋がっていて、バーベキューを楽しんだり、和恵が家庭菜園をすると言っては虫や野鳥に食べられて失敗を繰り返したり、珍しい植物を育てると言っては枯らしたり、何かと楽しませてくれる庭になっていて、この時期は様々な雑草たちが一斉に芽吹いて、モンシロチョウがときどき遊びにきたりする。
リビングでフーッと息を吐きながら、ソファーに鞄を置いて、ネクタイをを緩めながら、台所で水を飲んでいると、和恵が2階から降りてきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「明日のパート、休みになったのよ。有給たまってるから使わないといけないんだって」
「そうか、明日だけなのか?」
「明日、金曜日でしょ?、うーんと月曜日までだったかな」
「そうか…。急なんだけど、明後日の土曜、高橋をうちに呼んでいいか?」
「高橋君?いいわよ。彼女さんも一緒かしら。何という名前だったかな」
「律子さん。実は、その律子さんと別れたらしいんだ」
「そうそう律子さん、りっちゃんだ。え?別れた?」
則夫は、これまでの経緯を話し、少しでも元気づけてやりたいと和恵に伝えた。和恵は快く承知したが、高橋の気持ちが一番大事だから、まずは高橋の都合を聞いてからにしようとなったところで、ふと和恵が思い出したように、話し始めた。
「勉強だけが理由じゃないかも」
「え?」
「りっちゃんよ」
「なんだよ。勉強だけじゃないって」
「あのね、今思えば、うちに2人がきたときに、あなたは高橋君と酔っぱらって、わちゃわちゃ盛り上がってたけど、家庭の話とか、子供の話とかが話題になると、一瞬なんだけど、りっちゃんの表情が暗くなった気がしたの。ほんの一瞬だから、見間違いかもしれないけど。でも、何かある気がしたんだよね。女の勘よ女の勘」
「あてにならないよ。女の勘。見間違いだよそんなの」
「あら、女の勘、馬鹿にしないでよ!」
「はいはい。あんまり大声だすと、美咲が起きるぞ」
「美咲は、友達の家に泊まり込みでレポート書くって」
「そうか。友達の家って、男じゃないだろうな」
「女の子よ。大学の近くに住んでるんだって。ていうか、男でもいいじゃない。ボーイフレンドの1人や2人いた方が。いつまでもネンネじゃ困ります!」
「俺としては…その…まだ男なんて、早いよ!だめだ。だめ」
「ああはいはい。わかった!わかった!おやすみ!おやすみ!」
「なんだよもう。はいはいおやすみ」
高橋のこと。娘美咲の外泊。複雑な想いが胸中を巡り、寝付けそうにないと感じた則夫は、風呂を済ませ、台所からグラスと氷を持ち出し、書斎へ向かい、本棚に飾ってあるブランデーを取り、深く椅子に腰かけ、ゆっくりと呑んだ。
書斎といっても、ドアから左側は、いつか使うかもしれない工具や、いつか着るかもしれない和恵の洋服等が収められている収納棚が三分の一を占めて、奥に木製のワークデスクと椅子、右側に三段ボックスを2つ並べ、本棚にしている。
飲んでいると、ドアをコンコンとノックの音がしてから、和恵が入ってきた。
毛布とチョコレートを手にし、
「あなた、これ。まだ冷える時期だから」
「ああ、ありがと」
「明日、仕事でしょ。ほどほどにしてくださいね」
「ああ」
翌朝、いつも通りの朝を迎えた。和恵が朝食と弁当を用意している。ご飯に味噌汁、サラダに納豆と、弁当のおかずで余った卵焼き。今日、高橋に会ったら家に呼ぶことを考えながら、もしかすると、案外、元のさやにおさまっているかもしないなどと、朝食を済ませ家を出た。
業務中、高橋に会うことはなかったが、得意先に直行してから、出社することが度々あったので、今日もそうだろうと、誰もが思っていた。結局、勤務時間が終わっても戻ってこなかったが、そのまま得意先と意気投合して、接待に行ったんだろうと、他の社員達も気に留めることなく、則夫は自身のスマホから連絡するようにとだけメッセージを送信した。
帰宅し、高橋と会社で会えなかったことを和恵に話しスマホを見るが、高橋からの返信はなく、既読がわかるアプリを使って、もう一度メッセージを送った。もしかしたら、一人静かにいたい、そっとしといてほしいと思っているかもしれないと考え、休み明けの月曜日に会ったときでも話すればいいかと、これ以上の連絡はしなかった。
翌日、いつもの休日の朝である。和恵は朝食を用意しながら、洗濯機を回し、則夫はトレーナーにジャージ姿で、テーブルに座り新聞を見る。昼過ぎ、娘の美咲が友達の家から戻ってきた。則夫は、彼氏ができたのではと、気にしながらも口にせず、外泊は控えて次は友達を家に呼べばいいじゃないかと言うと、
「お母さんに言ったけど、友達んちの方が、大学近いの!。便利なの!。こんな田舎と違ってね。睡眠削ってレポート書き上げて、提出期限間に合ったのに、お父さんウザイ!もう寝るから!声かけないでよね」
ドンドンと足音を立てながら階段を上がる美咲に、和恵が声をかける。
「あら、お腹空いてないの?ご飯は?」
「いらない!」
「あらら怒っちゃった。美咲も大変なのよ。レポートもそうですけど、資格のこととか、色々と」
則夫を諭すように和恵は続ける。
「あの子ね、夢がないんですって。先月だったかしら?高校の同級生、何人かとあって、保育士さんとか看護師さん、あとはなんだかの研究?みんな夢を持ってキラキラしてて、自分には何もないなぁって。焦ってんの。とりあえず、子供は嫌いじゃないから、教員免許の取れる大学にギリギリで入ったものの、留年しちゃうかもの瀬戸際だって。せめて目標でもあれば頑張れるかもしれないっていうから、私、焦らなくてもいいんじゃないって言ったんだけど。置いていかれる気持ち、わからなくもないんだけど…。私もあなたも、どちらかと言えばのんびりというか、まあいいか、なんとかなるさって言ってさ、なんとかなってきたでしょ?」
「……そうだなぁ。夢か。俺は海外へ行くような商社マンに憧れたけどなれず、普通の商社勤めだしな」
「半分夢が叶った感じ?」
「ああ、そんな感じかな」
「私も半分かな?うちのお母さんみたいなお母さんになりたいと思ってた。父が早くに亡くなって、母が一人で頑張ってた。どんなに苦しくても笑ってた。だから、私もそうなりたいなって」
「お義母さんそっくりなお母さんじゃないか。充分、ひょうきんなお母さんだぞ」
「あのこと以外はね」
「あのこと…それは俺も同じだよ」
そのまま、無言の2人である。心の痞え。もうすぐ、その使えと向き合う日がやってくる。
美咲は夜の8時にリビング降りてきて、夕食を盆に乗せ、再び自分の部屋に上がった。そのまま、言葉を交わすことなく、いつもの休日が終わる。則夫にはとても長く感じる休日だった。
月曜日、出勤途中でスマホを確認すると、高橋へ送ったメッセージは既読されておらず、おかしいと思った則夫は、電話をかけるもコール音にならず、留守番電話のガイダンスに切り替わり、何度かけても繋がらない。徐々に焦り始め、急いで出社確認したが、得意先に行ってる様子もなく、金曜日から誰とも連絡を高橋は取っていない。今日、連絡なければ、営業主任と則夫で、高橋の自宅を訪ねることになった。そんな中、受付に二人の刑事が来て、高橋が遺体で発見されたというのだ。
遺体の身元は、会社の名刺と運転免許証で確認が取れ、事件か事故の両面で捜査をしていて、事情聴取のため訪ねて来ていると、若くて細身の新人刑事っぽい男性が話し、その横で口をへの字に曲げて恰幅のいい、いかにもベテランたたき上げ風な男性が聞いている。
「何かに悩んでいるとか、誰かに恨まれるというような………」
テレビドラマで見るような、質問をいくつかされるも、高橋が死んだことが信じられない則夫の耳には届かず、
「……本当に高橋なんでしょうか?」
質問でかわすと、ベテラン風の刑事が、遺体を確認するかと言ってきたので、そのまま遺体安置所へ行くことにした。
高橋の両親には連絡はついていて、すでに向かっていると、移動中の警察車両の中で聞いた則夫は、高橋の死を受け入れなければならない気持ちと、高橋の存在が大きかったことに気付く。
遺体安置所へ近づくにつれ泣き声が聞こえてくる。おそらく母親だろう。
「ご両親が来られてるようですね」
新人刑事がベテラン刑事に声をかけ、安置所のドアを、ベテラン刑事がノックし開けた。中にいた制服を着ている警察官がベテラン刑事の耳元で「ご両親です。身元確認とれてます」と小声で話し、一礼して部屋を出た後、
「心中お察しします。私、担当している丸本と申しします。こちらは同じ担当の井上で、こちらは高橋守さんの会社の方です」
高橋の体にすがって泣いている母親は、泣き崩れたまま、横に立って涙を浮かべている父親が、母親の肩を揺すって、則夫の方を見るが、深くお辞儀をするのがやっとのようだった。則夫も同じで言葉が出せず軽く頭を下げるしかできない。頭に包帯が巻かれいるが、顔に傷がほとんど見当たらず、眠っているかのように横たわる高橋がいる。ここは間違いなく遺体安置所で高橋は本当に死んだのだ。
安置所を出て、談話室のような部屋へ案内されると、丸本刑事がお茶を手に入ってきた。
「どうぞ。くつろぐと言っても難しいでしょうけど、お茶飲んでゆっくりお話し聞かせてください」
さっきも感じたが、丸本は厳しい表情とは裏腹に優しいトーンの声で丁寧な印象を受ける。
「お気遣いありがとうございます。あの、高橋はどこで?」
丸本刑事の話しによると、高橋は住んでるマンションの最寄り駅とは別の駅に行き、その駅から歩いて15分ほど離れた、廃ビルの屋上から転落したらしい。5階建の廃ビル屋上には、ビールやおつまみ、おにぎりとお茶といった軽食など入ったコンビニの袋と食べた後のごみが入った袋、高橋がしていたであろうネクタイが置いあったが争った形跡は見当たらず、事故にしても170㎝ほどの柵があり、誤って落ちるのは無理がある。となると、自殺の可能性が高いという。
「……なので、何か悩んでいるとか困っているみたいな…聞いたことないですか?」
「相談といか、聞いてほしいことはありました。ですが、刑事さん。高橋は自殺ではありません」
「と言いますと?」
「あいつは、俺にいや私に、とっておきの場所に連れて行くと約束したんですよ。私のこと先輩と呼んで懐いていた奴が、私との約束破るとは思えない!自殺じゃありません」
則夫は涙を浮かべながら、強い口調で丸本に言い放って、金曜日のことも話した。他から知られると、変な先入観から『失恋のため自殺した』になりかねない。それよりも、あの日、無理やりにでも家に連れてくればよかったという後悔の気持ちの方が大きかった。
聴取を終え、警察署の入り口のソファーに高橋の両親が、則夫を待っていたようで、姿を見て立ち上がり会釈をしている。
「先ほどは取り乱してすみません。守がお世話になった上司さんに挨拶もせんと…」
少し落ち着きを取り戻した様子の母親は言葉を続けた。
「課長さんですよね。守が家に帰ってくるたびに課長さんの話してたんで、すぐに分かりました。背がスラっと高くて、細身のギョロ目…あっ」
「おい。余計なこと言うんじゃない。本当にすみません」
「いえいえ。この度は、本当にご愁傷様で。あの、課長ではなくて、課長代理なんです。あ、そんなことはどうでもいいんすが、その、高橋は、いえ高橋君はとても人懐っこくて…とても…」
話す途中で涙が溢れ言葉にならない則夫を見て、両親も再び涙を流し、そのまま言葉を交わすことなくお辞儀をして、その場を後にした。
後日、葬儀の知らせが会社に届き、則夫は和恵と共に参列することにし、当日、神妙な面持ちで葬祭場へ向かうと、丸本刑事を見かけ、その後の捜査の状況を尋ねた。事故かもしれないが、自殺の可能性が高いと言い、則夫は反論するが、
「お気持ちは分かりますが、この件は、捜査終了に…。ただ、私個人としては、納得し難い。遺書はないし、靴は履いたまま。仕事ができて、人間性も良い。人から恨まれるタイプというより、好かれるタイプ。アルコールは検出されたが、酒にはめっぽう強い方で、酔っぱらって誤って落ちたといのも無理がある。なぜなら、身長と同じくらい高さのある柵を越えなければならないから。とまあこんな感じでグルグルするので。ですが、これ以上は…すみませんです」
そう言い残し丸本刑事は去って行った。
やりきれない気持ちで焼香を済ませ、高橋の両親に会釈をし葬祭場を出ようとすると、高橋の父親に呼び止められ、少し話がしたいと言う。
「この度はご足労頂き、本当にありがとうございます。息子も、課長さん夫婦に来ていただいて、喜んでいると思います。その…似てないでしょ?私と家内、どっちにも」
「あの、私は課長代理…え?」
何を言い出すのか分からず、和恵と見合わせていると、祭壇に飾られている遺影に目を向け、父親が話し出した。
「守は、私たちの子供ではありません。私の親友の、いえ、命の恩人の息子なんです。本当の名前は、行岡守と言います。父親は、行岡透。母親は朝子さん…」
「そ、そんな大事なお話、いいんでしょうか?」
則夫は驚きすぎて、止めようとしたが、父親は高橋が実家に帰ってくるたびに、則夫のことを身内のような親しみやすい上司であることを話していて、いつか本当の両親のことも聞いてもらうつもりでいたらしい。
「行岡と私は幼馴染でしてね、ハンサムでスポーツマンで男気もあって、皆の憧れの的でしたよ。私の自慢でした。行岡と友達でいることが…。共通の趣味があるとかいうわけではなく、なんとなく話が合う。気の合う仲間というのでしょうか。好きなテレビ番組の話や女の子の話で盛り上がったりして。ある時、学校の帰り寄り道して、入っては危ないから行くなと言われてた森に、二人で探検に行って、大きな穴に私が落ちて、足を大怪我しましてね」
祭場の一番後ろの椅子に座り、人懐っこい笑顔の遺影を慈しむように見つめ語りだす。
その森は、戦争の頃の不発弾が出てきて撤去されてはいるが、まだ埋まっているかもしれないと、立ち入り禁止になっている場所で、当時小学五年生だった二人にとっては冒険するには格好の場所だったらしい。落ちた穴が不発弾が出た穴だったのかは分からないが、当時は親や学校の先生に叱られることを、最も恐れていた時代だったこともあり、何とか穴から這い上がろうとしたが、痛さで動くことができず
『透!先に帰れ!先生や父ちゃんにしかられるぞ』
『何言ってんだ!こんなところにお前置いていけるか!ちょっと待ってろ』
高さ3,4mはありそうな深さの穴の中で、痛さと足から流れ出てくる血の恐怖に駆られていると、工事現場でよく目にするロープが垂れてきて、行岡が下りてくる。
『これで傷口縛って俺に掴まれ、一緒に上がるぞ!』
『何言ってんだよ。お前と違って俺は太ってんだぞ。何キロあると思ってるんだよ。無理だよ』
痛みと恐怖に耐えきれず、大声で泣き出すと、思いっきり頭を叩かれたと言う。
「叩かれた頭の痛みはいまでも覚えてますよ『しっかりしろ。俺だって泣きたいの我慢してんだよ。でもお前置いていくことの方がもっと我慢できないんだ』そう叫んで、背は小さくても40キロ以上ある私の体を背中に担いで、手を血まみれにして登ってくれたんです。登り切って、穴のそばで座り込んでたところに、見回りに来たお巡りさんに見つかってね、あの森は、不発弾だけでなく野犬も多いから立ち入り禁止になってたそうで、親からも先生からもこっぴどく叱られて。全身擦り傷、左足首の骨折、右足の膝を13針縫う怪我で、行岡が助けてくれなければ、手当てが遅れるところだったと、病院の先生から聞いて、行岡は命の恩人なわけです。あいつの掌には、ロープで深く擦り切れた跡が、ずっと残って『名誉の負傷』と言ってくれてました。そんな行岡と同じ死に方するなんて…」
則夫はぎょっとして、何も言えなかった。父親はさらに話しを続ける。
「…私ね、そのことがあって以来、太っている体をなんとかしようと思って。怪我が治ってから、行岡と同じサッカークラブに入ったんですよ。でも、練習についていけなくて、すぐ辞めたんです。それでも体型をなんとかしようとしてたら、行岡が縄跳びやジョギングに付き合ってくれました。ほんとに凄い男なんですよ行岡透は」
ときどき、涙を拭きながら話す父親の姿を見て、和恵も涙を流し鞄からハンカチを取り出している。
本当の父親『行岡』は、やがて素敵な女性と結婚し『守』が生まれ、それより先に結婚していた育ての父親には、子供ができなかった。20歳の頃、流行り病で高熱に侵され、子供ができない体になってしまったそうだ。それでも結婚してくれる女性と出会い、行岡が守を連れて遊びに来てくれることに幸せを感じ、穏やかに暮らしていた。
ところがある日、行岡が何もかも失ってしまったことで絶望を感じ、守を高橋夫婦に預け連絡が取れなくなったと言う。
「あの頃、行岡は親から受け継いだ町工場を経営してました。ところが、その土地を狙った悪質な業者に全てとられて……。私は普通のサラリーマンですが、知人に弁護士がいたので紹介すると言ったんですけど、なんとかなりそうだと、そのなんとかしてくれる人に会いに行くから、守を数日預かってくれと言うので、私も家内も守をとても可愛がってましたから、喜んで引き受けました。ですが、連絡が取れなくなって1週間、今回みたいに警察から連絡がきて、隣の県の山奥で車の排気ガスを車中に引き込んで、行岡は奥さん、朝子さんと亡くなっていたんです…」
車の中から遺書が2通見つかり、1つは発見されたときのための謝罪、ともう1つは高橋夫婦に宛てたものであった。内容は、迷惑かけたことのお詫びと、守のことを頼むと、親戚数人の連絡先などがしたためられ、最後の一文に『高橋との出会いは宝物だ。ありがとう』と書かれていたそうだ。
行岡夫婦の両親は、すでに亡くなっていて、遺書に書かれていた親戚に連絡を取ったが、守の引き取りてがなく、妻の意向もあり守を引き取るに至った。
当時、守は8歳、引き取ったばかりの頃は、夜中に両親に会いたがって泣いたり、ホームシックにかかり学校にも行けず、口数少ない子供だったと聞き、則夫が知る高橋からは想像がつかない。
「あの、お父さん、守君の右手にジッポライターで火傷した傷、あれは…」
「あ、守から聞いたんですね。あれ、行岡の趣味がジッポライター集めで、いつもは守が触らないように気を付けていたんですが、うっかり食卓の上に置きっぱなしにしてて、手当て受けてるときに、朝子さんからものすごく怒られたって。朝子さんは、いつもニコニコして怒る姿なんて、とても想像できないほど穏やかで、綺麗な方ですが『何があっても怒らない朝子が、あの時は頭から湯気と角だして、あれほど言ったのに、なんでライター出しっぱなしにしてたのって怒った、怖かった』って、行岡と呑むとよくその話してましたよ」
「あの、もう1つ聞いてもいいですか?」
「ああ、どうぞ。なんでも聞いてください」
「守君はご両親の死については、知ってましたか?」
「ええ。知ってますよ。中学生の頃、学校さぼって町をウロウロしてることころを、お巡りさんに保護されたことがきっかけで。今で言うところの半ぐれという集団に、目を付けらそうだと。その時のお巡りさんに聞いて、もう大声で怒鳴ったんです『ばかやろう!』って。ガツーンとゲンコツもくれてやりました。その時、行岡のことを話したんです『お前の本当の父親は、今、お前に良くしてくれてるように見せてる奴らに酷い目にあったんだぞ』って。それと、私たち夫婦が親代わりではなく、親なんだということも」
「そうですか。だったら、高橋は、守君は自殺ではありません。絶対に」
「え?」
「高橋とは、よく飲みに行ったり、うちにも遊びに来たり、仕事上だけではなく、プライベートでも付き合いがありました。警察が何を言おうが、自殺じゃありません。断言できます。あいつは、愛する人を悲しませることは絶対しない。いつも、相手の気持ちを優先してた。お父さんお母さん、亡くられたご両親を悲しませたりしない。だから違います」
「そう、そうですよね。課長さん。ありがとうございます。ありがとうございます。その言葉で心が救われます。本当にありがとうございます」
そういうと、父親は声を出して泣いた。和恵も泣いていた。
《代理だって言ってるのに、親子そっくりだよ》
則夫も心の中でそう思いながら、涙を浮かべている。
ひとしきり泣くと、落ち着きを取り戻し、長話で足止めしてすまなかったと、則夫もまた、落ち着いた頃、会いに行くと告げ、その場を離れた。
全体的に葬祭場を見回すと、様々な年齢層の人たちが弔問に来ている。中には、会社に入っている清掃会社のおばさん達までもが、「あの子はいつも笑顔で『おばちゃん掃除ありがとう』って、ときどき一緒に缶コーヒー飲んでくれたり。本当にいい子だった」と泣いているのを見ると、色々な人に愛され慕われていたことが分かる。
則夫は《お前は本当に罪な奴だな。こんなに大勢の人を泣かせやがって》と心の中でつぶやき、和恵と葬儀場を出た。腕時計を見ると、15時を少し過ぎている。会社には戻らず、帰ることにしたが、和恵には先に家に帰るよう伝え、ある場所へ向かった。それは、丸本刑事に聞いた、高橋の遺体発見場所。
葬儀場から、電車を乗り継ぎ15分、駅から歩いて15分弱の所にあった。途中のスーパーで、小さな花と缶ビール2本買って行ってみると、80坪ほどの広さの中だいぶ前から、何も入っていなかったであろう古びた5階建てのテナントビルが鬱蒼と建たずみ、表は観音開きのガラス戸になっていて、裏へ回ると発見された場所の片隅に、細身で黒髪が腰まである喪服姿の女性が手を合わせている。則夫の気配に気づいたのか、ハッとして振り返り立ち上がった女性は、律子だった。
「…課長さん」
《もういいや課長で》
ずっと泣いていたのだろう。大きな黒い瞳、色白で小顔の頬や鼻までも赤くなっている。
「律子さん…。ずっとここに?葬式には?」
「すみません。ご両親に合わす顔がないというか…」
「まさか、自分のせいだと思ってないよね」
「ど、どうしてですか?」
「……先週の金曜日、高橋と飲んでて聞いたんだけど、でも、あいつは自殺じゃないから。担当の刑事さんにも、あいつの両親にも、俺は断言したよ。自殺じゃないって」
「……でも、だったらなぜ?」
「高橋は、律子さんのこと真剣に愛してた。あいつは自分のことより、人の気持ちを優先するやつで、愛する人を悲しませる男じゃないんだ。なぜ、死んだのか分からないから、ここへ来てみたんだよ」
遺体発見現場には、何束もの花や飲み物が手向けられている。則夫は、買ってきた花を同じ場所に揃えて置き手を合わせ、数歩下がって座り込み、缶ビールを飲み始め、
「高橋、なんでここで死んだ?教えてくれよ。お前、たった25年?26年?しか生きてないんだぞ!何があったんだよ。今日、お前の葬式行ったけど、掃除のおばちゃんまで来て泣いてたぞ!そんで、お父さんから本当の両親のこと聞いたぞ。親不孝者!ばかやろう」
空に向かって叫ぶように声を上げ、その様子を見て、律子が涙ながら声をかけた。
「ここ、高橋君の本当のご両親の町工場があった所なんです」
「え?」
「聞いたんですね。育ててくれたご両親から」
「はい。だいたいですけど」
「高橋君、一生懸命働いて、この場所を買うんだって言ってました。それで、レンゲ草を植えるんだって。お母さんがレンゲ畑が好きだったから」
ここに、話で聞いた町工場があった。則夫は律子に聞いてみた。
「律子さん、高橋とはよくここに?」
「ちゃんと来たことはありませんでしたけど、車でドライブに行くと、必ずここを通って帰ってたので、刑事さんに話聞いてすぐわかったんです。それで、私とのことがきっかけで、ご両親のところへ逝ってしまったのかと」
「そうか。町工場があった場所か。律子ちゃん、あ、ちゃん呼びしちゃいました。すみません」
「いえ、いいんです。課長さんのご自宅に伺ったときも、ちゃん呼びしてくれて、奥様からも『りっちゃん』て呼ばれて、なんだか家族みたいで嬉しかったです」
「そうか、じゃ、律子ちゃん。そんなに泣いてる君は本当に高橋と離れたいと思ったの?話したくないなら無理に聞かないけど」
律子は、涙をにじませながら、首を横に振り、ポツリポツリと話し出した。
「本当のこと言うと、高橋君を苦しめるかもしれないと思って、今まで、言えずにいたんですけど、でも、いつかは話そうとずっと………」
律子は中学一年生のときに、小児癌になり、治療の影響で卵巣にダメージを受け、妊娠できない可能性が高いことや、留年したため、本当の年齢は高橋より1つ年上であることを、涙ながらに語りだす。中学校も留年や髪の毛が抜けたことで、いじめられるのではないかと、心配した両親が、完治後、隣町に引っ越し転校させ、周りには病気だったことを話さず、高校で高橋と出会い告白された。
子供が好きな高橋が、最近になって結婚を意識し始めたことで、自分に子供ができないとわかると、性格が良い高橋のことだから、攻めはしないけれど、彼の夢が忌野清志郎が歌っている『パパの歌』に出てくるような親父になって、子供たちをレンゲ畑で遊ばせたいと知った律子は、将来を恐れた。
「…もっと、早いうちに別れた方が、いえ、付き合っちゃいけなかったんです」
「いや、違う!高橋は律子ちゃんの話をしているとき、とても幸せな顔をしていた。それに、君の体の話を、知ったとしても、高橋と君なら、越えられたと思うよ。こんなこと話すと君を苦しめてしまうかもしれないけれど…実は、俺のカミさん、娘が5歳のとき二人目を妊娠したけど、流産して子供が産めない体になったんだよ。このこと、高橋に話したことがあってさそのとき、あいつは『冬のボーナスでたら、両親にプレゼント買って、残りは養護施設に寄付して、たくさんの子供たちのお父さんになる。誰だって、形を変えれば親になれると思うんです』と言ったんだ。俺、目から鱗が落ちた気がしたよ。心の痞えが取れたわけじゃないけど、前向きに考えようと思ったんだ。だから、付き合っちゃいけなかったって思わないでくれないか。高橋のためにも。あいつの愛情をずっと…」
律子は、後悔と切なさが入り混じったような声で泣いた。枯れて声も出せなくなったとき、
「そのビール、貰っていいですか?高橋君の代わりに」
と、開けてないビールを指さし、則夫は黙って渡すと、則夫の横に胡坐でペタリと座り、ゴクゴクと喉を鳴らしながら飲むと、少しだけ落ち着いたのか、
「高橋君、ミステリーオタクでしたけど、その話する高橋君が一番好きでした。少年の心を持ったまま大人になって、全身のオーラをキラキラさせながら話しするんです。別世界のことや、宇宙人のこととか。みんな痛い奴って言ってたけど、私は大大大好きで、みんなからマニアックと呼ばれるようになったけど、でも、それが妙に心地よく……」
律子は、泣き疲れと勢いよくビールを飲んだのもあってか、胡坐のまま壁に寄りかかりウトウトと眠り始めた。則夫は、上着を脱いで、律子に掛けると、空を見上げた。美しい夕焼け空になっている。腕時計を見ると、もうすぐ17時半で辺りがだんだん暗くなるころだった。周りを見渡すと、都会に近い場所ではあるが、どこからともなく草木の香りがしてくる。体にあたる風がうっすら暖かく、ときどき桜の花びらがヒラヒラと紛れ飛んできていた。《もしかして、高橋の言っていた秘密基地ってここなのか?》ふと思いついて、廃ビルの中に入ろうとしたが、入り口のドアはどこも規制線が貼られ、施錠してあり入れないようになっていた。廃ビルの周りを1周し、屋上を見上げ、
「高橋、ここなのか?お前の言っていた秘密基地」
「課長さん。なんか私、ウトウトちゃってすみません」
「いや、いいんだよ。ずっと眠れてなかったんじゃないの?」
「眠れてるのかどうかも、わかりません。あ、上着、ありがとうございます。私はそろそろ帰ります」
手には、飲み干した缶ビールの空き缶や、紙くずが入ったビニール袋があった。則夫が飲んで空にした缶ビールも見えた。膝下20㎝くらいのワンピースの喪服に踵が2~3㎝ある黒のパンプス。キュっと引き締まった足首。スラリと手足が長く見え、高橋が身長170㎝弱くらいだから、同じくらい身長だろうか。凛と歩く後ろ姿が美しく、手にはゴミの入った袋、彼女の性格の美しさが表われているようだった。
「俺は、あいつが死んだことに納得していないんだ」
自宅がある最寄り駅に向かう電車の中で、スマホを取り出しメールを確認すると、和恵からメールが届いていて、
『家に入る前に、お清めの塩忘れずに』
と書いてあり、
『はい』
電車内は人もまばらで余裕で座れるほどだった。ネクタイを緩め、楽な姿勢で座って目を閉じていると、ときどき、電車同士が離合するときに窓ガラスがドンっと音が響く。そのたびに目を開けては駅を確認し、窓の外を見ると、日はすでに沈んで辺りは暗くなっていた。
再び、目を閉じていると、どのくらい経っただろうか。突然、ガタンと大きな音と揺れを感じ、驚いてガバッと立ち上がる。周りを見回すと、電車は最寄り駅に着いていた。慌てて、電車から降りて、忘れ物がないか鞄や胸ポケットにスマホがあるか、触って確かめ、フーッと息を吐いて改札でて、いつものように、バスの停留所へと足を向けると、後ろから声がする。
「あなた、こっちよ」
振り返ると、車のヘッドライトに照らされ逆光で、見えないが、和恵が迎えに来ているように見えた。則夫は、速足で駆け寄り、車の助手席に乗った。
「ありがとう。迎えに来てくれると思ってなかった」
「あら、いつも迎えに来てるでしょ。何言ってんの?」
和恵の声ではないことに、則夫は気づいた。
《しまった。間違えて乗り込んだ!》
心の叫びと同時に、運転席に乗ってきた女性に謝ると、
「あなた、大丈夫?誰と間違えたの?熱でもあるの?」
「い、いえ、あの…誰かと間違えて、す、すみません」
体中の毛穴から、冷や汗が噴き出しているのを感じながら、車を降りようとすると、
「え?ちょっとあなた!則夫さん!本当にどうしちゃったの?」
女性は、運転席から則夫の腕を掴み、降りるのを防いでくる。「則夫さん」と呼ばれたことで、女性は則夫を認識していることが分かった。混乱、パニック、頭が真っ白になるとは、映画やドラマの中のセリフと思っていたが、本当にあるんだと、則夫は今の状況に困惑しながら運転席の女性に、視線を移すと、車内ランプに照らされた女性の顔に見覚えがあった。それは、葉山洋子。
「は、葉山さん?」
「則夫さん、何の冗談なの?もういい加減にして!帰るわよ」
「あ、そうか!俺、電車の中で寝ちゃって、今、夢見てるんだ」
「大丈夫?仕事のしすぎで疲れてる?明日、仕事の前に病院いったら?」
則夫は心の中で、これは夢だと言い聞かせ、どこの家に帰るんだろうと思っていた。
10分もかからず、家に着いたようだが、それは則夫が帰るはずだった家とは少し様子が違い、広い門扉にの左横に、車2台分のガレージと自転車が3台置いてある。則夫が乗った車は、ワゴンタイプの軽自動車で、もう1台は、黒い外車のアウディが停めてあった。則夫が若い頃に憧れていた車でもある。
「凄いな、アウディか…」
「あなた。早くうちへ入って休んでくださいね」
洋子の後をついていくと、広めの玄関、目の前に階段、ここまでは自分の家と酷似しているが、広さが違った。入って左がリビングと台所だが、二回りほど広く、天井も高い。使いやすそうなカウンターキッチンの前には、ダイニングテーブルが置いてあり、5,6人は座れそうなゆったりとしたソファセットがある。黒と白で統一されまるでモデルルームのような部屋に、則夫は夢だと言い聞かせても、緊張が高まり、呆然と立ち尽くすしかない。その様子が異様に思えた洋子は
「いい加減して!なんの冗談なの?」
大声を上げ、睨みつけてくる洋子を見ていると、2階から娘と思しき女性が、なんの騒ぎなのかと言いながら降りてきた。
「ママ、どうしたの?大きな声だして。お父さん、なにしたの?」
「杏奈聞いてよ。お父さん、駅に迎えに行ったときから、おかしなことばかり言うのよ」
「杏奈?ますます夢だな。うちの娘は美咲だから」
「美咲?誰よそれ。お父さんの浮気相手?」
「いや、浮」
その時、ソファに躓《つまづ》き、転んで頭を壁にぶつけ、痛みがあっても夢から覚めないことに気づくと、不安の波が一気に押しよせ、鼓動が早くなり、気を失った。
気が付くと、見知らぬ空気と見知らぬ部屋のベットに寝ている。
《ここはどこだ…?》
しばらく目を開けたまま思考がグルグルしていることを感じつつ、
「そうだ、バスに乗ろうとして…葉山さんに似た女性と車に乗って、あなたって呼ばれて、お父さんって呼ばれて、いやいや、そんなはずはない!」
勢いよく飛び起きると、大きめのワークデスクと革張りの椅子。出窓があって横に180㎝くらいの本棚。出入り口のドア付近にはコート掛けまである。
「なんだよ。ここ。どこなんだよ。頭がおかしくなったのか俺」
説明のつかない状況に頭を抱え込んでいると、いきなりドアが開き、昨晩の女性が入ってきた。
「目が覚めたのね。もう、大変だったよ。あなた重いんだもん。雅也を呼んでここに寝かせたのよ」
「え、えっと、雅也?!」
「もう、学生時代ごっこはやめてね。私は、これからちょっとでかけるけど、朝食はテーブルに置いてるし、お弁当は鞄の底に入れましたから。それと遅刻しても会社へは行ってくださいね。昇進がかかってるんだから」
ハキハキと話し、言いたいことだけを言って出て行く姿を見たとき、葉山洋子であることを確信した。どうしてこんなことになったのか。ふと、高橋の顔が浮かび『パラレルワールド』という言葉が脳裏に出て、ここがそうなのかと、もっとちゃんと聞いとけばよかったなどと思いながら、則夫は部屋を出て、キョロキョロと様子を伺いながら、洗面所を探していると、水の流れる音が後ろから聞こえ、中から細身で目がクリッとした170㎝くらい身長のある男の子が出てきた。
「あれ、お父さん、今起きたの?会社遅刻するんじゃないの?」
「あ、いや、その…」
「夕べお母さんが珍しく僕を呼ぶから降りたら、お父さん倒れてるし、お母さんは様子がおかしいだの変だの騒いでるし。え?息子の顔忘れたの?雅也だよ。雅に也と書いて、ま・さ・や」
「雅也?」
「しっかりしなよ」
雅也と名乗る男の子に、則夫は驚愕した。和恵との間にもう1人生まれてくるはずだったのは、男の子で悪阻も落ち着き、妊娠5か月が過ぎようとした頃、流れてしまった。調和と優しさ美しさを持った子に育てようと、和恵と考えた名前と同じ名前の男の子が、目の前に現れた。その瞬間、フッと閃いて、洗面所で用を済ませ書斎に戻り、昨夜着ていたのは喪服のはずだったが、なぜがグレーのスーツになっていると思いながら着替えて、椅子に置いてある鞄を開け、名刺がないか探すと、商社として一流企業と同じ名前の会社名が書かれた自分の名刺を見つけた。他に、充電器に差してあるスマホを胸ポケットにしまい家を出ると、自分が住んでた町と同じ地形のように見えるが、空の色も山の緑もなんとなく違って見える。いつものバス停は重し代わりのセメントに楕円形の看板がついていて時刻表になっているが、ここでは電光掲示板になっている。
バスを待つ間、さっき閃いたことを冷静に考えてみようと思い、ここは高橋が言っていたパラレルワールドの可能性があり、何かのきっかけで紛れ込んでしまった自分がいる。大学時代に振られた葉山洋子と結婚していて、娘と息子がいる。息子は、生まれるはずだった息子と同じ名前だったから、もしかしたらこの世界では『高橋』が生きていて、帰れる方法とかなにか説明してくれるかもしれない。則夫は希望的観測を含んだまとめではあるが、うまくいけばもとの世界に帰れると信じ、名刺にある会社へと向かった。
電車の車窓を眺めていると、自分が住んでいる所と本当にそっくりだが、文字の造りが亻のはずの所に『┃』となっていて『┃木』とあり、何と読むのかわからない。他には建物の高さが違ったり、橋の位置がズレてたり、印象は全体的に景色の色がはっきりしない。則夫の目には色が薄く感じられるのだ。幸いなことに、地名駅名はさほど変わらず、何となくここだろうと予測がついたため、会社がある最寄り駅に着くことができた。駅を出て、名刺を頼りに会社に向かおうとしたが、住所が読めず、何となくこの辺りではないかと、ウロウロしていると後ろから声をかけられた。
「吉田君」
振り向くと、60代前半くらいの鼻髭が印象的で、風格がある白髪まじりの男がニコニコしながら近づいてくる。
「聞いたよ。部長候補なんだってね。私も鼻が高いよ。ん?顔色悪いな。仕事無理しすぎなんじゃないのかね?」
「い、いえ、大丈夫です。遅刻してすみません。《部長候補?俺が?》」
「いやいや構わんよ。私も遅刻だよ。健康のために途中で車降りて歩いたら、思ってたより時間かかったよ。さぁ会社目の前だ。一緒に行こう」
「え?あ、はい」
最寄り駅の前は大きなロータリーになっていて、バスやタクシー、一般乗用車が横行している。左右に別れるように広い歩道があり、左側200mほど歩いたところに17階建てガラス張りのビルが見え、白髪の男はそのビルに向かっているようだ。一緒に正面玄関に入ると、周りから専務と呼ばれていることが分かった。早く高橋を探したかった則夫は、専務に挨拶をしてから離れると、受付へ行き、高橋守が働いてないか確認してもらったが、どこにも所属していなかった。
「そりゃそうだ。あっちでは小さい会社だったもんな……。俺はなんて馬鹿なんだ」
一縷の望みが断たれ、途方に暮れる。受付に名刺を見せて、今日は具合が悪いから帰ると伝言を頼み、会社を出た。
今、脳裏に浮かぶのは、大勢の人がいる中に、たった一人という絶望的な孤独感。家族の顔。帰りたい、元の世界に帰りたい。ただそれだけだった。どのくらい歩いただろうか、公園が視界に入り、そのまま歩いて中に行くと水飲み場があって、朝から何も口にしてないことを思い出し、水を飲み、顔を洗い、ベンチに腰掛け空を仰ぐ。
「やっぱ、色が薄いなぁ…。高橋だったら、この状況、説明できたかもなぁ。俺、家族に会えないままここで死ぬのかな」
「お兄さん、ライターある?」
「はい?」
「ライター。たばこの」
「あ、はいどうぞ」
日焼けた肌、薄汚れた白の半そでシャツとジーンズ生地の短パンから見える腕と脚は、小柄で細身な体型の割には筋肉質で、わし鼻と一重瞼が特徴的な顔立ち、おそらく三十代であろう若い男が、則夫の横に座ってタバコふかし、
「お兄さん、迷子?」
「え?」
「働き盛りの男が、こんな昼間に、こんな公園で水飲んで座ってんのは、迷子か宿無し職無しなんだよ」
「……迷子は当たって、いや、全部当たってます」
「なんでぇぃ。当たってたのかい。ははは」
「笑い事じゃないです。もうどうすればいいのか」
則夫は、溜まってたものを吐き出すように、これまでのことを会ったばかりの男に話しをした。男は笑うわけでもなく、真面目に聞いていた。そして、
「で、あんたは元の世界に帰る方法を、その高橋って奴に聞こうと思ったら、こっちにはいなかったってわけだ」
「はい。作り話なんかではなく、頭がおかしくなったわけでもないです」
「うんうん。そうか。あんたも迷子か。初めて会ったなぁ」
「え?あんたもって」
男は高橋を思わせるような、人懐っこい笑顔で、則夫の肩をポンポンと叩き、
「おいらも迷子なんで。あんたとはちょっとばかし時代が違うがね」
男の名は、「鉄太郎」と言い、江戸から来たと言う。父親から受け継いだ居酒屋を板前として、5歳年下の妹とやりながら生活していた。平安な日々を過ごす中、妹が嫁ぎ三人の子供に恵まれ、亡くなった両親の代わりに、お礼を兼ねての伊勢参りに行く途中、土手で足を滑らせ転げ落ち、気が付いたらこの世界に来ていたらしい。最初は、異国の地に連れ去られたかと思ったが、髷をしてないだけで、同じ国の人間であることや、未来の日本の姿であること、外国との交流があることなどを助けてくれた女性に教わり、徐々に理解するようになったそうだ。そのうち、その女性と恋に落ち一緒に暮らしていたが、
「所帯持つとなるとね、お役所さんに出すにも、おいらにゃ戸籍ってやつがないでしょ?病気になっても、バカ高くていけねぇし、子ができたら戸籍に父親は書けねぇ。この世界には、おいらぁいるのにいないんですよ。女は28歳、まだまだ女ざかりでさぁ。その人の人生崩しちゃならね。そんで逃げ出したんでさ。女以外に初めて話したなぁ…こんな奇妙奇天烈な話をよぉ。あ、まてよ。二人目だなぁ」
「待ってるんじゃないですかね。その彼女さん」
「逃げ出してかれこれ半年経ちやすから、おいらのことなんて忘れて、いい旦那と出会って、幸せになってやすよ。ほんと優しくて良い女なんだよ。幸せになんなくちゃいけねえ女なんですよ」
「会ったばかりの人を助けるって、本当に優しい人ですね」
「だろ?幸せになってもらわないと、離れた意味がなくなるんで、困りまさぁ」
「今でも好きなんですね」
「ああ、大好きだ」
「鉄太郎さんは、こっちに来てどれくらい経ちます?」
「んー。今、30の年だから…もうすぐ三年になりやすねぇ」
「三年?」
「うん。おっといけねぇ。お天道様があんなに高いや。この先にある弁当屋の亭主に魚の捌き方を教える約束してたんだ」
鉄太郎は、公園周辺を寝床にしているから、いつでも声かけるよう言いながら足早に去って行った。思わぬ出会いに、不思議さと淡い期待に不安が混じり、これからどうすればいいのか。考えても答えがでない。三年という言葉が胸に刺さり、何もかも投げ捨てたくなって、そのままベンチに仰向けになり目を閉じた。胃に違和感を感じ、そういえば朝から何も食べてなくて水を飲んだだけだと思い出し、鞄から弁当を出して食べ始めたが、味が濃ゆくて箸が進まなかった。和恵の弁当は健康を考えて、塩分少し控えめで体に優しい味付けだったことが分かる。おかずは残して、ご飯と漬物を食べていると、鉄太郎が戻ってきた。
「あれ、あんたまだいたのかい?」
「あ、ええ。会社は休むことにした…というか、行っても何したらいいのか分からないし」
「そうかい。おや、弁当食べてなさる。あんまり食が進んでないようだねぇ。ちょっと一口いいかい?」
そう言って、おかずの中の鳥の照り焼きをつまんで口に放り込むと、顔を少ししかめながらリュックからペットボトルのお茶を出し、ゴクゴク飲んで息を吐いた。
「こりゃ塩気がきついなぁ。おいら、板前だから食にはこだわりあってね。おむらいす?とかはんばーぐ?でしたかね、異国のもんはわからねぇけど、煮物や焼き物は自信あるんでさぁ。あ、兄さん、名前なんとおっしゃるんで?」
「あ、紹介おくれましてすみません。私は、吉田則夫といいます」
「則夫さん、旨いもんが食いたきゃ、ここの隣の駅から東へ2町ほど歩くと、飲み屋がたくさんあって、そんなかに『ちえり』って小料理屋がありやす。昔は異国の酒を飲む店屋だったらしいが、今は旨い料理と酒が味わえますぜ。ちなみに、昼間は定食も出してるそうだよ」
「もしかして、彼女さんの?」
「違う違う、噂だよ。噂。こんなフラフラしてるとよ。いろいろ噂入ってくるのよ。なんていうのかな、迷子仲間のよしみってやつ。…あんたは帰れるといいな元の世界に」
「はい。帰れる方法を探します。鉄太郎さんも、帰りたいでしょ?」
「そうだねぇ。探してたけど、おっといけね。湯屋のばあさんに風呂の掃除頼まれてるんだった。いやね、その先曲がったところに、風呂屋あって、ばあさん腰痛めて掃除できねぇって言うから、掃除ついでに風呂入らせてもらんでぇ。さっきの弁当屋からは弁当もらったし、なかなか良い暮らしでやしょ」
屈託のない笑顔で、また足早に去って行く鉄太郎と高橋の笑顔が重なった。鉄太郎の方がもっと混乱しただろう。鎖国が明け文明開化し、成長した日本をいきなり目の当たりにしたのだから。それをあの笑顔ができるまで支えてくれた女性がいたのに、お互いに好きなはずなのに、相手だけの幸せを考えて身を引くなんて、自分にできただろうか?高橋もそんな男だった。相手の気持ちが優先で自分のことは二の次で、本当にいい男だった。
「さて、洋子さんのところへ戻ってみよう」
ベンチから立ち上がり、会社の最寄り駅へ向かった。駅についてる電光掲示板の時刻が『15:00』になっている。
「時間の表示は同じか。あとは文字だな」
明日は、ネットで色々調べてみることにしようと考えた。すると、胸ポケットのスマホが鳴り、画面を開くと、洋子からのメッセージで内容は分からない。人の名前は元の世界と同じ文字の表記なのに、文章になると見たことがない表記で、ひらがなが見当たらない。カタカナのように見える形と漢字のような文字との組み合わせになっている。スマホの操作は同じだが《通話》マークがあったので、通話にすると、
「あなた!なぜかけてくるのよ!いつもメッセージにしてって言ってるでしょ?」
「い、いやあの、すみません。あの仕事、今日休んだので」
「え?休んだの?昇進大丈夫でしょうね!」
「ああ、大丈夫だと思う」
「じゃ、お迎えいらないわね。杏奈と待ち合わせて外へ食べに行きますね。あなたの夕食、冷蔵庫に入れておきますから」
「あ、ああはい。ありがとう」
則夫は思い出した。葉山洋子と付き合いだしたときは、天にも昇る気持ちだたったが、だんだん会話ができなくなった理由が、話したいことではなく、言いたいことだけを言うところに調和が見出せないことで、話しづらくなったのだ。振られたはずなのが、こっちの世界では、なぜ結婚したのか則夫は不思議でならない。
自宅に着いてすぐ書斎に入り、弁当箱を出して残したおかずをゴミ箱に捨て洗っていると、2階から降りてくる足音が聞こえ身構えていたら雅也の姿が見えた。
「あれ、お父さん、今日は早いね」
「あ、た、ただいま。雅也君、が、学校おわったの?」
「学校?何言ってんの?そんなとこ行ってないよ。頭の悪い奴多すぎて、ばかばかしくて行ってらんないから、去年から行ってない。っていまさらなこと聞かないでよ」
「お、おい。それはダメだよ。学校行かないのはいいけど、周りをそうやって見下してはダメだ。相手が小さい子供でも、人として見下すことは最低だ。君の年でそんなことばっかり言ってると、君のこと誰も理解しないし、信用もされない。友達もできないぞ」
「え?」
「と、ともかく、人は一人では生きていけない。この弁当箱一つにしても、勝手にできたんじゃなく、人の手が加わってるんだ」
「あんた、誰?今までのお父さんと違う」
「い、いやその、とにかく見下すのは、やめた方がいい」
則夫は、弁当箱をさっさと洗い流し、書斎に戻った。息を整えてからパソコンを開き、検索をしてみることにしたが、そもそも文字の形が違うから思うように結果が出るだろうかと考えながら、自分が使っているキーボードを頭に描き【パラレルワールド】と入力してみる。ズラリと出てきた結果に頭を抱え込んだ。
「モI?ネノ呈………あー読めない。ダメだ」
せめて言葉が読めるようにならないと、どうにもならないと考えて明日、もう一度あの公園へ鉄太郎に会いに行くことにした。
冷蔵庫の夕食はハンバーグで、デミグラスソースがたっぷりとかけてあり、副菜はブロッコリーと人参、デザートにプリンが用意されている。どれも手作りだが、味が濃くて食べられない。弁当を残した罪悪感もあって、食べるたびに、ご飯とお茶でどうにか流し込むように完食した。和恵の作る食事がたまらなく恋しくなって、涙が込み上げる。食器を洗い、シャワーを浴びて書斎に入ると、玄関から洋子と杏奈の声がして、いきなり書斎のドアが開き洋子が入ってくる。
「あなた、お弁当残したのね。でも夕食は全部召し上がったなら、体調大丈夫ね。明日、いつもの休日出勤ですよね。で、明後日の日曜は、納谷専務をお招きしてランチパーティ。よろしくお願いしますね」
洋子は、いつもそうしていたのか、言いたいことだけ言うと、バタンとドアを閉めて行った。
和恵は必ず、ドアをノックしてから部屋へ入るし、体を気遣ってくれる。こっちの則夫はなぜ洋子と結婚したんだろうと首をかしげながら、早々に寝ることにした。
翌朝、喉が渇いて早くに目が覚めた則夫は、冷蔵庫からペットボトルの水を飲んで、このままあの公園へ行こうと身支度を始めた。
「昨日のハンバーグ、味が濃かったから喉が渇いたんだよなぁ。駅の店でパンでも買って…あ、財布、お金はどうなってるんだろ。バスは定期があったからなぁ」
鞄から財布を取り出し中を確認すると、載ってる人物は違うけれど、《10000》と《1000》が数枚入っていて、単価も同じのようだ。則夫はホッとした。あの洋子に何と言ってお金を貰えばいいのか、わからないからだ。お札以外に小銭が少し。クレジットカードやキャッシュカードなど一切入っておらず、電車とバスの定期券と、現金のみが洋子から手渡されているのが想像ついた。
家を出ようとしたとき、洋子が2階から降りてくるのが見えたので挨拶をしたが返事はない。
「あなたやけに早いのね」
「は、う、うん。休んだから」
「お弁当持った?昨日の残りのハンバーグだけど、冷蔵庫に入ってたでしょ。いつもの時間なら鞄に入れてあげたんだけど、ちょっと待ってて」
断る勇気が持てず、あのしょっぱいハンバーグを食べるのかと思うと、げんなりしてしまうが、それを悟られないように、礼を言って家を出た。
途中で、パンと牛乳を購入し食べると普通の味で、洋子の作る料理が濃いと知った。そして、公園へ向かい鉄太郎を探し始めたが、この公園は思った以上に広く、外周だけで2kmはあるだろう。則夫は鉄太郎の名前を呼びながら歩き回ったが見つからなかった。2時間が経過し、出社時間が過ぎると、スマホが鳴ったので、出てみると、納谷と名乗る男性で、昨日あった白髪の専務と声をかけられていた人物からだった。
「吉田君?おはよう。今日、出勤になってるらしいけど、会社には顔出さず外回るの?」
「あ、はい専務おはようございます。今日は外回りでそのまま直帰すると…」
「いいんだ。いいんだ。それより明日、楽しみしてるよ、洋子さんの料理、美味しいって評判だし」
「《しょっぱいのが評判?》はい。ありがとうございます」
「じゃ、明日。よろしくね」
「はい。失礼します」
深々とお辞儀をしながら、スマホを切って、大きく深呼吸を肩の力を抜いてから、もう一度、鉄太郎を探すため、公園を歩いた。が、鉄太郎の姿はどこにもなく、昨日、座ったベンチに腰掛け一休みしていると、
「則夫さん!」
鉄太郎が、どこかともなく現れた。
「おいらのこと探してんだって?市場で働いてるやつから聞いたよ。おいらの名前呼びながら、公園ウロウロしてるギョロ目の人がいるって」
「鉄太郎さん、探したよ。はぁ…よかった会えて」
「なんだよ。しけた面して。で、どうしたんだい?」
「私に字を教えてください」
「字?。あんた寺小屋、あ、違うか。がっこう行ったことないのかい?」
「学校は出てますが、こっちの世界の文字と違うから、読めないんです」
「よし!わかった。まかせな。あんまり得意じゃねぇけどよ、この三年で困らねぇくらいになったからよ」
「あの、鉄太郎さん」
「鉄太郎さんって呼び名は、堅苦しくっていけねぇな。てっちゃんでいいよ」
「じゃ、てっちゃん!。三年も時間かけれません。簡単でいいんです。ニュアンスがわかれば」
「にゅあんす?」
「雰囲気とか感覚的な感じとでも言いましょうか。ともかく文字を知りたいので」
「わかった。じゃ、おいらよりあの人がいいな。則夫さん、ちょっと待っててくれるかい。呼んでくるからよ」
そう言って、風のように走り去り、10分ほど待っていると、小学1年生くらいの男の子を背負って戻ってきた。
「こちらが、吉田則夫くんで、こちらが川中圭太くんです。遊び方や読み書き教えてくれる、おいらの先生でさぁ」
「なんだよ、てっちゃん。かわいい子じゃなくて、オッサンじゃないか」
不満あり気に口を尖らせながら、鉄太郎の背中からひょいと飛び降り、則夫の周りを歩きながらジロジロと見上げている。
「あれ?かわいい子なんて言いやした?かわいい奴って言いやせんでした?」
「どっちでもいいよ。で?何してほしいの?」
「さすが先生!小さいながらも、懐がでけぇなぁ。こちらに字を教えて欲しいんですよ」
「ええ?おじさん字知らないの?大人なのに」
「大人だからって、みんながみんな読み書きできるとは限りやせんぜ。おいらの国では、読み書きできる方が珍しいんだからよ」
「てっちゃんの国、どんなとこだよ」
「おっと、いけねぇ。安藤さんとこに、煮しめの作り方を教えに行く約束があったんだ!。じゃ、あとのことはよろしく」
そう言い残しながら、鉄太郎はまた、風のように走り去って行った。則夫はその後ろ姿を見送ると、圭太の目線に合わせてしゃがみ、
「圭太君、よろしくお願いします」
「あのね、教えてあげるんだから先生だろ」
「あ、はい。すみません先生」
「じゃ、僕んち行こ」
「え?でもおうちの人いるんじゃ」
「僕、お昼ごはん食べる前だったんだ。うちのママはてっちゃんとも仲いいし、大丈夫。それに公園でどうやって教えるんだよ」
妙に説得力のある子供だと感心しながら圭太と横並びに歩き、家の人にどうやって説明しようか考えているうちに、圭太が立ち止まり2階建ての家を差しながら、
「着いたよ。どうぞ入って。ただいま~」
則夫は緊張し額の冷や汗をハンカチで抑え、玄関で立ちすくんでいる。
「圭太、おかえり。さっき、またてっちゃんが…。あ、あらお客様。ごめんなさい。私ったら」
「ママ、お客じゃないよ。てっちゃんの友達の則夫さん。字が分からないから、教えてほしいって」
「そ、そうなの?どうぞ、上がってください。あ、そうだ。圭太。てっちゃんがおにぎり持ってきて、食べさせてって。あの、たくさんあるから、則夫さんも一緒にどうぞ」
「いや、でも初対面で、それはちょっと…」
「いいんだよ。僕とてっちゃんの仲だし。上がってこっち来て」
圭太は則夫の腕をぐいぐい引っ張って、自分の部屋の招き入れ、子供用の勉強机に則夫を座らせ、そこへ母親が、おにぎりとお茶を持って入ってきた。
「圭太、パパの椅子を持ってこようか?その椅子は則夫さんには小さいでしょ?」
「うん。ありがとうママ」
「あ、あのすみませんお母さん」
則夫は、二人があまりにも自然に接してくるので、有難い気持ちはあるものの、逆に居心地の悪い感じもあり聞いてみることにした。すると、母親は笑いながら
「てっちゃんの知り合いに悪い人はいないし、人助けだもの」
と答え、半年前まで隣近所に誰が住んでいるかも分からず、犯罪も多く、無関心な人ばかりで暗い雰囲気だったが、鉄太郎が現れてからは、人には優しくしなくちゃいけないだの、ご近所さんとはケンカしながらも、仲良くしなくちゃいけないなどと言いながら、誰かのために走り回っている鉄太郎の姿に、心打たれる人が増え始め、自然と助け合うようになった。
鉄太郎と出会った公園は、以前、街灯が少なく、とても暗くて女性が襲われたり、違法な薬の取引が行われたりで、夜は歩けないほどだったが、鉄太郎が夜回りを始めたことがきっかけになり、街灯が増えた。今では、自主的に「火の用心」と言いながら夜回りを行っている人もいると話してくれた。圭太に至っては、大きな声で挨拶することや、人に何かしてもらったら礼を伝えること、親がしてくれることをあたり前だと思っちゃいけないと教えてくれて、優しい良い子になってきたと話す。
「全部、てっちゃんの影響なの。今『ある』ことをあたり前と思っちゃいけない。全部、ありがたいって。パパがいること、圭太がいること、ご飯が食べられること。全部ね、ありがたいって。で人助けするようになったの」
「そうですか、人助けですね。きっと助けられたから、今度は自分が…」
「私、嬉しいんですよ。圭太が人助けできるなんて。親バカですが圭太ね幼稚園の頃から、読み書き得意で。だから、どうぞゆっくりしていってください。椅子持ってきますね」
「文字が分からない私のこと、聞かないんですね」
「てっちゃんも、字が得意じゃなくて、それがきっかけで圭太と仲良くなったんです。事情なんて、どうでもいいじゃありませんか。ゆっくりしていってくださいね」
母親は照れくさそうに部屋を出て椅子を持って戻り、ニコニコしながら出ていった。お人好しで明るくて、のんびりとした雰囲気が若い頃の和恵を感じさせるような母親だと思った。
出されたおにぎりは、コンビ二のおにぎりより大きくて、塩の加減も良く、まともに食して.なかった則夫は頬張って食べ、圭太も負けじと頬張って食べている。満腹になりお茶を飲んだところで日本人だなと痛感し、また家族の元へ帰りたい思いが募り涙が出そうになるのを必死で堪えた。
「則夫さん?泣いてるの?」
「い、いや、泣いてないよ」
「…大丈夫だよ。字くらいすぐ読めるようにしてやっから。秘密兵器あるんだ」
勉強机の引き出しから、新聞の折り込みチラシくらいの大きさの紙を引っ張り出し、則夫に見せた。それは、『あいうえお表』で紙と鉛筆も用意し、
「この表見ながら、何回も練習するとすぐ読めるようになるよ」
「右からあいうえお?」
「ううん。1段目、左から右に沿ってあいうえお、2段目かきくけこ。左から縦にあかさたなって読むんだよ」
「そうか。ありがとう。圭太君、いや先生」
圭太は母親と同じ笑顔で笑った。
あいうえお表を見ながら、何度もノートに書き写し、圭太は横で静かに宿題をしている。1時間ほど経った頃、母親がお茶を持ってきたが、集中しているためか則夫は気づかない。圭太が『シー』と人差し指を口に当て、母親を外へ促し一緒に出た。
「どうしたの?圭太」
「則夫さんね、おにぎり食べてお茶飲んだらね、泣きそうな顔してたよ」
「そう。そっとしとこ。宿題は終わったの?」
「とっくに終わった」
「じゃ、こっちで一緒にテレビでも見よ」
ときには声に出しながら、あいうえおを必死に書いて、覚えやすい文字は、表を見なくても書けるようになってきたところで、胸ポケットのスマホが鳴り、洋子からのメッセージが届いた。表を見ながら読んでいると、表にはない言葉が所々にあり、圭太に聞こうと見回すと姿がなく、部屋を出て圭太の名前を呼んだ。
「圭太、いや先生!」
「どうしたの?リビングにいるよ」
声のする部屋に行って、読めない所を教えてほしいと頼むと、
「則夫さん、僕、8歳だよ。まだ現字は読めないよ」
「現字?」
「うん。10歳から習うんだ。9歳までに仮名字と名前の書き方覚えるんだよ。スマホ貸して。ママに読んでもらお」
リビングのキッチンで洗い物をしていた母親にスマホを手渡すと、『茹でたタコを買ってきて』と書いてあるらしい。この世界には平仮名はなく、カタカナのように見える仮名字と、漢字の代わりに現字があるようだ。則夫は文字一つで、この世界の仕組みに少しだけ近づけた気がして嬉しくなり、そして、圭太と母親に礼を言ってその家を出た。
買い物をし忘れたことに気づかないまま、書斎に戻りパソコンを立ち上げ、再度『パラレルワールド』を検索したが、思うような答えはみつからなかった。この家に来て3日。毎日、緊張することに疲れ、何も考えたくないと感じ、風呂に入って横になろうと思っていたら、洋子がズカズカとノックもせずに入ってきて、弁当を食べてないがどうしたのか、どこを外回りしてきたのか、なぜ買い物忘れてきたのか、問い詰めてきたので、ありのままを言おうとしたが、遮ぎられ、話したくない気持ちになり、洋子という名の嵐が過ぎるのを待った。
「夕飯は、食べなかったお弁当にしてください。今日作ったのは明日の晩に。明日のパーティーよろしくお願いしますね。納屋専務、運転手に送ってもらうようだけど、帰りはあなたが、専務のお宅まで送ってください。では私、杏奈を迎えに行ってきます」
「あ、ああ」
洋子とは会話にならない。則夫は一刻も早く、元の世界に戻る方法を見つけなければと、ノートを出して、あいうえお表を書き写し始めた。
翌朝、パーティの準備で早く起こされ、庭の草刈りやリビングの掃除を頼まれ、洋子の手足となって用事をこなしている。ここでの則夫は小間使いのような立場だったのだろうか。そして、和やかにパーティが始まったが、則夫の心は複雑で、仕事の話しを向けられても答えられず苦笑いするしかない。昇進のためのパーディではあるが、自分はこの世界の吉田則夫ではない。本当の則夫はどこに行ったのだろうか、いや自分も本当の則夫だと、納谷専務との会話はそっちのけで思っていた。
リビングのテーブルには、ローストビーフとサーモンのカルパッチョ、オードブルなど、数多くの料理で埋め尽くされ、シャンパンも出ている。,
「これ全部、奥さんの手作り?すごいねぇ。うちの奥さんは手抜き料理ばっかりだから、君が羨ましいよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「私も手抜きですよ。さ、召し上がってくださいな。あなたも食べて。専務、奥様と来られるかとばっかり。ご一緒じゃないんですね」
「今日は役員の奥様方とゴルフコンペなんだよ」
「まぁ素敵。ゴルフ、昔はよく行ってましたわ」
「そうかい。今でも行けるだろ」
「専務、じゃ次はゴルフご一緒させて下さい。足手まといにならないように、ゴルフ練習しとかなきゃ」
ランチパーティは洋子と納谷専務の会話で盛り上がり、終わりを迎え、車で送る予定にしていたが、専務が健康のために歩くと言い出した。
「せめて駅まで車で送らせてくださいな。さ、あなた車を」
「いや車はいいよ奥さん。バスがあるんだろう?吉田君、バス停まで送ってくれるかい?」
「はい。わかりました」
洋子は、則夫に言いたいことを言うときの表情とは違い、終始明るい笑顔で、薄気味悪くなるほど饒舌だった。しかも、料理の味付けは、ほどよく食べやすい。いつもの食事はこの世界の則夫の好みの味付けで分けて料理しているのか、専務をバス停まで送る間、洋子の行動を考えていた。
「で、君は誰だい?姿かたちは吉田君だけど、本当の吉田君じゃないことくらいわかるよ。これでも何千人もの社員を束ねてきたんだ。人を見る目はくさっちゃいないつもりだよ。…いや、もしかしたら、今の君が本当の吉田君なのかな」
納谷専務の発言に則夫は驚きすぎて、声も出せずにいた。立ち尽くしたまま沈黙の状態が続き、やがて意を決して今の状態を話し始める。
「私は、吉田則夫です。原因が分かりませんが、別の世界からこの世界に来てしまいました。パラレルワールドと呼ばれているようですが、詳しいことは分かりません。私が居た世界に愛する家族もいます。会社は今の大企業ではありません。家も車も豪華ではないです。文字もこの世界の文字は読めないです。早く帰りたくて、帰れる方法を見つけるために、文字の読み書きをこっそりやっています」
納谷専務は、考え込むように目を閉じている。
「変に思われても仕方がありません。でも、事実…」
「うん。わかった。君はとても自分に正直な吉田君だね。嘘がつけない。駅前で会ったときから感じていたよ。今までの吉田君じゃないなぁって。で、見つかりそうかね。帰る方法」
「わかりません」
「ふむ。君はこのままだったらどうするの?」
「会社には行けません。字も読めないし、何をしたらいいかわからない。そのうち、こちらの世界の吉田則夫が現れるかもしれないし」
「そうか。なら今後も出社は控えた方がいいね。それと、奥さんには気を付けた方がいいよ」
「はい。なるだけバレないように会話はさけてます」
「そういう意味じゃないよ。あの人の頭の中はね、肩書とお金のことしかないから。君が別な吉田則夫だとわかったら、何しかけてくるかわからないよ」
「え?それは…どういう意味…」
「おや。バスが来たね。元の世界に帰れるよう祈るよ」
「あ、あの専務、どうして私がこっちの吉田則夫じゃないってわかったんですか?」
「吉田則夫は、ただ、仕事ができるだけの男なんだよ。昔から知ってるが、瞳に輝きがなくなって、遊びを知らんつまらん男になっていった。あ、これ僕の名刺。数字は分かるのかな?私の携帯の番号ここに書いてる。じゃ」
そう言って、ウインクしバスに乗り込んだ。則夫は、これで帰れる方法を探すことだけに集中できると思い、深々とお辞儀をしバスが見えなくなるまで見送った。そして帰り道、専務が言ったことを考えながら歩いた。
「何をしかけてくるって。専務には洋子さんどんな風に見えているんだろう。俺のこともすぐわかったくらいだからなぁ。それに、なんで名刺…」
自宅のドアを開けると洋子が立っていて、ただいまを言う間もなく、専務とどんな話をしたのか、昇進させてくれるようにお願いしたのかなどと、言いたいことだけを言ってくることに苛立ちが沸き上がり、言い返そうとしたとき、専務の言葉が頭をよぎりぐっと堪えた。
「その様子だと、お願いしなかったみたいね。まぁいいわ。もう少し先だし。それまでにもう一度パーティしますから。あ、ゴルフも計画立てないと。その時は奥様も呼ぶように言ってくださいね」
「あ、ああ」
「それと今から、今日のお料理持って、杏奈がお世話になっている人の所へ行くから。あなたの夕飯は冷蔵庫に入ってますので、それ食べて下さいね」
今までと同じように、言いたいことだけを言ってリビングへ戻り、料理を詰めた重箱が入ってあるであろう袋を手にして洋子は出かけて行った。
何日も孤独感に襲われ、気が休まらない疲労がピークに達しているのだろう。この家のどこにも人の体温が感じられないことが、専務の言うような男を作り上げ、人を見下すような息子に育てたのではないか、洋子の立ち振る舞いに原因があるのではと思い始め、自分の家は小さいけれど家族が暮らしていくには充分だし、ケンカもするが笑いもある。一人の人間として受け入れ支え合い、思い合って生きてる自慢の家族だ。洋子に対する不満が、自分の家族のすばらしさを痛感させていた。そして、いかに自分が恵まれ幸せだったのか、当たり前と思って感謝をしなかった天罰が下ったのかと、せめて感謝の気持ちだけでも家族の所へ届くように目を閉じて祈った。
翌朝、いつもの公園のベンチに座り、鉄太郎が現れるのを待った。今、頼れるのは鉄太郎しかいない。だが則夫は思った。自分はラッキーな人間であることは間違いない。別世界の中で、偶然に知り合った鉄太郎が同じような経験者だということ。いい年した男に文字を教えてくれた圭太君。非現実なことを聞いても否定せず察してくれた納谷専務。
和恵の言葉が頭に浮かんだ。
『あなたも私ものんびりで、なんとかなるさって言って、何とかしてきたでしょう?』
「そうだな。なんとかしてきたんだよな。うん。なんとかしなきゃこの状況。この世界で暮らす覚悟は絶対にしない!」
「何を絶対にしないんでぃ?」
「鉄太郎さん!あ…てっちゃん」
「もう、どっちでもいいや。で、また会社さぼったんですかぃ?」
則夫は、日曜日のパーティーのことと納谷専務のことを話し、早く帰る方法を調べたいから、長時間いてもお金があまりかからず、インターネットが使える場所を見つけたい旨を伝えた。
「てっちゃんに甘えてばかりで、すみません」
「いいってことよ。おいらで役に立つことなら。ついてきなよ。いい人紹介するからよ。本当は則夫さんの話を聞いてすぐに会わせようと思ったんだが、旅行でいなかったもんだから…と、その前に、買い物だ」
「買い物?」
「人様んち使わせてもらんだぜ。菓子の一つでも持っていかねぇと」
「あ、人様の家…。こ、こないだの圭太君のところに、何のお礼もしてない!]
「心配すんなよ。あの後、魚の煮つけ差し入れたから安心しな」
「本当に何から何まで、すみません。私の方が気付かないといけないのに」
「こういう時は『ありがとう』だぜ。お互い持ちつ持たれつだ。それに迷子仲間じゃないか」
人懐っこい笑顔で鉄太郎は続けた。
「則夫さんが良い人だから、いざという時、手助けしてくれる人が出てくるんだと思いますよ。でも、あるお人は、善人だろうが悪人だろうが困ってたら放っておくことできねぇって言って人助けして、騙されたり泣かされたりしてんのに、それでも心腐らせねぇで一生懸命生きてたら、それだけで幸せだって…。まるで観音様のようなお人でねぇ。おいら、その人を見習ってるだけなんですよ」
それを聞きながら、助けてくれた彼女のことを言っているのだろうと則夫は気づき、その女性を深く愛する鉄太郎が高橋のように思えた。
圭太の家から公園を挟んで真向いへ10分ほど歩いたところに和菓子屋があり、そこのみたらし団子が、訪ねて行く主の好物というので、則夫は手土産と、世話になって何も礼を返していない鉄太郎の分を購入し渡した。
「お礼にもならないけど、これてっちゃんに。私、この世界に来て良かったことが1つあります。てっちゃんと出会えたこと。あなたに会えていなかったらと思ったらゾッとします。命の恩人です」
「そんな改まっていわれると、照れるじゃねぇか……じゃありがたく頂きやす」
鉄太郎はペコリと頭を下げて受け取り、いつも持ち歩いているリュックに入れ、
「もうすぐですよ。今から会うお人は、なんでも偉い学者さんでね。長谷川様っていうんで。気難しい所がありやすが、おいらの相談にのってくれたりする頼りになるお方で。きっと則夫さんの力になってくださいますよ」
そう話している間に、とても古い平屋の一軒屋の前で止まり、引き戸を軽く叩きながら名前を呼ぶが、返事はなく、横から裏へと回ると格子戸になっていて抜けると縁側があり、ガラス戸が開いた状態で、鉄太郎はいつもそうしているのか、腰掛けて名前を呼んだ。
「長谷川先生!いらっしゃらないんですかぃ。先生!」
「うるさいな。鉄太郎。そう叫ばなくても聞こえてるよ。便所だよ。便所」
「こっから上がっても?」
「いつもそうしてるだろ。上がってこいよ」
「へい。則夫さんどうぞ」
長谷川がトイレから出てくると、則夫に気づき
「鉄太郎、この人誰だ。お前が連れて来たのか?」
「このお方、吉田則夫さんと言いやして、おいらと同じなんで」
「同じ?……迷子か?」
「へい」
鉄太郎は真剣な眼差しで長谷川を見つめ、長谷川も鉄太郎の眼を見ている。この沈黙が何を意味しているのか、薄々勘づいた則夫だった。その沈黙を割くように固定電話の音が鳴り響く。ドタドタと縁側から音のする方へ長谷川が出向き、
「はい。鉄太郎なら今来てるよ…うん。そうか、伝えるよ」
チンと音がして長谷川の声だけが聞こえてきた。
「鉄太郎!三丁目の山口さんが、庭の木切ってくれって。行ってくれ」
「わかりやした。じゃ則夫さん、そんな緊張しねぇで。おっかねぇ顔してやすが、取って食われたりしませんから」
「聞こえてるぞ!、鉄太郎」
「地獄耳も健在っと。じゃ、よろしく先生!」
まるでホームドラマの中にいるようなやり取りで、則夫はあっけにとられていると、長谷川がお茶を用意しながら、則夫に尋ねる。
「迷子だって?いつこっちに来たの?」
「え、えっと」
「ああ、自己紹介がまだだったね」
長谷川は理論物理学の研究者で、60歳くらいの細身、身長は則夫と同じくらいだろう。切れ長な目に黒縁の眼鏡をかけ鋭い眼光していて気難しそうな表情で、白髪を綺麗に七・三に分け清潔感が漂う老紳士という雰囲気だ。かなり前に引退したが物理から離れられず、今も独自に調べたりしている。鉄太郎が現れたことにより、並行宇宙の存在が立証されるかもしれないと思っていたが、鉄太郎の気さくな性格や人懐っこさ、一生懸命に生きてる姿を見ているうちに、どうでもよくなったと言う。
「私は若い頃から物理に惚れこんで、結婚もあまり考えたことなかったからね。もし、子供や孫がいたら、それが男の子だったら、こんな感じかなと思わせてくれたのが鉄太郎なのさ。まだ、出会って半年足らずなのになぁ。何年も一緒にいるような感じなんだよ。吉田さんは家族いるの?」
「はい。妻と娘が」
「こっちには?」
「妻と娘と息子がいるようです」
則夫は長谷川にこれまでのことを詳しく話した。もちろん、高橋のことも。
骨ばった手で、自分のあごの下や頬を、時折、撫でながら軽く目を閉じ、興味深く聞いてくれてる感じを見せ、
「鉄太郎と偶然に会ったわけか……。いや、必然かもな…。このこと、他に誰かに話した?鉄太郎以外に」
「えっと、簡単に…ですけど、会社の専務さんに。実は、私がこの世界の吉田則夫じゃないことに気づかれまして。見た目は同じだけど中身が違うと…」
「その人、見る目を持ってるねぇ。私に何をしてほしいのかね?」
「インターネット使って調べたいんです。この世界の人が別な世界に行って、戻ってきた経験を持つ人がいないかを調べたいです」
「なるほど。ちょっとこっち来て」
長谷川は立ち上がり、別な部屋を案内した。その部屋には、たくさんの本と資料が整頓されて、座椅子と机の周りまで、難しい本が並んでいる。葉巻のいい香りがして日当たりもよく、広さは8帖ほどありそうなのに物が多く、とても狭く感じる。
「この部屋、好きに使いなさい。机の引き出しにノートパソコンもある。参考になりそうな本とか資料とか、使っていいから。気が済むまで調べるといいよ」
「あー、えっと…ですね。私、こっちの文字が読めなくてですね。今これで勉強中で…」
則夫はあいうえお表を出して、長谷川見せた。
「そうか。君の世界で使っている言語は違うのか。そうかそうか、とても興味深いし面白いな!」
長谷川は、本棚から1冊のノートを出して開いて、あいうえお表をだしている則夫に向けた。そこには子供が書いたような、見覚えのある文字が書いてあった。
「いろはにほへとちりぬるを…」
「君はこれが読めるんだね?」
「はい。いろは歌です。昔の人達はこれを使って仮名文字を覚えたらしいです」
「そうか、これは鉄太郎が書いたんだ。となると、君と鉄太郎は、時期が違うだけで、同じ世界の人間ということになるな」
「初めて会った時に、江戸から来たと言っていたので、私がいた時代からは、およそ200年か300年前の人だと思います」
「鉄太郎は、伊勢に行く途中、土手を歩いてて眠気に襲われ、ふらついて転がり落ちたと言った。君はうとうとしてて電車が揺れて大きな音で気がついたらこの世界にいた…。揺れる、ふらつく…。共通しているのは、眠気と揺れだね。そこにヒントがあるかもしれないねぇ。眠気と揺れ、どちらも揃わないと発動しないのか、どちらか1個だけでいいのか…。よし、調べよう。ネットの検索結果を私が読むから、君は自分の文字でメモすればいい」
「あ、ありがとございます。でも、なんだか申し訳ないです。私事で先生の時間を使うなんて」
「これも研究の1つさ」
長谷川は、則夫の横に座り机の引き出しから、ノートパソコンを取り出すと、慣れた手つきで入力始めた。検索結果の内容を読んでは、則夫に告げ、則夫はその内容を箇条書きにまとめる作業を繰り返し行う。時間が経つことも忘れ夢中になっていると、縁側の方から鉄太郎の声が聞こえてきた。
「先生!先生!」
「書斎だ。上がって来いよ」
頭にタオルを巻いた鉄太郎が、書斎のドアを開けヒョイと顔を出し、則夫の様子を見てニッコリ笑って声をかける。
「則夫さん、お昼時だ。弁当持ってきたよ。先生も一緒に食べよ」
「なんだよ、”も”って。おまけか私は。あ、お前、木くずとホコリだらけじゃねぇか。ちょっとシャワーしてこい!家の中がホコリだらけになる」
「はいはい…と、則夫さん凄い集中ですね」
「話し聞いたが、そりゃ今の家より家族の元へ帰りたいと思うのは普通だぞ。お前もそうだろ?こっちの世界に慣れてきたといえ…」
「おっと、しゃわーでしたね。ちょちょいと流してきまさぁ」
鉄太郎はなぜか帰る話になると、はぐらかし触れないようにしている感じがあると、長谷川はずっと思っていた。長谷川にしてみれば、鉄太郎を身内のように思っている節があるから、このままずっといてくれるのは嬉しいが、鉄太郎の本当の意味での幸せは、果たしてこのままでいいのだろうか。可愛がっているからこそ、元の世界に帰してやりたいが、可愛がっているから、近くに置きたい。長谷川の気持ちは、則夫の出現によって大きく揺れはじめた。
「うまいでしょ?」
向かいに座っている則夫の顔を覗き込むように見つめ、右側に座っている長谷川に向き直り得意げな表情をする鉄太郎は、料理自慢をしている。
「山口のおばあちゃん、近々、遠いところに住んでる息子さんの娘さんがお子さん、つまりひ孫ですね。戻って来られるってんで、レンコンとごぼうと小芋入れて煮しめにして、あと田楽、きんぴらなどね、息子さん酒が大好きらしいから、あてにもおかずにもなるものをおいら作って。で、先生とこ行くって言ったら、おばあちゃんが先生とこに持っていけって。おいらが庭の柿の枝切りと草刈りしてる間に、米炊いてくれてやして弁当にしたんす」
「てっちゃん、旨いよ。ご飯に合う。きんぴら大好きなんだよ」
「そうかい?きんぴら好きかい。こういっちゃなんだが、ふんまつだし?あれは便利だが必要ねぇ。おいらの料理は、こっちの人にあまり馴染めねぇかもしれねぇが、食べたお人は旨いって、則夫さんみたいにニコニコしてくださる。それが嬉しいんでさぁ」
「うん。鉄太郎の煮しめは旨いから、この辺の奥さん連中に教えまわってるもんな。鯛の刺身も切り方で違うって」
「そうそう。包丁を手前からスッと引くようにだね…」
「わかったわかった。この話になると長くなる。ほら食え食え」
笑いながら食事をするのは、どれくらいぶりだろう。洋子の元で過ごすようになってからずっと、1人で食事をしていた。食事というより、餌を与えられている感じがしていた。
「てっちゃん、料理ってただ作るだけじゃないんだね」
「お?則夫さん分かってきたかい?料理はただ作るだけじゃない。食べてくださるお人の喜ぶ顔を浮かべながら作るんでぃ」
「そうだよな…」
「則夫君、君さえよければ、ここの長屋の裏にも同じような長屋があるんだが方法が見つかるまで住んでも構わないよ。両親から受け継いだ長屋でね。人に貸してたりするんだ。今は鉄太郎がときどき泊まったりするだけで、部屋は空いてるよ」
則夫の表情を見て、何か感じとった長谷川の提案だった。
「そ、そんな会ったばかりの方にそこまで甘えるわけにはいかないです」
「もちろん、タダではない。平行宇宙の証明になるかもしれない資料にさせてもらうことが条件」
「それって、私に都合がいいばかりじゃないですか。そんなもったいないです」
「まぁそんなすぐ答え出さなくても、ねぇ先生。ゆっくり考えてみては」
「そうだよ。私はいつでもいいよ」
則夫は、自分の置かれた状況を理解してくれる2人の存のありがたさと、暖かい心に胸が熱くなり、涙がこぼれ、孤独感が癒されていくのを感じるのだった。そんな様子を優しく見つめていた2人は、
「則夫君、泣いてる暇ないぞ。さっさと食べて続けよう」
「先生の言うとおりだ。涙で弁当がしょっぱくなっちまわぁ」
食事をしながら、励ましの言葉をかけつつ勇気づける鉄太郎は、長谷川にどこまで調べが進んでいるのか聞いた。
「実は、自分が調べて作った資料を久しぶりに見て思い出した話があってね」
食べ終わった長谷川がお茶のおかわりを用意し、同じく済ませた鉄太郎が空の重箱を台所で洗い、則夫は急いで平らげ、買ってきたみたらし団子を食卓に出すと、長谷川は大喜びで食後のデザートと言い食した。
「で、先生!思い出した話って?」
「あ、そうだそうだ。迷子の話だよ。それにしても『かつや』のみたらしは美味しいねぇ」
みたらし団子に舌鼓打ちながら立ち上がり、書斎からA4サイズの青いファイルを手に戻って、ペラペラとめくりながら、『迷子』についての内容を話し始めた。
今から五十年前、ある地方の田舎に住む子供1人が突然消えた。その時の状況は、3人の子供が空き地でキャッチボールをして遊んでいたとき。空き地と言っても、鬱蒼とした森の中にある、大きな2階建ての空き家の敷地で、空き家の周りは1mほどの高さのブロック塀で囲われ、所々崩れている。門扉が錆びた鉄の格子だが施錠され中には入れない。空き地は門扉の裏側にあり、車の駐車スペースとして利用していたであろう面影を残していた。子供たちは3人とも小学六年生の男の子。大人達に邪魔されず遊ぶには絶好の場所で車もあまり通らない。おまけに春休みで、朝から晩まで毎日一緒にいることが日課になっていた。その日も日没近くになり、暗くなる前に帰るか、もう少し遊ぶか話ながら野球ボールを投げていると事件は起きた。Aという男の子がボールを投げそこなって、ブロック塀を越えて中に入ったのを、Bという男の子が乗り越えて取りに行き、なかなか戻って来ないので、AとCがBの名前を呼んだが返事がなく消えたというのだ。警察、消防、地域住民の協力を得て探したが見つからず、誘拐の可能性もない、もちろん家出の様子もない。神隠しとしか思えないと大騒ぎした。
ブロック塀を越える様子を見ていた3人目の男の子Cは、Bが塀に両手をかけてピョンと飛び上がり、左足を縁に乗せて降りたと言っているが、警察の調べでは子供の靴跡らしきものは見つからなかった。Bの身長は当時の平均より5㎝高く143㎝体重は42㎏、ブロック塀を越えることは難しくない体型している。他の二人は138㎝36㎏平均的な体型で、ブロック塀に手をかけてピョンピョン飛びながら向こう側を覗いただけで、中には入っていない。2人はAの姿がどこにも見当たらず、野球ボールだけが落ちていることと、辺りが薄暗くなってきたことが重なり恐怖心が涌き、走って交番へ駆け込んだ。
「……と、ここまでは行方不明事件なんだよ。ここから先なんだ。『迷子』の話なのは。私が52歳のときだから、9年前か。その時の記事がこれだ」
長谷川が青いファイルの中に保存している地方新聞の記事のコピーを2人に見せた。
「日付で分かるだろ?Bが行方不明になってから1週間後の記事なんだよ。例の空き家の前で発見されたと書いてあるんだ。この記事は、当時、配属になったばかりの研究員が持ってて…」
その研究員は当時27歳の女性で綾瀬と言い、配属日までの数日間、温泉でも散策しながら一人旅を楽しもうと、記事にある田舎にたまたま辿り着き、そこでお年寄りから聞いた行方不明事件の内容が、相対性理論に関連するのではないかと思いついて、図書館で調べて見つけた新聞記事らしい。
空き家の前で倒れているBを見つけたのはBの母親で、行方が分からなくなってから、毎日、早朝から深夜まで、名前を呼びながら探していた。発見されたのは行方不明から3日後の日が昇り始めた頃。春休みの最終日だった。母親の証言によると、その日は小雨が降っていて、日が昇る少し前に自宅を出て、空き家に着いたときはまだ暗く、小雨の影響からなのか、辺りは薄い靄がかかっていて、空き家周辺から森の方へ行ったり来たりを繰り返し、明るくなってきたとき、突然Bの姿が見えたと言う。名前を叫ぶように呼びながら、駆け寄ると間違いなくBだったが、着ている服や靴が見たことのない物だった。不明時はジーンズ生地の半ズボンに水色のポロシャツ、靴はグレーの紐靴に足首までの白い靴下のはずが、黒い宇宙服のようなつなぎ服と黒い紐のブーツ、アメフトの選手が上半身に付けているような形の物。
不思議に思いつつも、息をしていることに安心し42㎏ある息子を抱き上げ、空き家の近くの民家に助けを求め行方不明事件は無事解決したかに見えた。
医師の診断では、Bの健康状態は良好ではあるが、何もしゃべらず、ずっと無表情のままで、両親の声かけに反応を示さない。精神的ショックが大きいとして、警察の聴取は先送り。しばらくは自宅で療養をすることになり、両親は献身的に看病していたが1週間後、Bは再び姿を消し遺体で見つかった。
「《その時、Bは黒い宇宙服のようなつなぎ服を身に着けていた…。》この記事を見つけた綾瀬君と、この事件について調べていたんだよ。9年経ったのか…そうか…」
「先生?どうかしやした?えらく遠い目をして」
「いや、何でもないよ。遺体が見つかった場所は、例の空き家の前と記事に書いてあるんだが、私と綾瀬君は、一つの仮説を考えたんだよ」
A4サイズの青いファイルは、厚さ10㎝以上あり、長谷川の理論物理に対する熱心さを物語っている。骨ばった指でファイルをパラパラめくる姿を見つめ、則夫は心の中で思った。もし高橋がここにいたら、きっと目をキラキラ輝かせ、長谷川の話に夢中になっただろう。
「ああ、これこれ、
《仮説1:少年Bは並行宇宙に存在する同じ姿の別人ではないか。両親に反応を示さないこと。無表情。おそらく言葉が理解できなかった可能性がある。よって、自分がいた世界に戻ろうとしていたときに、アクシデントが起きて死亡したのではないか》
《仮説2:少年Bは同一の次元で、時空を超え未来もしくは過去に飛ばされ、何らかの影響を受けて戻ってきたが記憶がなくなり、本当の両親のことが分からず、再び時空を超えようとしたが失敗し死亡したのではないか》
ん?どうした二人とも」
「おいら、学問はてんでダメで…何をおっしゃってるんだか…」
「お、同じく、私も化学とか物理とか、一応、学校で習ったとは思いますが。頭の中を素通りしただけです」
「ははは。すまんすまん。つまりだね、則夫君と鉄太郎の置かれた状態のことなんだよ。気が付いたらこの世界にいたことを、理論…いや、事実に基づいて筋道を立てて考えてから、仮設、こうではないかと、推し測るんだ」
「はぁーなるほど。と言っても、おいら料理のことは頭に入るんだけど、やっぱりよくわからねぇ。でも、先生が凄い学者様だってことは分かるよ」
「そんな凄くはない。理論物理学をやってる人間なら、こんなメモ書き程度…」
「え、先生それ全部メモ書きですか?もしかして、行方不明事件だけのではないですよね」
「行方不明事件だけのメモだ。『迷子』についてのメモ。どんな些細なことでも、この青いファイルに残してるよ。他にもたくさん資料があったんだが、私の手元にはこの1冊だけなんだ。あとの資料は綾瀬君が持っているはずなんだ」
「先生、綾瀬さんという人と連絡は…」
「そうだよ。先生、綾瀬さんってお人にも、事情をお話して協力してもらえば、則夫さんを元の世界に」
長谷川はパタンと青いファイルを閉じてテーブルに置いてから、縁側へ座ると
「連絡とれないんだよ。資料もなくなっているんだ」
大学で授業をする傍ら、理論物理学の研究をしている長谷川の元に研究員生として現れた綾瀬は、長谷川の説く物理に感銘を受け、熱心に研究を進めていたが、連絡が取れなくなり、捜索願を出したものの見つからず、『迷子』の資料だけが無くなっていた。
両親や親戚もいない綾瀬は施設で育ち、学校の成績は常にトップで優秀なことから大学へ進学。アルバイトで生計を立て、学生生活を送る中、27歳で博士号を取得する。そんな優秀な子ならば、他にもあっただろうと思う一方で、研究が進む過程において、当時、准教授の長谷川がこの機に教授になれるのではと、淡い期待が芽生え研究に没頭したが……。
「そんな矢先にいなくなってしまった。大学側は、何か情報を搾取して他へ売ったんじゃないかと言っていたがね、そんなものあるはずもないと突っぱねた。そのうち、私の両親が相次いで亡くなって、大学を辞めたんだよ」
縁側で語る長谷川の背中が、それだけではない何か他に思いがあることを感じさせている。これ以上は聞いてほしくないとでも言ってるかのように。
しばらく、その思いが伝わってくる空気の中、則夫のスマホにメッセージ通知の音が鳴って、慌てたように開くと、洋子から駅に迎えに行く時間の知らせだった。
「もうこんな時間か」
スマホの時間を見て、鉄太郎と長谷川に視線をやりながら、夕方であることと洋子が駅に迎えにくる時間が夜8時で、今が6時を回っていることを告げ帰ろうとした。
「すまないね。なんだか話がそれてしまって」
「いえ、こんなに協力してもらえて心強いですし、また来ます。明日にでも」
「ああ、いつでも待ってるよ。鉄太郎は今夜はどうするんだ?」
「則夫さん、駅まで送ってから風呂屋の手伝い行きやす」
長谷川が綾瀬研究員の話をしてる途中から、なんとなく暗い表情になっていた鉄太郎が気になっていた則夫は、
「てっちゃん、元気がなくなった気がするのは、俺の気のせいかな?」
「え?き、気のせいだよ。おいらは元気だ。ああ…でも『迷子』仲間だもんな…ちょっとだけ聞いてくれるかい」
鉄太郎は、長谷川が綾瀬研究員と特別な関係でまだ想いがあるのではないか。その想いを忘れるために大学を辞めたのではないか。つらいことを思い出させてしまったなどど、則夫と同じ思いをしていたことが分かり、色々と話していくうちに、鉄太郎も長谷川に特別な思いがあることを知る。
「でもよ、辛そうなお姿でしたから、思い出させたくねぇんで協力はなしでって、今さら言えねぇしよ。先生のために何ができるかなぁ」
「よけいに辛くなるかもしれないけど、綾瀬さんって人が見つかるのがいいと思うんだよね。なぜ、資料を持ったまま消えたのか分からないままだから未練なんだ」
「今まで、見つからないんじゃ…考えたくはねぇんですが…」
その先は、2人とも同じことを想像したが言葉には出さず、駅に着いた則夫は鉄太郎と別れ、洋子が迎えに来ている駅に向かう電車に乗った。
時刻は7時少し前、帰宅ラッシュのピークが過ぎたといえ、空いてる席はなく、入り口に立って外の夜景とガラスに写る自分を見ながら、この世界に来て1週間、洋子たちに本当のことを話しで家を出ようと考えてる中に、雅也のことが気になり気持ちが晴れない。ちゃんと話せば伝わるはずと言い聞かせ、最寄り駅で降りた。
「何を言いだすのかと思ったら」
帰宅してからすぐには書斎に行かず、リビングに洋子と杏奈、2階の部屋に引きこもっている雅也を呼び、自分がこの世界の人間ではないことと、この家へは帰らないことを告げたが、洋子は大声で笑い、杏奈はやれやれと肩をすくめて、あきれたような表情を浮かべ、雅也だけが呆然としている。
「気づいてましたよ。そんなこと。最初は分からなかったわよ。同じ顔同じ声ですもの。でも、話し方とか食器の洗い方、シャワーした後とか今までと違うし、理由はわからないけど、入れ替わったと思った。でも、なんでもいいのよ。本物だろうと偽物だろうと」
「そうそう。杏奈もママから聞いたとき、どっちでもいいと思ったよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。お母さんも杏奈も。なんかおかしいよ。こんなこと言うお父さんのことが心配じゃないの?」
「心配よ。こんなこと言うなんて。部長昇進を逃したりしないか」
「お母さんはどうしてそうなんだよ!」
「雅也、ついでに言うけど、あんたは産む予定ではなかったの。内緒で処理しようと思って病院行ったら、納谷専務の、そのときは部長だったけど、奥様に会っちゃって『何週目?』って聞かれたから、仕方なく産んであげ」
パン!と音と同時に、洋子の左頬が赤く腫れた。
「何言い出すんだ!いい加減にしろ!」
怒りが抑えきれず、則夫は洋子に平手打ちしたのだが、雅也が飛び出して行く姿も見えたので後を、追って家を出た。
「雅也君!雅也」
街灯が少なく、暗くて見えにくい道を、白の長そでシャツとジーンズ姿の背中を捉えて、走って追いかけると、電光掲示板の明かりが見えバス停に向かっていることがわかり、追いつけるように急いだ。背後からバスが追い越し、バス停に着くと雅也が乗り込むのが見えて、則夫も急ぎ乗り込んだ。
車内は夜9時を回っていることもあってか、息を切らした則夫と雅也の2人きりで、なんて声をかけようか考えていると雅也が、なぜ追いかけてくるのか、放っておいてくれと喚き始めたので、優しく抱きしめ
「雅也、落ち着けるところへ行こう」
と、鉄太郎と出会った公園が頭に浮かび再び向かった。
駅に着いてから、公園に行こうとしたが、鉄太郎と初めて会ったときに教えてくれた店が隣の駅にあることを思い出し、
「未成年連れでもいいかわからないけど、腹減ってるだろ?何か食べよう。隣の駅の近くで行ったことない店だけど、歩きながら話そう」
雅也は黙っていた。洋子の言葉にかなりショックを受けたのか、伏目がちで下唇を軽く噛んで、泣きたいのを我慢しているように感じ、則夫はこの子が、和恵との間に生まれてくるはずの子供だったら、と思い始める。そして、自分がいた世界の話と家族の話、その中に『雅也』という名を付けた男の子がいたことを、一緒に歩く雅也に聞かせた。
「幸せってどんなの?」
「幸せって、家族が元気でいてくれて、安心できるときに感じることだと思うなぁ。例えば、一緒に食べる食事が美味しいとか。好きな人たちに囲まれて笑い合うとか、当たり前のことが当たり前ではなくて、『ありがたい』って感謝するときに沸き上がる心かな。あ、隣の駅、この辺だな。確か…東へ2町ほど歩くと飲み屋とかあると言ってたな」
「2町って?」
「だいたい…200mちょっとかな。学校で習ったろ?」
「学校行ってない」
「ああ、そう言ってたな」
「今のお父さんみたいに教えてもらうことなかったし、それに、お母さんは杏奈のことばかりで、お父さんと僕のことは家族じゃないんだ」
「本当のお父さんが戻ってきたら、今みたいに話したらいいじゃないか。今からでも遅くないよ」
「……どうかな」
鉄太郎が教えてくれた店は、飲み屋が並ぶ通りから少しだけ、外れた場所にあった。赤い看板に白い字で『ちえり』と仮名字で書いてあり、圭太にもらった『あいうえお表』で練習してよかったと思いながら、木製の枠の中にステンドグラスが飾られたドアを開け、中に入ると、色白できめ細かな肌に、小さめの口と卵型の輪郭に黒くて大きな瞳をキラキラさせた小柄の女性が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませー」
「あの、初めてなんだけど、まだやってます?」
「ほんとは9時までなんだけど、いいですよ。あら、とても若いお客様も一緒?」
「息子なんですけど、いいですか」
「もちろんですよ。お腹空いてるんでしょ?」
店の中は5,6人が座れるカウンター席と4人掛けテーブル席が2つ。もとはスナックしていた感じが残っていて、カウンター席から見えるガラス棚には、おしゃれなコーヒーカップとグラス、緑色の瓶に黄色のラベル、白い帆船が描かれたウイスキーのカティサークが数本置いてある。
カウンター席の椅子に鞄を置いて、雅也を横に座らせながら、
「友達に、美人ママが出す料理が美味しいって勧められて来たんです」
「あら、だれかしら?この店は常連さんでなんとか成り立ってるから。大したものないんだけど、煮魚とか、和食は大丈夫?」
「はい、好き嫌いはありません。雅也、君は?」
「大丈夫です」
おにぎりが二つと、香の物、ニンジンとこんにゃくの白和えと煮魚に加えて、雅也には柔らかく煮込んだ手羽先も出されていた。営業時間を過ぎてるにも関わらず、優しくもてなしてくれる女性が、鉄太郎が大切に想っている人に間違いないと確信した。則夫は、女性の体の腹部がふっくらしているのを見て、
「あの、ママさん、間違ってたらすみません、もしかして赤ちゃん」
「あ、そうなんです。7か月なんです」
「じゃ、じゃあ旦那さんは、仕事とか頑張らないと、ですね」
則夫は、鉄太郎の子供ではと勘づいてカマをかけてみる。
「旦那ねぇ…。どこへ行ったのやら。この子の父親ね、とても変わってて、初めて会ったとき、ちょんまげしてて、時代劇の役者さんかなと思ったら、『おいらは江戸から来たんでぃ』って。不気味より先に笑いが出ちゃって。お腹に宿ったことを言おうか迷っていたら、いつものように朝出かけて言ってそのまま帰ってこないんですよ。捜索願だそうにも江戸の人じゃ探しようがねぇ」
とても明るくやさしい眼差しと、笑いながら話す表情が素敵なところを見て《間違いない。鉄太郎のことだ》そう確信した則夫は、女性にショックを与えないように、というのも和恵が流産したときの知識を思い出し、とにかく自分が落ち着いて、後日、鉄太郎を連れて来ようと思った。
「ちえりって、ママさんの名前?」
「いえ、私の母の名前なんです。母も不思議な人で、ここは母がやってた店なんです。置いてるお酒は、カティーサークと瓶ビール。お酒はあまり飲めなかったけど、カティーサークだけは飲めるみたいで。元の持ち主から譲り受けて、やってた…いたた」
お腹を大事そうに抱え、苦しい表情になったママを見て則夫は、和恵が流産したときと重なり見え、
「ママさん?大丈夫ですか?」
「今朝からときどき、お腹が痛くて、いたたた」
「お父さん、救急車を呼んだ方がいいよ、足元に血が」
「すま ん、雅也、お父さん字が読めなくて住所言えないから、代わりに呼んでくれ。俺は、鉄太郎を呼びに行ってくるから」
「て、鉄太郎?!い、いたい、赤ちゃん助け…」
「あ、お父さん、僕の携帯の番号を」
雅也は伝票の裏にサッと番号を書いて渡すと、すぐに救急車に連絡した。則夫は駆け出しながら、後ろの方で雅也が電話で話す声を聞きながら、この連係プレーが不謹慎にも嬉しく本当の息子として連れ帰りたいと心の底から願った。
走りながら胸ポケットのスマホを見ると、洋子からのメッセージが入っていたがそのまま放置し、鉄太郎の元へと急ぐ中、風呂屋を手伝うと言っていたが、どこの風呂屋なのか分からず、鉄太郎と出会った公園がある駅が見えた辺りから、コンビニやスーパーで聞き回って探した。
「今度会ったら、てっちゃんと先生の連絡先を聞こう」
そうつぶやき、汗をネクタイで拭っていると、雅也から連絡が入る。
『お父さん?今、救急病院。ママさん手当受けてるよ』
「そうか、実は、お腹の父親らしい人と知り合いで、今探しているんだ。もう少ししたら行くから、病院の場所をメッセージに送ってくれるか。あ、全部、仮名だぞ、仮名」
『分かった。あと…お母さんからメッセージに連絡あったよ。帰ってこなくてもいいけど、居場所は教えろって、まだ返事してないけど…』
「そうか、うん。一応、返事はしといた方がいいな。「はい」とか、一言だけでいいから」
『そうする』
クソっ。則夫は悲しいさと口惜しさが混ざった何とも言えない気持ちで、洋子のことも子供たちのことも可哀そうでたまらない。けれど、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。急いで鉄太郎を見つけ出して、ママさんの所へ行こうと焦っていると、公園のすぐ向こう側に白黒の法被姿をした男達が5,6人いるのを捉え、猛ダッシュで近寄り
「す、すみませっ…ハアハア、こ、この中で、て、鉄太郎、ハアハア」
息切れで、何を言っているのか自分でも分からないでいると、
「あれ?則夫君?帰ったんじゃ」
拍子木を肩からぶら下げた長谷川が前に出てきた。
「せ、先生、ハアハア」
「おい、誰かそこの自販機で水を買ってきてくれないか」
すぐに男達の中の1人が、水を買って戻り則夫に差し入れた。500mlのペットボトル半分を一気に飲み干し、フーッと深呼吸をして男達に深々と頭を下げながら礼を言って、
「先生、てっちゃんどこにいますか?彼女のお腹の赤ちゃんが…」
則夫は、鉄太郎には大好きな女性がいて、その女性の幸せのために離れてここへ来たことと、お腹の赤ちゃんの父親が鉄太郎であることを長谷川に話し、長谷川は拍子木を他の男たちに託し、鉄太郎が手伝っている銭湯へ則夫を案内した。
「え?今、何と言ったんだ?」
「閉店だったのに、優しくもてなして…」
「その前だよ。赤い看板に白字で」
「ああ、ちえりって書いてあって、でもママさんの名前ではなくて、お母さんの名前みたいですよ」
長谷川は、何か気になることがあるのか、難しい顔つきになって、しかし、しばらくすると、計算が合わないとか、同名の別人だとか、なにやら独り言をつぶやいている。そのうち、銭湯の明かりが見えてきて、鉄太郎がほうきで掃いてるのが見えた。
「てっちゃん!」
「あれ?則夫さん、帰ったんじゃ」
「いいから、急いで!説明は道々話すから、病院へ!ちえりのママさんが、えっと病院は」
腕を掴んで連れて行こうとする則夫の腕を振り払い、鉄太郎は訳が分からないと、その場に座り込んで動こうとしない。
「てっちゃん、そんな意地はってる場合じゃないよ。ママさん、今もてっちゃんのこと待ってるんだよ。それに、お腹の中には子供がいるんだ。てっちゃんの子供が」
「…………」
頑として動こうとしない鉄太郎に、長谷川が怒鳴った。
「鉄太郎!行け!行けって!後悔するぞ。それとも怖いのか?」
「……ああ。怖いよ。先のこと考えたら、怖いに決まってらぁ。だってよ、こっちに来たのは突然だったんだ。しかもよ、幸せのお礼参りに伊勢に行く途中に来てよ。今度は、その逆で、ガキが生まれて楽しくて幸せでよ、そんなとき、また同じ目に合うんじゃねぇかって、江戸に飛ばされるんじゃねえかって。失うものが大きすぎるんだよ。だったら、いっそのことこのまま忘れち待った方が」
ゴチン!長谷川が鉄太郎の頭のてっぺんをゲンコツで殴った音が、そこら中に響いた。
「いてぇ!あたた。先生、なにすんだよ!」
殴られた頭を両手で抱えて、長谷川を見上げた鉄太郎は、目を真っ赤にし悲しそうに見つめている長谷川と、心配そうに見ている則夫が映り、
「なんで二人とも、そんな目で見るんだ。他人事なのによ…」
「てっちゃんに幸せになってほしいからだよ。俺も先生も。昼間、俺を励ましてくれたてっちゃんなら、気持ちわかるだろ?それに、大好きな女が今苦しんでるのに、そばにいてやらないなんで、男のすることじゃないよ」
鉄太郎は涙を浮かべた目で、2人を見つめ頭を下げる。そして、ゆっくりと頭を上げて鼻をすすりながら、姿勢を正座に整えた。
「則夫さん、病院の場所教えてくれますか」
江戸訛りじゃなく真剣に訪ねる所作が美しく見えて、きっと昔から日本人は、人に何かを真剣に頼むときは、今の鉄太郎のように姿勢から変えて人に伝えたのではないかと、人として受け継がれてきたものが垣間見え、ほっとしたような嬉しい気持ちになり、鉄太郎を立ち上がらせ肩を組んで歩き出した。その後ろを長谷川も何かを心に決めたように歩きだす。
病院は、鉄太郎がいた風呂屋から、タクシーで5分の所にあった。6階建ての救急病院で、1階が救急外来で、入ってすぐに正面に受付があり、裏は看護師の詰め所が隣り合わせになっている。受付の前には、長椅子が5脚ずつ3列に並んでいて20人は余裕で座れるほど広い。受付を通り過ぎて、突き当りに処置室がいくつかあって、左側の部屋で治療がされていると雅也が言った。
受付はカーテンがしてあり中が見えず、詰め所の明かりはついているものの、誰もいない。時間はもうすぐ深夜0時になる。当然、辺りは不気味なくらいに静かで、長椅子に腰かけて待つしかない。時々、処置室からバタバタと足音が聞こえてくるが、受付からは見えない。居ても立っても居られない鉄太郎は、看護師らしき女性を見かけるたびに、
「美知留は、綾瀬美知留は大丈夫ですかい?お腹の赤ん坊は無事ですかい?」
肩を掴んで揺すりながら訪ね、落ち着くようになだめられてもウロウロしている。待合場所では、長谷川が目を閉じ腕組みをして何か考え込んでいる感じで、則夫はこれまでのことを振り返り、赤ん坊と母親の無事を祈っていた。
「お父さん…」
「雅也、ありがとう。とても助かったよ」
「うん。ママさん、ずっと僕の手を握って、赤ちゃんを助けて下さいって、何度も言うんだ。だから大丈夫です安心してくださいって言ったよ」
「それでいいんだ。凄いな君は。大人を安心させるって。立派立派」
頭をワシャワシャと撫でて肩を抱き、本当の息子のように接することを覚悟して決めた。
「あなたが本当のお父さんだったらいいのにな…」
雅也は、則夫に聞こえないようにつぶやいた。
小1時間は経っただろうか…。処置室の明かりがパっと消え、中からストレッチャーに乗せられた鉄太郎の想い人『綾瀬美知留』が運ばれ出てきた。
「美知留!美知留」
鉄太郎の声に反応がない。美知留の後ろから細身で背が高く、顔は白いマスクと黒縁の眼鏡でよく見えないが、白衣姿の男性医師が出てきて、今は眠っているからそっとしとくように言われ、その場に土下座した鉄太郎は
「お願いします。美知留を助けて下さい。赤ん坊を助けて下さい。お願いしますお願いします!」
床に何度も頭をこすりつけて医師に頼むJ姿に目頭が熱くなった則夫は、鉄太郎の代わりに美知留の病状を尋ねると家族かと聞かれ、土下座していた鉄太郎がスクッと立ち上がり、
「あっしが美知留の亭主で赤ん坊の父親です」
「そうですか。ではご主人、説明しますのでこちらへ」
「あ、則夫さんも一緒に。小難しい話だとちょっと…。先生、このお方もいいですか」
医師はマスクを顎に下げニッコリと笑顔を見せ頷き
「どうぞご一緒にこちらへ」
2人をナースステーションの奥の部屋へと連れて行き、危うく切迫早産するところで、赤ちゃんを子宮内に留めておくため、子宮口が開かないよう薬で抑える処置をしていて絶対安静だと告げられる。眠っている美知留のそばにいてやりたいと鉄太郎が言うと、医師は看護師を呼び、病室へ案内されて行った。則夫は、長谷川と雅也が待つ待合場所へ戻り、2人の状況を伝える。
「鉄太郎はここに残ることを決めたんだな」
「そうですね。父親だって名乗りましたから。戸籍のこととか色々あると思いますけど、無事に赤ちゃんが生まれて、親子一緒にいられたら越えられると私は信じてます」
複雑な心境ではあるが、晴れやかな気持ちだった。今、一つになろうとしている家族がいる。時空を超えてやってきた男は、粋な日本男児で人のためにあちこち駆け回り、周りの環境を変え、人々の心に『思いやり』を植え付けて広げた。荒みかけているこの世界を変えるため、鉄太郎は江戸から来たのかもしれない。最初の印象が、全体的に色彩が薄く感じたのも、荒み行く世界の心の表れではないだろうか。だとしたら、自分は何のためにこの世界に来たのだろう。則夫はずっとそんなことを考えている。
「お父さん、お父さん」
「……ん?どうした?」
「僕、救急車に一緒に乗ったから、つい忘れてたんだけど、お店そのままなんだけど、大丈夫かな?」
「あ、そうか。そうだな、どうするかな」
「鉄太郎にそのこと話しして、私の所へくるか?もう深夜だし、疲れたろう」
「私は大丈夫ですが、雅也は」
「僕は夜型だから眠くない。でもお腹空いたな。さっき食べてる途中だったし」
3人は鉄太郎に一声かけてから、近くのファミリーレストランで何か食べることにした。すると、鉄太郎が病室から出てくるところで、ずっと泣いていたのか目が真っ赤に染まっている。
「てっちゃん、泣いていたのか?ママさんになにか?」
「い、いや。大丈夫だ。美知留のやつ、目を覚ましたんですが、覚ますなり普通にね『お店ほったらかしにしてるの。鍵かけてきて。今度は消えないでね。何があっても大丈夫だから。あんたは父親なんだから』って言いやすもんだから」
「そうか。ママさん、いや美知留さん、戻ってくるって信じてたんだよ」
「則夫さん、ほんとに、本当にありがとうございます。あんた達が来てなかったら、美知留は1人で倒れてたって、お腹の子供がダメになるところだったって、美知留から聞きました。命の恩人だ。本当にありがとう」
「そ、そんなこと。頭上げてくれよてっちゃん。私こそ、どんなに助けられたことか、感謝しても足りないぐらいだよ」
笑い合う則夫と鉄太郎を見て、長谷川が雅也の肩に手をかけて、これが友情だとささやいた。
美知留が営んでいるい店の鍵を閉めに行く鉄太郎が、ファミリーレストランで食事をするという3人に、そんなところではなく店で何か食べたらいいじゃないかと誘った。長谷川はなぜか乗り気ではない様子が見られたが、店に着いて中に入り、棚に並ぶカティサークを見て更に表情が険しくなる。
「カティサーク…」
「先生、カティサーク飲んだことあるんですか?」
「ああ、私の好きなウイスキーでね」
「お、美知留のやつ、ちゃんと教えた通りに煮魚してるじゃねぇか。すぐに、別なもの用意しますんで」
「いいよいいよ。もったいないよ。チンしてくれればいいから、、な、雅也」
「うん。僕もその魚食べるよ。ところで先生がさっき言っていた平行宇宙の話って、このお父さんと鉄太郎さんのこと?」
則夫も鉄太郎も苦笑いだった。
「そうだよ。2人とも別な次元から来たんだ」
「いずれ帰っちゃうんだ」
「おいらはここに残るぜ。さっき決めた。つまりよ、帰る方法が解ってもやらなきゃいいんだからよ」
「お父さんは帰るんだろ」
「ああ、だけどまだ方法が見つからないから…」
「見つかるかもしれないよ」
長谷川は、棚のカティサークを手に取り、研究員の綾瀬が「ちえり」という名で、愛した女性だと話し始めた。
少年Bの謎の死と相対性理論について調べ勧めているうちにお互いに惹かれ合い、何度も夜を共にしたが、長谷川は24歳年の差に引け目と世間体とを考えてしまい、結婚を申し込むなんて恐れ多いとまで思っているうちに姿を消され、きっと自分のことに嫌気がさしたんだろうと思い込むことで真実を探そうとはしなかった。傷つくのが怖かったと話した。
「情けないだろ。いい年した大人か、傷つくのを恐れて逃げ出したんだ。だけど、神様っているんだな。逃げるなって教えるために、鉄太郎と出会わせてくれたんだ」
「ほんとに、美知留のお袋さんが先生の好いたお人ですかい?。それにしちゃ年の数が合わねえよ。だってよ、美知留はお袋さんが27歳のときの子だぜ。先生は今、61?美知留は28だろ?えーとお袋さんの年は、えーと」
「55歳だよ」
「ぼっちゃん、計算早いなぁ」
「これぐらい簡単だよ。今の年の差が6歳。本当ならママさんのお母さんは37歳。それと、ぼっちゃんはやめて雅也でいいよ。僕もう15歳なんだから。鉄太郎さんの時代では元服でしょ?」
「雅也、2町は分からないのに、元服は知ってたんだな」
「僕のことはいいから。長谷川先生の仮説。お父さんが帰る方法」
「そ、そうだな。先生すみません」
「いや、大丈夫だ。そうだな……綾瀬君は何らかの方法で時空を超えて過去に行き、子供を産んだ。おそらく美知留さんは私の娘の可能性が高い。ただ…」
「計算が合わないんだよ」
「雅也、何言いだすんだ」
「いや、雅也君の言う通りなんだ。合わないんだ」
長谷川は仮説として話を続ける。もし時空を超えて28年前に行ったとしたら、自分の年が24歳の時に綾瀬は妊娠した状態でこの辺りに現れ、3歳年上のはずだが現在は6歳下の55歳。つまり、9年前に消息不明のときに18年前の過去に行き、同じ次元空間に9歳の綾瀬と27歳の綾瀬が存在したことになる。もしかしたら、今もどこかに37歳の綾瀬ちえりが存在するかもしれないというのだ。
「じゃ、探せばお若いお袋さんがいるってことですね。さ、ともかく腹ごしらえして、頭休めて、美知留にお袋さんの居場所きいて、会いに行きやしょうよ。その方が早いや」
鉄太郎が、温めなおした料理を並べながら長谷川に声をかけると、
「綾瀬君は近くにいるのか?鉄太郎」
「詳しくは聞いてないんですが、元気でいらっしゃるようですよ。あれ?なんですかい?もしかして死んだと思ってやしたんで?」
「せ、先生はどうか分からないけど、ここで最初に店の名前のこと聞いたときに、美知留さんのお母さんの名前で、不思議な人だったとかなんとか言ってたんで、てっきり…な、雅也」
「過去形で話してなかったよ。『不思議な人でね』って言ってたろ。勝手に勘違いしてんなよ」
「元気なのか、そうか、ははは。そう元気か」
長谷川はボロボロ涙を流していた。心から愛した女性に対して、世間体とか年の差とかを気にして、素直になれないままでいたことを、後悔しながら過ごした日々。振られてもいい、恥も外聞も関係なく本気だと伝えれなかったことを何度も悔やみ、そう思いながらも探そうとせず逃げ出した自分。今、その時の記憶の封印が解かれ、もし会うことを許されるなら、まだ愛してると伝えたい。その願いが涙となって表れているのだろう。鉄太郎はカウンターの下からティッシュ箱を出して、長谷川の前に置き、則夫は気持ちが伝わってくるのか、つられて涙を浮かべ、鉄太郎も、おいおいなんでぇとか言いながらティッシュを掴み鼻を噛む。
ソファーを並べて横になり仮眠をとったあと、店を出て美知留の病院へ行く途中、雅也に家に帰るか尋ねると、雅也は則夫が元の世界に帰るのを見届けると言い、雅也の今後が心配な則夫は、一緒に来てほしいと言いたいのをぐっと堪えた。なぜなら、ちゃんと帰れるか保証がない。だからといって自分は洋子の元へ戻るつもりもない。いずれ、こっちの世界の吉田則夫が、雅也の本当の父親が現れるかもしれない。雅也は雅也で、目の前の父親と呼ぶ男に、本当のお父さんだったらいいのにと、伝えたいけれど、それが未練となって足を引っ張ってはいけないと思い言えずにいる。お互いに相手を思いやる気持ちの中、病室に着きドアを開けると、美知留が笑顔で迎え起き上がろうとしている。
「お、おい起きちゃだめだ。安静にって先生いわれたろ」
「大丈夫よ、てっちゃん。2人は、この子の命の恩人。お礼言わなきゃ。本当にありがとうございました」
「いいから、寝ていてください。当たり前のことしただけですから」
「息子さんもありがとう。手を握ってくれて、どんなに心強かったか」
「い、いえ、どういたしまして」
「お、それより美知留、こちら長谷川先生って、おいらが家出てる間に世話になってるお方でよ」
鉄太郎が簡単に紹介すると、美知留はすぐに気づいた。
「お父さん、でしょ?母から顔の形や身長、ずっと教えられてきたから。カティサークが好きなことも。私の名前の意味は『美しい知識を残す』って言うんです。いつかきっとお父さんが見つけてくれるからって」
二人で調査をしていた頃、ちえりがよく言っていた言葉を、長谷川は思い出した。
《美しい知識をこの世に残したい…》
長谷川はまた泣いた。言葉が出せないまま、美知留の手を優しく両手で握り、膝をついて頭を下げる。
「お父さん。母はずっと言ってました。幸せだって。今は会えないけど、幸せって。ただ、幸せ過ぎたのか、記憶が…」
「そういえば、美知留、おいら、お袋さん元気だっては聞いてたけど、どこにいるんだ?ちょっと会わせてもらてぇんだ」
鉄太郎は、則夫を元の世界に帰したいことと、長谷川の気持ちを伝えたいことなど、美知留の体調を気遣いながら説明するが、美知留の母親は、鉄太郎と出会った頃、若年性アルツハイマー型認知症と診断され、今は施設に入院していると言う。その施設は、ここから歩いて10分程の近くにあるが、娘のことも分からないくらい進行していて、相対性理論だとか並行宇宙の話などできないらしい。それでも行ってみるならと、施設の場所を教えてくれた。鉄太郎は美知留の代わりに店を開けることにしたと言うので、その場で別れ、見舞いの花を買って3人は施設に向かう。
施設は美知留が入院している病院よりはとても小さく、認知症患者のみが生活する居住空間になっていて、7~8人が住んでいるらしく、美知留の母ちえりは、そこでスタッフに見守られながら調理をしたり洗濯物をたたんだりしていると、施設の職員に部屋までの案内中に説明された。壁には患者が描いたと思われる絵が飾ってあって、そこにカティーサークの絵があった。
「これ、綾瀬さんが描いたんです。とても思い出があるみたいで、部屋にも貼ってありますよ」
職員の言葉に胸を詰まらせた長谷川の肩を、雅也がポンと軽く掴み病室へ歩いた。部屋の前に着くと、職員がドアをノックし、声をかけるが反応はないままドアを開ける。
「綾瀬さん、お客様ですよ」
8帖ほどの広さの部屋に、ベットと机とテレビ、ラタンでできた椅子。その椅子に座って外を眺めるちえりの姿がそこにある。白のスエットに薄いグリーンのシャツ、髪は肩まであり所々に白髪があって両サイドは耳の上にピンで留めてあった。
「最近はずっとああして、外を眺めて時々面白いことを言うんですよ。時空が割れてるわって。娘さんのお話しだと、とても頭のいいお母さんで、特に物理とか数学に強くて、おうちで近所の子供たちに勉強を教えて生計立ててたけど、近所に学習塾ができてからは子供たちが塾へ行くように…、それでスナック始めたらしいです。じゃ、何かあったら、ベット脇のボタンを押してください。スタッフがきます。では」
職員は案内を終わらせ部屋を出た。
「せ、先生、今の人の、聞きました?」
「ああ、時空が割れてるって。本当に忘れてしまっているのか?綾瀬君。いや、ちえりさん」
長谷川は、ちえりの視線の前に出て抱きしめ、何度もすまないと涙を流している。その間、ちえりは何の反応も示さず、無言のまま、ただ優しく微笑んでいるだけだった。
「則夫君、これ私の家の合鍵。渡しておく。もうしばらく、彼女のそばにいたいんだ。家に帰って休んでくれ。それとこれは携帯番号。君のも教えてくれ。昨日から走り回って疲れたろう」
「先生。ありがとうございます」
「何かわかったら電話するよ。それから雅也君、君は頭がいいんだ。その頭脳を生かせてほしいな。物理学者はどうかな。なれると私は思う。今度、ゆっくり話したいな」
「長谷川先生、僕の方こそありがとうございます。遊びにいきます」
「楽しみに待っているよ」
施設を後にし、時計を見ると11時過ぎていて24時間以上、雅也といて本当の息子のような会話が徐々にできていることが嬉しく、家に帰したくない気持ちが高まるが、別れがなおさら辛くなることを避けたいと思い、
「一度、家に帰るか?雅也」
「さっきも言っただろ?お父さんを見届けるって。長谷川先生の所へ行こうよ。お母さんのことなら心配ないよ。だって、お母さん僕のことは産む予定なかったのは本当だから」
雅也は、以前、スマホで録音した、杏奈と洋子の会話を聞いてほしいと流した。
《ママはどうしてパパと結婚しなかったの?》
《パパは観賞用よ。お金はないし顔がいいだけ。おかげで杏奈は美人に生まれたでしょ。雅也は計算外》
《お父さんも気が付かないなんて。杏奈がママとお父さんって呼び分けしてることも気が付かない》
《だからいいのよ。あの人はお金を入れてくれる人。パパは連れ歩いても絵になる男。そしてママは何歳になっても美しいと言われる女性であること。杏奈も女を楽しみなさい。ママみたいに》
《うわぁ悪女》
雅也はこの会話を去年知ってから、早く自立したくなり、学校へ行くことを辞めた。もともと頭が良すぎて学校の勉強は高校生レベルに達していてため、先生からも相手にしてもらえず、友達もいなかった。部屋に籠ってパソコンを使ってデザインやソフト開発の勉強をしていたらしい。
「そうだったのか」
「心配なんてしないよ。メッセージにもあったでしょ。帰ってこなくていいって。来年、卒業したら、家を出るつもりだし、長谷川先生の所でアルバイトしながら物理の勉強しようかなとも思うし…」
施設を出てから20分程歩いていた。気が付くと鉄太郎と出会った公園付近で、後ろから鉄太郎の声がしてきている。
「則夫さーん。ぼっちゃーん」
「ぼっちゃんはやめろっつたのに」
鉄太郎は、店に出す料理の材料を買いに出た帰りで、2人を見かけ声をかけてきた。ランチを用意すると言うので、食べてから銭湯へ案内してくれるらしい。そういえば、則夫はこっちの世界にきてから湯舟に浸かってない。せっかくなので息子との思い出作りを兼ねて鉄太郎も交えて行くことにした。
「てっちゃんの店から、あの公園まで遠くないかい?」
「だからよ、じてんしゃ?練習しようと思ってんだ。圭太のお袋さんがくれるって言うから」
「圭太君の。そうだ圭太君のところへも挨拶いかないとな。ちゃんとお礼してないから」
「お父さんは凄いな。僕は15年住んでるけど、友達誰もいないのに、お父さんはこっち来て1週間?10日?経つかどうかで、鉄太郎さんとか、先生とか圭太君?友達できて。お父さんが本当のお父さんだったらいいのにな……ああやっと言えた!」
「雅也……」
銭湯でお互いに体を洗い流しながらの会話で、雅也の思わぬ言葉が則夫はとても嬉しかった。すると、鉄太郎が2人の背中を洗っていて、
「お二人さん、本当の親子じゃないですかい?ほら、鏡を見てみなせぇ。右肩の後ろ、同じようなところにホクロがあるじゃありませんか」
「あ、これはホクロじゃなくて、子供の頃ふざけてたときに、転んで鉛筆が刺さった…」
「同じだ。向こうの世界に帰っても、お父さんと僕は親子だ。忘れないでね」
「忘れるもんか。絶対」
「おいら、お二人みたいな親子になりますよ。美知留の体が良くなったら祝言あげるって、今日の午前中、見舞いに行って約束してきましたよ。則夫さん、それまでこっちにいたら、出て下さいますか?」
「もちろん。喜んで参加するよ。戻ってたとしても祝いの気持ちを送る。迷子仲間として。友人として。てっちゃんなら必ず受け取れると俺は思う」
お腹が満たされ、湯舟に浸かり心地よく、心まで満たされた。もはや大事な友人と言ってもいい鉄太郎と、息子の雅也がいる。迷い込んだ世界の中で幸せを感じることに感謝している則夫だった。
鉄太郎は着替えまで用意してくれて、感謝しつつも大笑いした。なぜなら、
「やっぱり、つんつるてんだなぁ。おいらのシャツとズボンじゃ」
白いシャツにデニムのズボンだが裾が短い。
「いやいや、スーツよりは着心地がいいよ」
「ぼっちゃんも微妙につんつるだ」
同じように、白のシャツにアイボリーのズボンを履いてみたが、短いのでシャツだけ借りてズボンは返すことにした雅也だった。
「だからぁ、ぼっちゃんはやめてって」
「ばいはい、ぼっちゃん」
3人で大笑いした今日のことは、一生の思い出になるだろう。徐に腕時計を外して鉄太郎に、
「てっちゃん、今日の記念に。服と交換だ」
「だ、だめだよ。こんな高価なの」
「いいんだ。てっちゃんに声かけてもらえなかったら、今頃どうなっていたか分からない。大事な時計だからこそ、大事な友達に持っててもらいたい。考えたら、元の世界から身に着けていたものってこの腕時計だけなんだ。記念に残しておきたい」
一瞬、泣きそうな顔になってためらった鉄太郎だが、グッと唇を引き締め、リュックの中から白い布を則夫に渡した。
「則夫さん、おいらも思い出したんだけど、江戸からこっちに来た時、身に着けてたのって着物と、おやじから貰ったこの手ぬぐいだけだったよ。これ持っててほしい。友情の証だ」
「おやじさんの…形見なんじゃ」
「おいら、嬉しいんですよぅ。大事な友達と言ってもらえて。こっちこそありがてぇんですよ。だから、持ってて貰いてぇ則夫さんに」
綺麗に四隅を合わせて、たたんである豆絞りの手ぬぐいを受け取り、
「ありがとう。大事に肌身は出さず持ってるよ」
雅也は心の中で、将来はこの2人のような大人になりたい。則夫の背中を見ながら学びたいと願っていた。
長い時間見ていなかったスマホを見ると、洋子からのメッセージがたくさん届いている。確認すると、読めない文字があり、雅也に読んでもらうと、会社を解雇されたと書いてあるらしい。納谷専務に名刺をもらったことを思い出し、連絡してみることにしたが、電池の残量が少なく雅也のスマホも不十分で、充電が必要になった。雅也が、駅の近くに携帯ショップがあるから、そこで充電したほうが早いと言い、夕方の店の仕込みがある鉄太郎とはその場で別れ、2人は駅の方へと急いだ。
駅へ行く途中で、長谷川から着信があり出てみると、ちえりの荷物の中に資料が見つかったらしい。
『そ…1……の資……、で、条件、夕……、だ』
「先生、すみません、音が途切れて、充電したらまた連絡します」
『そ……と、時空……、今、ち…りが』
電話は切れてしまった。先生はとても重要なことを伝えようとしていたに違いないと焦り、ショップへと急いだ。少し充電してから長谷川に折り返しかけようと思い待つことにしたが、喉が渇いていたので、シップ内に置かれている自動販売機で飲み物を買おうとしたら、横に公衆電話が置いてある。
「雅也、この公衆電話を使いたいんだが、小銭はどれを入れたらいい?」
「これとこれ。こっちの硬貨も使える」
「ありがとう。納谷専務に電話してみるよ。好きな飲み物買いなさい。父さんは水で」
「うん。分かった」
納谷専務は、すぐに電話に出てこう言った。
『連絡してくると思ったよ。君にとっては解雇が一番いいと思ってね。君は自由になって、元の世界へ戻る方法を見つければいいよ』
「納谷専務。もしかして、こっちの吉田則夫の居場所とか知ってるのでは…」
『とにかく、君は自由だ。奥さんにも合わない方がいいな。さっきまで、すごい剣幕で会社に来て、君のこと探してたみたいだよ』
「でしょうね。専務、もう1人の吉田則夫に伝えて下さい。体を大事にして、息子のことも大事にしろと」
『……君も元気で。じゃ』
納谷は、ガラス越しに目をあけたまま病院のベットに横たわっているもう一人の吉田則夫を見つめた。納屋が知る吉田則夫は、会社内で発作的に自殺を図り、早朝だったが、警備員により発見が早く未遂に終わったものの、世間が騒ぐことを恐れ秘密裏に、会社と関連のある病院に運びこんだ。その翌朝、則夫と駅で偶然出会い驚いたが、すぐに別人と分かり様子を見ていたのだった。
事の発端を考えた時に、ホームパーティでの洋子が時折り見せる冷ややかな視線、一見、妖艶で美しく感じるが、夫に向ける視線ではない。どこか寒々とした家庭内の雰囲気が原因ではないかと思った。そして、会社のイメージダウンを避けるためと自殺するまで追い込まれた吉田則夫を解放するため、解雇通知を出したのだ。
医師から回復の見込みはかなり低い、時間の問題だと聞かされている納谷は、
「これで君も自由だ。どこへでも行くがいい……じゃ」
呟くように言葉をかけ、部屋を出てドアをパタンと閉めコツコツコツと足音を響かせながら去って行く。
それは、寝ている吉田則夫の心に納谷の言葉が届いたかのように、涙が一筋流れ落ち、やがて静かに心電図モニターの波形が波打つのをやめた。
携帯ショップで長谷川に電話するがうまく繋がらず、外へ出て駅の前まできたときに、洋子が目の前に立っているが見えた。冷ややかな表情の中で瞳だけが黒々と光を帯びていて恐怖を引き出すほどである。
「お父さん、逃げよう」
雅也が手を引っ張って、駅のホームへ走り出し、改札をすり抜け則夫も同じように後へ続き、停まっている電車に乗り込むと、ドア越しに洋子が別な車両に乗ったのが見えて、杏奈も一緒にいるのを捉えた。
「だめだ、お父さん。お母さん乗ってきた。杏奈も一緒だ。次の駅で降りよう」
「雅也、ちょっと待て。何も悪い事してるわけじゃないんだ。逃げる必要ないよ。話し合おう」
「お父さん、もう一つ録音したのがあるんだ。それを聞いたら、逃げた方がいい理由が分かるよ」
雅也はショップで購入したイヤホンを箱から出して、録音内容を流した。その内容とは、夫が出世ができない場合の保険金殺人計画だった。
「この録音は、ホームパーティがあった後のものだ。あの2人の誤算はね、僕のこと何もわかってないことなんだよ。僕が会話を録音したり、それを何かに利用するなんてこと、これっぽっちも思ってなかっただろうね」
「雅也、君は…」
「僕ね、家族が大嫌いだったよ。物心ついたころから。お母さんは杏奈しか見てなかったし、お父さんは仕事ばっかで、食事もバラバラ、4人で食卓を囲むなんてことない。そんな家が嫌いだったから、早く大人になって家を出たかったんだ。でも、『人を見下してはいけない』って叱ってくれたとき、僕は気づいたんだ。僕も、お母さんや杏奈と同じだったって。だから…」
「わかった、雅也。でも、大丈夫。ちゃんと話し合えば分かり合えるから」
時間は夕方5時を回っている。帰宅ラッシュで混雑した状態の中、あまり身動き取れない。それは、洋子も杏奈も同じだった。次の駅まで、およそ3分。とても長く感じる。とても美しい夕焼け空で、ふと高橋のことが頭に浮かんだ。
隣駅で降りると、どことなく見覚えがある駅で、どこだったか記憶を辿っていると、洋子と杏奈が駆け寄って来たその瞬間、目の前が真っ暗になった。遠くで微かに雅也の呼ぶ声がするが、動こうにも動けず気が遠くなっていく。
《このままでは帰れない》
無意識にそう思った則夫が目を覚ました時、見知らぬ、いやよくよく見ると、洋子の時と同じように、どことなく見覚えのある男が立っているのが視界に入っている。
「あ、目が覚めた?気の毒に。寝てる間なら楽に死ねただろうに」
「あら、薬があまり効かなかったのね」
どこかのビルの屋上に寝かされていたようで、空が遠くまで赤く染まっているのが見え、視線をあちこち移していると、洋子と杏奈が雅也の腕を掴んで立っていて、雅也の口には、猿ぐつわがはめられている。
「雅也!、何してるんだ。あんた達は!」
雅也は腕を振りほどこうともがいて、他の3人はニヤニヤしている。この異様な光景に尋常じゃない恐怖を感じ、雅也を助けようと体を起こすが薬がまだ効いているのか、思うように立ち上がれない。
「ねえ、旦那さん俺の顔、覚えてない?」
覗き込む男は、大学時代に美男子という言葉通り、美しい顔をしていると女子達にもてはやされていた顔をしている。大学の時は、ウエーブのかった髪を肩まで伸ばし左手で額から、かき上げる仕草と、キリリと整えた眉にくっきりした二重の大きな目、高い鼻にシャープな輪郭、細くて喉仏がくっきり出ている首筋、モデル雑誌から出てきたようだと言われていた男だったことを思い出した。年を重ねていても、髪は耳の下までに短くなっているが、美男子は変わらない。
「お、お前は、確か、辻村…」
「そう辻村直樹だよ。思い出してくれたんだ。吉田君」
「なんで、こんなことを…」
「俺と洋子は大学時代からの付き合いで、杏奈は俺の娘だよ。君は真面目しか取り柄がない、つまらない男だけど、一流企業に内定が決まって、その時から俺と洋子の計画が始まった。俺は真面目に働くのが大嫌い。でも子供は育てなきゃならない。だって中絶するにもすぐに金いるし、そんなこと親に言ったら勘当される。だから、無理やりあんたと付き合ってデキ婚させたんだ。出世するようにけしかけてお金をどんどん稼いでもらう予定だった」
「出世どころか、解雇だなんて。理由聞きに行ったけど納谷専務はいないし、他の社員に聞いたら、あなたずっと会社に出てなかったって。もう意味が分からないわ。でも、ピンチはチャンスって言うでしょ。クビになってあなたは自殺。保険金とあの家と土地と車を売って、どこか海外で楽に暮らすことに決めたのよ」
「ママ、私は海外いかないわよ。雅也と違って友達たくさんいるし、彼氏もいるから。保険金の一部を貰って、大学いきながらママみたいに、いい男探すの」
「あら。私の娘らしいわね杏奈」
「パパとお父さんの呼び分けって、そういうことか。でも、俺は本当の吉田則夫じゃない。君たちの吉田則夫は別にいるよ」
ようやく動けるようになった則夫は、雅也を杏奈から引き離し、猿ぐつわを外して逃げようとしたが、揉み合いとなって、なかなか振りほどけない。どうにか抜け出さなければ、雅也が命の危険にさらされる。どうしても、それは避けたい。雅也を守らねば。則夫はふと、長谷川の電話の内容がよぎった。
《先生は最後、何て言おうとした?時空、今、ち…り?!》
則夫は、ちえりが住む施設の職員の言葉を思い出した。
《時空が割れてるわって…》
すると、頭の中に声が響いてきた。
『先輩!こっちだ』
頭上から声がして見上げると、白い霧のような煙のような中から白い手がニュッと出ている。手の甲の親指の付け根に火傷の跡、それは、
「高橋か?、高橋!」
則夫は、揉みあう中、必死で手を伸ばし掴む、高橋だ。間違いない。
「雅也!お前も掴まれ!」
「お父さん!」
則夫は必死で左手を伸ばし、なんとか雅也の左手首を掴んだが、途中で抜けてしまった。名前を呼びながら必死でもう一度、手を伸ばすが、雅也を掴むことはできない。体中が引き裂かれるような痛みが走り気を失いかけ、それでも気力を振り絞り、雅也の姿を追って下を見ると、洋子と辻村、杏奈の他に2人の影が駆け寄って来ているのを見た気がした。
「何か言ってる。お父さん!」
《お父さん?!》
則夫は目をあけた。白い天井と心配そうにのぞき込む和恵と美咲の顔が見える。
「和恵!、美咲!、ここは?雅也は!、痛っ」
頭に強い痛みを感じ、起きようとしたが、仰向けになった。どうやら病室のようで、則夫は状況を把握できないでいる。
「美咲、先生呼んできて。お父さん、気が付いたって」
美咲は涙ぐみながら、病室を出た。和恵がほっとしたように、話し始める。
則夫は葬式の帰りの電車の中、うたた寝しているときに、踏切を無理やり渡ろうとした人がいて、電車の運転士が急ブレーキをかけた際に、倒れて頭を強く打ち救急車で運ばれて、3日間意識不明の状態だったらしい。
「ほんとに心配したんだから。でも良かった」
「ああ、良かった。戻って来られた。けど、雅也が」
「もうすぐ来るわよ」
「え?」
「さっき、駅に着いたって連絡きたから、もうすぐ来るわよ。反抗期っぽいけど、お父さん子だから」
病室のドアが開き、白いシャツにジーンズ姿の雅也が入って来た。
「ま、雅也、君は」
雅也は口元にシッと人差し指をあてて、則夫の横に腰かける。和恵は美咲がなかなか戻って来ないので、ちょっと見てくると病室を出て行った。
「お父さん、驚いた?僕が一番驚いたけど」
雅也は、屋上でもみ合った際に、則夫の手は離れたが、頭の中に『足にしがみつけ!』と声が響いてきて、必死に足にしがみついて気を失い目が覚めると、こちらの世界の自分の部屋にいて、生まれてから今日まで全ての記憶が、走馬灯のように脳内に流れてきたと言う。
「幼稚園の運動会、遠足、学芸会、誕生日のお祝い、お姉ちゃんと大喧嘩、そして家族で山登り。それと入れ替わるように、向こうの世界の記憶が薄らいでるみたい。頭に響いたあの声は、お父さんの話に出てきた高橋さんだったかも」
「ああ、高橋だ。高橋が助けてくれたんだ。いつ、目が覚めたんだ」
「今朝だよ。記憶が流れてきた後、自然とね、お母さんとお姉ちゃんって呼べたんだ。向こうの世界の感情とは違う、親近感っていうのかな。懐かしくてうれしい感じ?僕、生まれて初めて、心から嬉しいと感じたよ」
則夫は雅也を優しく抱きしめた。そして、思い出す。
高橋に手を引かれ、体中の痛みを感じていた時、雅也が生まれてから今日までのことを、昔の8mmフィルムの映像のような流れで記憶が入ってきたこと。そして、
「お父さん。一つわかったことがある。何のためにあの世界に行ったのか。雅也、お前を迎えに行ったんだよ。きっとそうだ。迷子は俺に『ある』ということを気づかせ感謝することを教えてくれたんだ」
「なに教えてくれたって?もう美咲ったら、お父さんの意識が戻って、嬉しくて泣いちゃって」
「だって、ウザイっ言ったままだったから、心苦しかったんだもん」
ニコニコしながら病室のドアを開ける和恵と、涙目の美咲が入ってくるのを見て、喜びで胸が一杯になった。
「お父さんは気にしてないから。美咲、和恵もありがとう」
「なあに、あなたったら。今まで母さんって呼んでたのに、頭ぶつけてから和恵って。それより、先生もうすぐ来て下さるって。目覚めて普通に言葉が交わせるなら大丈夫だろうと言ってたわ」
数日間、経過観察した後に、自宅に戻った則夫は、懐かしさと嬉しい気持ちで、家の中を見て回り、変わっていた場所が一つあった。物置と書斎があった場所は雅也の部屋で、2階の寝室は少し狭くなっている。その横が物置と書斎に変わっていた。変わっていないのは、高橋がいないこと。亡くなったまま。
《高橋、お前に会いたいよ。会って礼が言いたい。あの世界から助けてくれたお前に》
雅也は、洋子との記憶が薄れ無くなってきていると言っていたが、則夫は鮮明に覚えている。この記憶はいつなくなるのか、などと考えていたら、鉄太郎と交換した手ぬぐいを思い出した。病院に運ばれたときは喪服で、鉄太郎に借りた服ではなかったが、腕時計もない。鞄の中を見ると…。
「あった!てっちゃん。ありがとう。戻って来れたよ。雅也連れて戻って来た。迷子になって本当の幸せに気づけた。どうかこの気持ちが、もう一つの世界の鉄太郎に届きますように……」
「先生、見ましたよね。則夫さんとぼっちゃん、あ、いけね。雅也くん。雲の切れ目に入って行きやしたね。元の世界にきっと帰れましたよね」
「ああ、鉄太郎。君の友人、迷子仲間は、きっと無事に帰れたはずだよ。綾瀬君は素晴らしい物理学者だ。彼女が、指さしたところは時空が割れる。半信半疑で来てみたら、女2人に引っ張られていく雅也君と、男におぶさっている則夫君が見えてたから、後を追ってみたら……。則夫君と雅也君が吸い込まれていくのを見た。大丈夫だ。綾瀬君は病気を抱えながらも物理学者で、条件がそろったときに割れて、パラレルワールドが現われるんだ。その条件は綾瀬君でなければ分からない…でも、次に指をさしたら…私が…なぁ鉄太郎。私の養子になりなさい。そうすれば戸籍ができる。だろ?」
長谷川と鉄太郎は2人の無事を祈りながら、夕日が沈み星がきらめくまで空を見上げていた。
洋子たち親子は鉄太郎と長谷川が駆け付けたことで、その場を逃げ出し消息不明のままである。
もう一つの世界での則夫の記憶は、そのまま消えることはなく月日が流れ、時々、鉄太郎と出会った公園や、長谷川の好物の和菓子屋に行ったりしても、会えるはずもなかった。ただ、もしかしたら、鉄太郎と繋がりがあるのではと思わせる場所を1つ見つけることができた。それは、仕事に復帰したとき、高橋の仏前に手を合わせたくて、家を訪ねた際に、父親が気に入っている居酒屋が近くにあって、誘われ連れて行ってもらった店の名前が『鉄則』という名で、初代の名前が鉄太郎というのだ。名物がきんぴらで、初代鉄太郎の友人の好物をずっと受け継いできているらしい。
さっそく食べてみると、長谷川の家で食べたあの味だった。ちなみにカティサークも置いていて、女性に人気があるとのこと。
《てっちゃん、会えたね。結婚して子供も生まれたたんだ。おめでとう。おめでとう》
心の中で鉄太郎に届くように念じながら呟き、
「お父さん、この店に連れて来てくれて、ありがとうございます。とても気に入りました。このきんぴら、最高です!」
「よかった。守もこの店のきんぴらで酒を飲むのが好きで…」
頭の奥の方に『食べてくださるお人の喜ぶ顔を浮かべながら作るんでぃ』と鉄太郎の声を感じる則夫だった。そして、この店の常連客になったのは言うまでもない。
━20年後━
則夫は病の床に伏した。余命宣告され、残された時間を家族と共に過ごしたいと要望し家で穏やかな時間を過ごしている。思い出すのは、長くて短い日々を過ごしたパラレルワールド。鉄太郎や長谷川先生のこと。恐ろしいこともあったが、その分、得たことの方が大きい。
雅也は、こっちの世界に戻ってきても成績優秀で物理の方へ進学、大学で博士号を取得、今は大学教授を目指し研究の日々を送っている。現在も独身。
美咲は、大学で小学校の教員免許を取ったものの学校教師にはならず、大勢の子供よりはマンツーマンで教える方が向いていると気づき、家庭教師専門の会社に就職。そこで出会った男性といわゆる職場結婚をして二児の母となり、則夫はおじいちゃんになった。和恵との仲も変わらず、今回の病気のことでも、笑いが病気の一番の薬と言い出し、楽しく笑える工夫をしてくれる。何とも前向きで明るい我が家にする妻を誇りに思う則夫だった。
もう一つの世界、パラレルワールドの話は、家族にも話さず、1人だけ、高橋の代わりに話した人物がいる。それは、高橋が愛している律子で、話したのは、こっちの世界に戻って仕事復帰してからのこと。洋子たちに囲まれ揉み合ったとき助けてくれた高橋に、お礼を言いに亡くなったビルを訪れたときのこと。初めて来たときは、施錠され屋上まで上がれなったが、今回は、エレベーターは動いていなかったが、施錠されてはなく、屋上へ出ることができた。洋子たちに囲まれたビルの屋上と同じだった。
「やっぱり!課長さんでしたか」
声がする方を向くと、律子が立っていた。
「課長さんによく似た人が、このビルに入って行くのが見えたので追ってきました」
律子は息を切らせながら、このビルがいずれ取り壊され駐車場になるらしいこと、キャビンアテンダントを辞めて、翻訳の仕事の勉強をすることに決めたこと。近くに古い一軒家を借りる予定だと話した。
「本当に小さい庭ですけど、れんげ草の種を植えて、来年の春になったら、高橋君のご両親呼ぶつもりです。課長さんもぜひ来てくださいね」
少し寂しそうに優しく微笑む彼女は、とても美しい佇まいで、恋をしないともったいない気がして、
「今後もできること相談にのったりするよ。例えば新しい恋とか…。ま、今は関係ないか。実は、高橋がワクワクするような経験したんだよ。聞いてもらえるかい?」
一通り話し終えると、律子は目を輝かせながら、まるで彼がそばにいるみたいだと言った。
「お父さん、眠っているの?お母さんは買い物?」
「うん。薬が効いてるみたいだよ。母さんは買い物。鍋パーティって自分で言っといて肉買うの忘れたって。俺は徹夜明けでアパートに寄らず、大学から直行。あ、そういえば、親父と同じくらいの年のひとかな?物理に詳しい人でさ、やたら眼光が鋭くて、長谷川っていったけ?親父の知り合いみたいなんだけど、元気か?って聞かれたから、元気ですって言ったんだけど、俺も会ったことがあるような……」
「徹夜ばっかりしてるから、寝ぼけたんじゃないの?お父さん、物理とか無縁でしょ?あんたみたいな天才がなんで生まれたんだろって、国立受かったときも、今も言われてんのに。あ、うちの旦那、息子迎えに行ってから来るから」
「また、わちゃわちゃみんなそろって飯か。集まるのが好きな家族だよな」
「お父さんがよく言ってでしょ?絡まった糸みたいにこんがらがってのがいいんだって。ほぐしちゃうとバラバラになるって」
「あーそうですね。はいはい」
美咲と雅也の会話が遠くでする。
《ああ、俺は死ぬのかな。死ぬのかな。長谷川って長谷川先生だな。てっちゃんも一緒かな。会えないのが残念だけど、まぁいいや。心穏やかだ。痛みも何もない。幸せだ。ありがとう。和恵もありがとう。みんな、みんなありがとう》
則夫はとても暖かな気持ちに包まれて行くのを感じながら、心の奥底に眠っている正直な気持ちを吐き出した。もし、神様が本当にいるのなら、
《おい。高橋お前に会いたいよ》
一瞬、何かに吸い込まれ体が軽くなった。ゆっくり目を開けると、ビルの屋上に立っていて、目の前に高橋が座っている。夕焼けが美しく、オレンジから朱色、薄い紫色からピンクという具合に天然のグラデーションが素晴らしい。
「ここか?高橋の秘密基地」
高橋が振り返るが則夫が分からず、誰だという表情をしている。
「俺だよ。吉田則夫」
「え?先輩?本当に?ちょっと老けたんじゃないですか。どうしたんすか」
「ああそうだよ。年取って病気になって、さっき死んだばかりだ。ここは美しい景色が見れる場所だな」
「死んだって?!え?」
「お前は死んだこと覚えてないのか?」
「あ、そうだった。柵の外にゴミが引っかかって、柵越えて、取ろうとして落ちたんだっけ」
「なんだよ。どんくさい事故か納得だ。お前が死んで大変だったんだ。このビルは20年前に取り壊されて、駐車場になっている。俺はな、高橋、お前に話したいことが山ほどあるんだ。今までは、聞く側だったが、今度は聞いてもらうぞ!。時間もたっぷりあることだし。さぁ行くぞ。あの世とやらへ」
「20年!そんなに経ったなんて。そういえば僕はなぜずっとここに…」
「なぜとか、そんなことはどうでもいいじゃないか。神様とやらは、いるみたいだな。最後にお前に会いたいと願ったらここへ来た。どうやらお前を迎えに来させたのかもな」
「僕を迎えに?」
「ああ、そうだよ。迎えに来た」
「……先輩。ここが誰にも教えてない秘密基地です。ああ…もう今はないのか。でも、いいや。先輩が迎えに来てくれるなんて、僕のこと忘れずに来てくれるなんて嬉しいです。ありがとうございます先輩!」
「礼を言いたいのは、俺の方だ」
「え?」
「まぁ、ゆっくり話してやるよ。さぁ!逝こう!」
「はい!先輩!」
人懐っこい笑顔で座って見上げている高橋を、立ち上がらせると肩を組み、柵をすり抜け夕焼けに向かって歩きながら、その姿は空と一体になったかのように溶けていき、楽しく笑い合う声がいつまでも響いている。
END
「すごいですね。学者さんって…。私は、大学まで行かせてもらいましたが、何を学んだのか覚えてないし、海外を渡る商社マンに憧れたのに英語もできなかった。それに、てっちゃんや高橋のように夢中になれるものもありません。羨ましいなって思います」
「則夫君、君は今、夢中になっているじゃないか」
「え?」
「元の世界に帰りたい。奥さんと娘さんに会いたい。その必死さが鉄太郎を引き寄せて、私と巡り合い、私の話に夢中になっているじゃないか。それに、君は自分に何も無いみたいな言い方するけど、鉄太郎の使う文字が『いろは歌』だとか、200年から300年昔の人間だとか予測できるのは、知識がないとできないんだよ」
「それは、誰でもっていうか、皆知ってることで…たいしたことでは」
「私の物理も同じ、たいしたことないんだよ。いいかい?大事な話をしよう。鉄太郎もよき聞くんだぞ。たいしたことがない事。これは可能性なんだ。可能性は無限にある。選択するというオマケ付きで。何を選んでもいいし、選ばなくてもいい。自由なんだ。鉄太郎が親父さんの料理を受け継ぐ。これも選択だろ。料理ができる可能性があるから、料理をしたんだ。結果、できたんだろ?料理じゃなくて、大工だったかもしれないだろ。則夫君が知らないだけで、則夫君はたくさん持ってるよ。趣味趣向だけじゃない。内面的に引き寄せる力だとか、人とのご縁とか。形が違うだけで目に見えないだけで、君は持ってる。もっと大事なことは、信じること信じ抜くことだ」
二人、黙って頷いた。特に則夫は長谷川の言葉に勇気づけられた。
信じること。信じ抜けば必ず道は開ける。帰れる。想像するだけで心躍る気持ちになりながら、長谷川の話を聞いていた。
「ほんとに泊まっていかないのかい?」
「はい。お世話になりたい気持ちはありますが、今日はこれで」
並行宇宙とか相対性理論とか難しい話は省いて、推測として長谷川が言うには、少年Bと鉄太郎や則夫のように、別な世界に行くには、時空の亀裂が開いていてふらついたときに落ちたのではないかといことだった。
「
この度は、「おい高橋、お前に会いたいよ。」に、ご興味を持ってくださり、本当にありがとうございます。人を思いやる心と、自分の心を大事にすることをテーマに、ちょっと不思議な感じで書いてみました。映画を見ている感覚で、読んでくださいますと幸いです。