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恋する君へ

作者: にっしー

自身の思い出は、本当に正しい記憶の中にあるのか。

橘颯太は、大学四年の秋、カフェ「アンフィニ」で彼女に出会った。


 その日、颯太は就職活動の合間を縫い、気分転換にカフェで一息つこうとしていた。静かな空間でコーヒーを飲みながら、持参したビジネス書を広げる。すると、ふと目の前の席に視線が留まった。


 そこに座っていたのは、一冊の古びた本を静かに読んでいる女性だった。


 彼女は、まるで時間の流れが彼女だけ違うかのように、ゆっくりとページをめくっていた。長い黒髪が肩に落ち、白く細い指先が紙の端をそっとつまむ。その姿に、颯太は思わず見惚れた。


 「その本、面白いんですか?」


 気づけば、声をかけていた。


 女性は驚いたように顔を上げると、ゆっくりと微笑んだ。


 「……ええ、とても。」


 柔らかな声だった。


 「すみません、つい気になってしまって。」


 彼女は少し考える素振りを見せると、本の表紙を軽く撫でた。


 「綾瀬美琴です。」


 「橘颯太です。」


 「この本、好きなんですか?」


 「いえ、正直言うと、あまり読書は得意じゃなくて……。」


 美琴は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにくすりと笑った。


 「じゃあ、どうして?」


 「なんというか、あなたがあまりに熱心に読んでいたから、気になってしまって。」


 美琴はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


 「この本……記憶に関する話なんです。」


 「記憶?」


 「忘れたくない記憶と、忘れたほうがいい記憶。あなたなら、どちらを選びますか?」


 突然の問いに、颯太は一瞬言葉を失った。


 「……それは、難しい質問ですね。」


 美琴は微笑んだまま、視線を本に落とした。


 「そうでしょう?でも、私は……忘れたくないほうを選びます。」


 その答えに、颯太は胸がざわつくのを感じた。彼女の言葉には、何かしらの確信があった。


 その日から、颯太は美琴と頻繁に会うようになった。


 二人の交際は順調だった。


 颯太は就職活動の合間を縫って美琴と過ごす時間を大切にし、美琴もまた、彼を温かく見守っていた。


 「ねえ、颯太くん。今日はどこか出かけない?」


 休日、美琴は珍しく自分からデートの誘いをしてきた。


 「いいね。どこ行きたい?」


 「うーん……ちょっと遠出してみたいな。」


 そうして、二人は郊外にある静かな湖へドライブに出かけた。


 湖のほとりに座りながら、美琴は颯太の肩にもたれた。


 「こんなふうに、ずっと一緒にいられたらいいのにね。」


 「……ずっと一緒にいようよ。」


 颯太がそう言うと、美琴は微笑んだ。


 だが、その笑顔の奥に、ほんの一瞬、何か影がよぎった気がした。


 ある日、颯太は美琴のことをもっと知りたいと思い、ふと彼女の話すことに注意を向けるようになった。


 美琴は普段は優しく微笑むが、自分の過去についてはほとんど語らない。


 「美琴は、小さい頃どんな子供だったの?」


 颯太が何気なく尋ねると、美琴は一瞬、表情を固くした。


 「……普通、だったと思うよ。」


 言葉を選ぶようなその態度に、颯太は少し違和感を覚えた。


 そんな折、颯太は偶然、美琴の部屋に飾られた古い写真を見つけた。


 写真には、幼い美琴とその家族と思しき人々が映っていたが、その中の一人の顔だけが、不自然に黒く塗りつぶされていた。


 「美琴、これは?」


 尋ねると、美琴は一瞬驚いたような表情を見せた後、静かに写真を手に取った。


 「……家族の写真。でも、もうみんな遠くにいるの。」


 その言葉には、どこか寂しさと、隠された何かが含まれているようだった


 それから数日後、美琴の様子がどこかおかしくなった。


 颯太と一緒にいるとき、ふと遠くを見つめるような仕草が増えた。何か考え込んでいるようだった。


 「美琴、大丈夫?」


 颯太が心配そうに尋ねると、美琴は驚いたように微笑んだ。


 「うん……ごめんね、少し考え事をしてたの。」


 それ以上は何も言わなかったが、その表情にはどこか怯えたような影が差していた。


 そしてある夜、颯太のスマホに美琴からのメッセージが届いた。


 『助けて』


 短いその言葉を見た瞬間、颯太の胸は強く締め付けられた。


 慌てて美琴に電話をかけるが、応答はない。


 不安を募らせながら、彼は美琴の家へと向かった。


 美琴の家のドアを叩いても、応答はなかった。


 鍵はかかっておらず、そっと扉を開けると、暗闇の中から微かなすすり泣く声が聞こえた。


 「美琴?」


 奥の部屋へ進むと、床に座り込んだ美琴がいた。彼女の手には、あの写真が握られていた。


 「どうしたんだ?」


 美琴は涙を拭うこともせず、かすれた声で呟いた。


 「……私、忘れたくなかったの。でも……忘れなきゃいけなかったの。」


 彼女の過去に何があったのか。


 そして、その真実を知ったとき、颯太はある決断を迫られることになる――。


 美琴は静かに涙を拭いながら、床に落ちた写真を拾い上げた。その指先は震えていた。


 「颯太くん……私、ずっと隠していたことがあるの。」


 彼女の声はかすれていたが、何か決意を秘めていた。


 颯太は息を呑み、彼女の言葉を待った。


 「この写真に写っている人たち……私の家族なんだけど、そのうちの一人はもうこの世にいないの。」


 彼女の声が震えた。


 「それが……誰なのか、知りたい?」


 颯太は深く息を吸い込み、静かに頷いた。


 美琴は震える指で写真を指し示した。その場所には、不自然に黒く塗りつぶされた人物の姿があった。


 「この人……私の姉だった。」


 颯太は眉をひそめた。


 「だった……?美琴の姉は……?」


 美琴はしばらく沈黙し、そしてゆっくりと口を開いた。


 「私が……殺したの。」


 その言葉に、颯太の身体が硬直した。


 「……何、だって?」


 美琴はかすかに微笑んだ。その笑顔には、どこか壊れたような狂気が宿っていた。


 「本当に覚えていないの。ずっと、私は忘れたくなかった。でも、あのとき……あの夜、私の記憶は……。」


 彼女は言葉を詰まらせた。


 「ある日、姉が私の部屋に来たの。いつも優しい姉だったのに、その日は違った。何かが……おかしかったの。」


 美琴は震える手で自分の腕をさすった。


 「私は寝ていたはずなのに、ふと目を覚ましたら……姉が私の顔を覗き込んでいたの。」


 「姉は、笑っていた。でも、その目は……まるで別人のようで……。」


 颯太は冷たい汗が背中を流れるのを感じた。


 「その瞬間、私の記憶は途切れた。そして気づいたら、姉は血だまりの中で倒れていた……私の手には、ナイフが握られていたの。」


 部屋には静寂が落ちた。


 颯太は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。


 「それ以来、私はずっと思い出そうとしていた。何が本当で、何が嘘なのか。でも……。」


 美琴は目を伏せた。


 「誰も、私の言うことを信じてくれなかった。」


 彼女の言葉には、深い悲しみと孤独が滲んでいた。


 「だから、私は忘れようとしたの。でも、忘れることなんてできないの……だって……。」


 彼女の肩が小刻みに震えた。


 「だって、姉は今でも、私を見ているから。」


 その言葉を聞いた瞬間、颯太の背筋に戦慄が走った。


 「……美琴、それはどういう意味?」


 美琴はゆっくりと顔を上げた。


 「私の部屋の鏡に映るの。夜になると、姉がそこにいるの。」


 彼女はふっと笑った。


 「ずっと……私を見ているの。」


 颯太の鼓動が早くなった。部屋の空気が急に冷たく感じられた。


 「ねえ、颯太くん。」


 美琴はゆっくりと彼の手を握った。その手は氷のように冷たかった。


 「私、おかしいのかな?」


 颯太は何かを言おうと口を開いたが、次の瞬間、部屋の隅で何かが軋む音がした。


 ギシ……ギシ……。


 彼はゆっくりと視線を向けた。


 そこには、大きな鏡があった。


 そして、その鏡の中を覗こうとしたら

 「私の部屋の鏡に映るの。夜になると、姉がそこにいるの。」


 彼女の震える声が、不穏な空気をさらに濃くする。


 「……見間違いじゃないのか?」


 颯太は努めて冷静に尋ねたが、自分の声がわずかに揺れているのを感じた。


 美琴は微笑んだ。その微笑みには、何か確信めいたものがあった。


 「見間違いなら、どれほど楽だったか。」


 彼女は立ち上がり、ゆっくりとクローゼットの端にある大きな姿見の前に歩み寄る。


 「見て……。」


 美琴は震える指で鏡を示した。颯太は恐る恐る視線を向ける。


 そこには、美琴と自分の姿が映っているだけだった。


 「何も映っていない……。」


 そう呟いた瞬間、美琴が鏡に手を伸ばした。


 すると、鏡の中の美琴が微かに微笑んだ。


 颯太は思わず息を呑む。


 「……今、動いた?」


 美琴はそっと目を伏せると、静かに言った。


 「そう。姉は、鏡の中にいるのよ。」


 ぞわりと鳥肌が立つ。何かが、確実におかしい。


 美琴はゆっくりと振り返り、颯太を見つめた。


 「ねえ、颯太くん……試してみない?」


 「試すって、何を?」


 「あなたも、鏡に触れてみて。」


 その提案に、颯太は迷った。美琴の表情は真剣で、ほんの少しも冗談には見えなかった。


 彼は意を決して、ゆっくりと鏡に手を伸ばす。


 指先が鏡に触れた瞬間、ひやりとした感触が広がった。


 次の瞬間——鏡の中の自分が、微かに笑った。


 「嘘だろ……?」


 颯太の背筋が凍る。


 鏡の中の自分は、わずかに口角を上げると、ゆっくりと首を傾げた。


 そして、美琴の背後から、別の誰かが現れた。


 「……!」


 鏡の中の『それ』は、黒髪の長い女だった。


 彼女の顔は影に隠れ、はっきりと見えない。


 美琴は、そっと呟いた。


 「ほら、姉がいるでしょう?」


 颯太の喉が乾いた。


 何かが、確実にここにいる——。


 だが、それはこの世界の存在ではない。


 「やめろ、美琴!」


 彼は美琴の腕を掴んだ。しかし、美琴はゆっくりと鏡の中に手を伸ばしていく。


 その瞬間——。


 鏡の中の影が、美琴の手を掴んだ。


 美琴が目を見開き、颯太のほうを振り返る。


 「……助けて。」


 鏡の中から、美琴が引きずり込まれようとしていた。


 颯太は必死で彼女の手を握る。しかし、見えない力が彼女を鏡の中へと引き込もうとする。


 「離さない……!」


 必死に抵抗する颯太。


 しかし、美琴はゆっくりと鏡の向こうへと消えていく——。


 そして、鏡の中の『影』が、美琴の形を取る。


 ——もう一人の美琴が、こちらを見つめて微笑んだ。


 「ねえ、颯太くん……次は、あなたの番よ。」


 部屋に響く、不気味な笑い声。


 颯太は息を呑み、後ずさる。


 ——鏡の中で、美琴が入れ替わった。


 そして、部屋の中にはもう、美琴ではない『何か』が立っていた。

----------

颯太は、美琴の家に足を踏み入れた瞬間、奇妙な違和感を覚えた。湿った空気が肌にまとわりつき、奥から微かに漂う鉄の匂いが鼻をついた。


 玄関の扉を閉めると、家の奥からかすかな気配を感じた。


 「美琴?」


 呼びかけるが、応答はない。だが、確かに誰かがそこにいる。


 颯太は慎重に廊下を進み、美琴の部屋の前に立った。ゆっくりとドアを押し開けると、部屋の中央に彼女は座り込んでいた。


 床には散らばった写真。どれも美琴の幼少期のもののようだった。しかし、全ての写真には奇妙な違和感があった。


 「美琴、大丈夫か?」


 颯太が声をかけると、美琴はゆっくりと顔を上げた。その表情はどこか放心したようで、彼女の瞳は遠くを見つめていた。


 「……覚えてる?」


 美琴の声は掠れていた。


 「何を?」


 美琴は震える指で、一枚の写真を拾い上げた。それは、彼女ともう一人の少女が写っているものだった。しかし、もう一人の少女の顔は黒く塗りつぶされていた。


 「これ……私の姉よ。」


 「姉さん?」


 今まで美琴が家族について語ることはほとんどなかった。彼女の過去に関する話題を避けるようにしていたのは知っていたが、姉がいたという話は一度も聞いたことがなかった。


 「でも、おかしいの。私、姉の顔を思い出せないの。」


 美琴は混乱したように呟いた。


 「ずっと忘れちゃいけないって思ってた。でも……どうしても思い出せないのよ。」


 写真を見つめる美琴の瞳が揺れていた。


 「それに……」


 彼女は顔を伏せ、震える声で続けた。


 「時々、鏡に映る私が……違うの。」


 その言葉に、颯太の背筋が凍った。


 「違うって……?」


 「私、ずっと感じてたの……。私の記憶の中にいる‘私’と、鏡に映る‘私’が違う気がするの。」


 颯太は静かに息を飲んだ。


 「……美琴、それは気のせいじゃないのか?」


 美琴は首を振った。


 「いいえ。確かに違うのよ。」


 彼女の声は震えていた。


 「私が見ている私じゃない。私じゃない‘誰か’が、そこにいるの。」


 颯太は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。部屋の静寂が耳に痛いほど響く。


 すると、美琴がふと立ち上がった。


 「……確かめてみる?」


 彼女は、部屋の片隅に置かれた姿見に視線を向けた。


 「鏡を?」


 美琴は静かに頷いた。


 颯太の胸に、説明できない不安が広がる。


 美琴はそっと鏡の前に立ち、颯太を見つめた。


 「私が、映ってる?」


 彼は鏡を覗き込んだ。


 そこには、美琴と自分の姿があった。


 だが——。


 鏡の中の美琴は、微笑んでいなかった。


 現実の美琴が困惑したような表情を浮かべているのに対し、鏡の中の彼女は冷たい目でじっとこちらを見つめていた。


 「……美琴?」


 その瞬間、鏡の中の美琴がゆっくりと口を開いた。


 『覚えてる?』


 まるで、美琴自身が発したかのような声だった。


 だが、美琴の唇は動いていなかった。


 颯太の心臓が激しく鼓動を打つ。


 鏡の中の美琴が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。


 それは、鏡の表面を突き破るように——。


 颯太は、息を呑んだまま、動くことができなかった。

----------

鏡の中の美琴が、ゆっくりと手を伸ばした瞬間、颯太は本能的に身を引いた。


 しかし、彼の目の前でその手が鏡を突き破ることはなかった。ただ、そこに映る美琴が動いたのだ。


 ——現実の美琴とは、異なる動きを。


 「颯太……?」


 現実の美琴が震える声で彼の名を呼ぶ。


 「おい……これ、どうなってるんだ?」


 鏡の中の美琴は、現実の美琴とは異なる口の動きをしながら、冷たい目で颯太を見つめている。口元は微かに開き、声を発した。


 『おかえりなさい』


 まるで、ずっと待ち続けていたかのように。


 颯太の背筋が凍りついた。鏡に映る美琴は、微笑んでいた。しかし、その微笑みは、先ほどまでの美琴のものとは違っていた。


 「美琴、これは……?」


 美琴は、何かを思い出そうとするように鏡を凝視した。


 「私……何か、忘れてる……?」


 鏡の中の美琴が、ゆっくりと首を傾げた。そして、かすかに笑いながら、静かに唇を動かした。


 『あなたは思い出さなくていいの』


 瞬間、部屋の空気が重くなった。


 ——ドクン。


 颯太の心臓が強く脈打つ。何かが、強く脳裏を締め付けた。


 「ダメだ、美琴。ここにいたら……」


 彼は美琴の手を取ろうとした。しかし、その手は美琴のものではなかった。


 ——冷たい。


 手の感触が、氷のように冷たかった。


 颯太は驚き、思わず手を引いた。視線を上げると、美琴は確かに目の前にいた。


 だが。


 鏡の中の美琴は、二人を見下ろしながら、まるで別の存在としてそこにいた。


 『もう遅いのに……』


 その瞬間、鏡がひび割れた。


 ——パリンッ!


 鋭い音が部屋に響くと同時に、美琴が突然頭を抱えて倒れ込んだ。


 「美琴!」


 颯太は慌てて彼女の肩を支えた。美琴の息は荒く、顔色が真っ青だった。


 「思い出しちゃいけない……思い出しちゃ……」


 美琴は苦しげに呟く。


 颯太はどうすることもできず、美琴の肩を揺さぶった。


 「美琴!大丈夫か!?」


 しかし、美琴の意識はすでに朦朧としていた。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。


 ——ピンポーン。


 こんな時間に、誰が?


 颯太は一瞬の迷いを振り払うようにして、玄関へと向かった。


 扉の向こうに立っていたのは、一人の男だった。


 「すみません、この家の者ではないのですが……。」


 男は礼儀正しく頭を下げると、颯太をじっと見つめた。


 「少し、お話できますか?」


 颯太は警戒しつつも、男の表情がどこか真剣だったため、思わず頷いてしまった。


 「美琴さんのことについて、お伝えしなければならないことがあります。」


 男の言葉に、颯太の心臓が跳ね上がった。


 「彼女は……本当に、生きているのですか?」


 ——ドクン。


 颯太の頭の中で、何かが弾けた。


 その時、背後から美琴のかすれた声が聞こえた。


 「……颯太、行かないで。」


 振り返ると、そこには美琴が立っていた。しかし——。


 その目には、先ほどとはまるで違う何かが宿っていた。


 ——彼女は、本当に‘美琴’なのか?

----------


玄関の扉が重く軋む音を立てた。目の前の男は、無表情で颯太を見つめていた。その瞳には、何かを探るような、確信めいた光が宿っている。


 「美琴さんが本当に生きているのか。……それを知りたくありませんか?」


 男の言葉に、颯太は息を呑んだ。背後では、美琴が静かに立ち尽くしていた。その姿が、妙に現実離れしているように思える。


 「どういう意味だ?」


 男は懐から古びた写真を取り出した。そこには、美琴とそっくりの少女が写っていた。しかし、違うのは——。


 「これが、彼女の‘前’の姿です。」


 写真の中の少女は、明らかに現在の美琴よりも年上に見えた。しかし、よく見ると美琴と瓜二つである。


 「……これは?」


 「美琴さんの本当の姿ですよ。」


 男は静かに呟いた。


 「彼女は、何度も繰り返しているのです。」


 颯太は頭が混乱し、男の言葉をすぐには理解できなかった。


 「繰り返す……?」


 「彼女は、‘ここ’に閉じ込められた存在なんです。」


 男は写真をそっと差し出した。


 「あなたは、まだ気づいていないのかもしれませんが……この家に入った瞬間、あなたもその輪の中に組み込まれてしまったのです。」


 その言葉に、背筋が冷たいものが走る。


 「何を言ってるんだよ。美琴はここにいるじゃないか。」


 颯太は振り向いた。


 しかし、そこにいたのは、美琴ではなかった。


 ——否。


 美琴の‘形をした何か’だった。


 彼女は確かに美琴の顔をしていた。だが、その表情は無機質で、さっきまでの人間らしい温もりが完全に消えていた。


 「颯太……」


 美琴の声が、低く響いた。その声は、まるで遠くの水底から聞こえてくるようだった。


 「一緒に……帰ろう?」


 その瞬間、颯太の視界が揺らぎ、過去の記憶がフラッシュバックのように押し寄せてきた。


 ——“私はね、ずっと待っていたの”


 ——“ここで、何度も、何度も”


 目の前の美琴が、ゆっくりと手を伸ばす。


 「待って……いたの?」


 気づけば、美琴の手が、颯太の頬に触れた。


 ——冷たい。


 だが、その感触とともに、颯太の意識が深い霧の中へと沈んでいく。


 男の声が、遠のく意識の中で聞こえた。


 「彼女は、‘ここ’に縛られている。そして、あなたも……」


 目を閉じる直前、颯太は最後に美琴の瞳を見た。


 その瞳は、悲しげに揺れていた。


 そして——。


 彼の視界は、暗闇に溶けた。


闇の奥から、微かな囁きが聞こえた。


 ——颯太……。


 その声は、美琴のものだった。


 意識の底に沈んでいた颯太は、かすかに目を開けた。だが、目の前に広がる景色は、先ほどまでいた部屋ではなかった。灰色の空、ひび割れた地面、そして朽ち果てた廃屋が並ぶ異様な空間だった。


 「……ここは、どこだ?」


 自身の声が、やけに遠く響く。


 ゆっくりと身を起こすと、目の前に美琴が立っていた。だが、彼女の表情は曇り、一歩も近づこうとしない。


 「美琴……?」


 彼女は、震える声で答えた。


 「ここは……『境界』。私がずっといた場所。」


 颯太の背筋が凍った。彼はここが異常な空間であることを理解し始めていた。


 「なんで俺まで……?」


 美琴はゆっくりと俯き、手を握りしめた。


 「颯太が……私を見つけてしまったから。」


 その言葉の意味を考える間もなく、周囲の景色が揺れ始めた。遠くから、誰かの足音が近づいてくる。


 ——ガシャン。


 鉄を引きずるような音とともに、影が姿を現した。それは、顔のない黒い人影だった。ひとつ、またひとつと、ゆっくりと増えていく。


 「颯太、逃げて!」


 美琴の叫びと同時に、影が一斉に襲いかかってきた。


 颯太は反射的に走り出した。荒れ果てた廃屋の間を駆け抜けながら、何度も振り返る。しかし、影たちは速度を増しながら、確実に彼を追っていた。


 「くそっ、出口は……!」


 足元が崩れ、颯太は転倒した。


 地面に叩きつけられた衝撃で、頭がクラクラする。その隙に、影のひとつがすぐそばまで迫っていた。


 ——終わる。


 そう思った瞬間、何かが彼を覆った。


 次に目を開けたとき、彼は元の部屋に戻っていた。


 だが。


 目の前には、美琴の姿がなかった。


 「……美琴?」


 彼女の名前を呼ぶが、返事はない。部屋の中は静まり返っていた。


 そして、机の上に、一枚の写真が残されていた。


 それは、美琴の写真。


 その裏には、ただ一言——。


 『迎えに来て』


 颯太は震える手で写真を握りしめた。その文字——『迎えに来て』——が、まるで血のように焼き付いて離れない。


 「美琴……どこにいるんだ?」


 部屋は静寂に包まれていた。先ほどまでの異世界のような風景は跡形もなく消え、まるで何事もなかったかのような現実が広がっている。しかし、颯太の脳裏には、あの黒い影、そして美琴の悲しげな表情がこびりついていた。


 彼はゆっくりと立ち上がると、ふと部屋の隅に目を向けた。そこには見覚えのない扉があった。


 「こんな扉、あったか?」


 疑念を抱きながらも、彼は引き寄せられるように扉へと歩み寄った。取っ手に触れると、驚くほど冷たい。まるでこの扉の向こうが、現実ではないかのように。


 ギィィ……。


 重く軋む音を立てて、扉が開いた。


 ——そこは、暗闇だった。


 いや、違う。目が慣れると、うっすらと光が差し込む細い廊下が続いていた。壁には古びた写真が飾られている。そのどれもが、見覚えのない風景だった。


 ひとつ、ひとつ、目で追っていくうちに、颯太はある写真で足を止めた。


 そこには、美琴が映っていた。


 しかし、それは彼が知る美琴ではなかった。


 「これ……いつの美琴だ?」


 写真の美琴は、まるで別人のように微笑んでいた。頬には見慣れない傷跡があり、目の奥には不気味な影が宿っていた。


 ぞわり、と背筋を冷たい感覚が走る。


 「これは……本当に、美琴なのか?」


 写真をじっと見つめていると、突然——


 **「迎えに……来てくれた?」**


 かすかに、美琴の声が響いた。


 颯太はハッとして顔を上げた。


 だが、そこには誰もいない。


 それでも、確かに感じた。美琴が、この先にいるということを。


 「……待ってろ、美琴。」


 彼は意を決し、廊下の奥へと足を踏み入れた。


長い廊下の先には、古びた木製の扉がぽつんと佇んでいた。


 ——ギィィ……。


 扉を押し開けると、そこには小さな部屋があった。壁には年代物の時計がかかっており、コツコツと針を刻む音が静寂を切り裂いていた。


 しかし、そこにいたのは——。


 「……美琴?」


 部屋の中央には、美琴がいた。


 ただし、その姿はおかしかった。


 彼女は膝を抱えてうずくまり、顔を伏せていた。肩がかすかに震えている。


 「美琴、大丈夫か?」


 颯太はそっと近づいた。


 その瞬間——美琴がゆっくりと顔を上げた。


 ——そこには、彼が知る美琴の顔はなかった。


 「颯太……ようやく、来てくれたのね……」


 美琴の顔には、無数のひび割れが走っていた。


 まるで陶器のように。


 そのひび割れた唇がゆっくりと開き、言葉を紡いだ。


 「ねえ、あなたは、覚えている?」


 颯太は息を呑んだ。


 「何を……?」


 美琴の目がゆっくりと細まり、笑みを浮かべた。


 「私たちの約束よ。」


 その言葉に、脳裏に強烈な痛みが走った。


 ——ズキン!


 過去の記憶が、一気に溢れ出す。


 彼は、美琴とある約束をしていた。


 だが、それが何なのか……。


 「思い出して。」


 美琴が囁いた瞬間、彼の意識が闇に落ちていった。


 ——そして、彼は見た。


 それは、自分が決して思い出してはいけない記憶だった。


----------


暗闇の中、颯太は立っていた。


 ——ここはどこだ?


 ふと気がつくと、彼の足元には冷たい石畳が広がっていた。遠くから、不気味な囁きが聞こえる。耳を澄ますと、それは美琴の声だった。


 「颯太……覚えている?」


 彼は息をのんだ。頭の奥に、得体の知れない何かがこびりついている感覚があった。


 そして、彼の脳裏に映し出されたのは——。


 廃墟のような部屋の中で、美琴がひとり、微笑んでいる光景だった。


 だが、それは今までの美琴とは違った。


 彼女の顔には無数の傷があり、ひび割れた皮膚の下から、黒い何かが滲み出ていた。


 「……お前は、本当に美琴なのか?」


 彼の問いに、美琴はふっと笑った。


 「何を言っているの? 私は最初からここにいたのよ。」


 颯太の頭の中で、何かが弾けた。


 ——そうだ。彼は知っていた。


 美琴は、最初からこの世界の住人だった。


 彼女と出会った日、彼は何かを忘れてしまったのではない。


 最初から、彼がいた世界が間違っていたのだ。


 「颯太、思い出して。私たちの約束を。」


 彼女の言葉とともに、彼の意識が闇へと沈み込んでいった。


 闇に沈んだ意識の奥で、微かな音が響いていた。


 ——チク、タク。


 時計の針が刻む音。しかし、それは不規則で、どこか歪んでいた。


 颯太が目を開くと、そこは見覚えのある部屋だった。


 大学の研究室——いや、少し違う。


 壁に飾られた写真がすべて反転している。机の上に置かれた本もすべて裏返し、文字が読めない。


 「ここは……?」


 立ち上がろうとすると、視界の端に美琴が映った。


 「……颯太」


 美琴は、そこに立っていた。


 彼女の姿は以前と変わらない。しかし、その瞳には何かしらの狂気が宿っていた。


 「私と一緒にいてくれるって、約束したよね?」


 約束……?


 頭の奥に、ぼんやりとした記憶が蘇る。


 ——それは、確かに自分が交わした約束だった。


 しかし、その内容が思い出せない。


 「お前……本当に美琴なのか?」


 彼の問いかけに、美琴はゆっくりと微笑んだ。そして、彼の手を取り、冷たい指先を絡める。


 「もう、全部思い出していいのよ」


 その瞬間、部屋の景色が一変した。


 世界が反転し、崩れ落ちていく。


 美琴が近づくほどに、現実が崩壊していくような感覚——。


 彼は、ようやく気づいた。


 美琴が、ここにいるはずがないということを。


 しかし、それを認めた瞬間——美琴の手が、強く彼の手首を掴んだ。


 「逃がさないよ、颯太。」


 囁くような声が、彼の耳元に響いた。


----------


颯太の呼吸が浅くなっていく。


 美琴の手が腕を掴んだまま、ゆっくりと彼を引き寄せた。その指は氷のように冷たく、まるで生気を失った死者のようだった。


 「逃がさないよ、颯太……あなたは私のものだから。」


 彼女の声は柔らかく、それでいて確かな執着を帯びていた。彼の鼓動は激しく打ち鳴らされ、冷たい汗が背筋を伝う。


 「違う……お前は……美琴じゃない!」


 颯太は必死に美琴の手を振り払おうとする。しかし、美琴の指は鋼のように固く、決して離れようとしなかった。


 ——カチリ。


 突如、部屋の時計がひとつ音を立てた。その瞬間、彼の頭の中に異様な感覚が広がった。


 — 思い出してはいけない、記憶が。


 視界が歪み、世界がねじれていく。


 目の前に広がるのは、赤黒く滲む壁。そこに刻まれた無数の文字。見覚えのある筆跡。それは、颯太自身が書いたものだった。


 「お前は……誰だ?」


 颯太の問いに、美琴は微笑んだ。そして、ゆっくりと口を開く。


 「私は、美琴よ。でも……私が誰だったかなんて、どうでもいいわ。」


 彼女の笑顔が崩れ、瞳が虚ろに輝いた。


 「さあ、颯太。思い出して。私たちの最後の約束を。」


 ——その瞬間、世界が崩れ落ちた。


崩れ落ちる世界の中で、颯太の意識は引き裂かれるような感覚に襲われた。


 足元が不安定になり、彼は重力が消失したかのような錯覚を覚えた。


 「颯太……どこへ行くの?」


 美琴の声が響く。しかし、もはやそれは彼の知る美琴のものではなかった。


 彼女の姿は歪み、肌は硝子のようにひび割れ、目の奥に黒い影が揺れている。


 「ここにいて、ねえ、最後まで……一緒に……。」


 その囁きが耳元で鳴り響くたびに、颯太の頭の奥に封じられていた何かが軋みを上げた。


 ——思い出してはいけない。


 脳が警鐘を鳴らす。


 しかし、抗えない。彼の記憶は、美琴の声に導かれるように解放されていく。


 彼は見た。


 あるはずのない光景を。


 それは過去の映像。


 雨の降る夜、暗い部屋の中で——


 美琴は、そこにいなかったはずなのに。


 「……お前は、いったい……?」


 彼の問いに、美琴の顔が崩れた。


 「颯太、あなたは……まだ、気づかないの?」


 彼女の瞳に映る颯太の姿——それは、


 彼自身が知らなかったもうひとつの自分だった。

----------

 「颯太、あなたは……まだ、気づかないの?」


 美琴の瞳は不自然に歪み、彼の全身をゆっくりとなぞるように見つめていた。その瞳の奥に、何かが渦巻いている。


 ——美琴は、何者なのか。


 いや、そもそも本当に美琴なのか。


 颯太の脳内を、過去の記憶が駆け巡る。しかし、それらはまるでフィルムを逆回転させたかのようにバラバラで、一貫性を持たない。


 ——雨の夜。


 美琴の声が響いた場所。


 しかし、そこに美琴はいなかった。


 「……お前は、本当に美琴なのか?」


 颯太の声が震える。


 美琴は静かに微笑んだ。そして、その手を彼の頬に優しく添える。


 「大丈夫。あなたが思い出せば、すべて元通りになるわ。」


 彼女の囁きとともに、世界が再びねじれ始める。


 壁にかかっていた写真が揺れ、机の上のものが不自然な動きを見せる。まるで、何かがそこに存在しないはずのものを補完しようとしているかのように。


 ——これは、現実なのか?


 「颯太、もう逃げないで。あなたは、すでに知っているはずよ……本当のことを。」


 美琴の指が、彼のこめかみに触れる。


 その瞬間——


 彼は、すべてを思い出した。


颯太の意識が暗闇の奥へと沈んでいく。


 「……思い出した?」


 美琴の声が耳元で囁く。その声音はどこか優しげで、同時に冷たさを含んでいた。


 ——そうだ。


 美琴は、存在しない。


 彼の脳裏に焼き付いていた過去の記憶は、作られたものだった。


 大学の廊下で交わした言葉、屋上での約束、些細な喧嘩、笑い合う日常。


 すべて、捏造された記憶だった。


 「どういうことだ……?」


 颯太の声はかすれ、震えていた。だが、美琴は変わらず微笑んでいる。


 「あなたが作ったのよ。私を。」


 彼女の言葉が胸を刺す。


 「嘘だ……そんなはずは……」


 しかし、脳内にフラッシュバックする無数の映像。


 ——誰も、美琴のことを覚えていなかった。


 友人に話しても、彼女の存在を知る者はいない。


 何よりも、卒業アルバムには彼女の姿がない。


 彼は、美琴という存在を創り出した。


 「でも……どうして?」


 美琴がそっと彼の頬を撫でる。その感触は、温かくもあり、同時に冷たい。


 「あなたが、望んだからよ。」


 その瞬間、颯太の中に封じられていた記憶の扉が完全に開いた。


 ——美琴は、彼自身の罪の象徴だったのだ。

----------

すべてを思い出した颯太の心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。


 目の前にいる美琴は、確かにそこにいる。しかし、彼女が現実には存在しないことを彼は知ってしまった。


 「美琴……」


 彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。その微笑みは、まるですべてを理解しているかのようで、どこか儚げだった。


 「もういいのよ、颯太。」


 その声は優しく、どこまでも透明だった。


 ——カチリ。


 部屋の時計がひとつ音を立てた。


 瞬間、世界が揺らぐ。


 壁に飾られた写真が色を失い、机の上の本が一瞬にして消えていく。


 「待ってくれ……美琴!」


 颯太は彼女の手を掴もうとした。しかし、指先が触れる瞬間、美琴の姿は淡く光に包まれ、彼の手をすり抜けた。


 「颯太……私を忘れないで。」


 彼女の声が空間に溶けていく。頬を撫でた風が、彼女の存在が消えゆく合図のようだった。


 ——消えていく。


 彼女は、最初からここにいなかったのだから。


 「美琴……!」


 彼の叫びが響く。しかし、そこにはもう、誰もいなかった。


 世界が静寂に包まれる中、ただひとつだけ、時計の針が進む音だけが、現実を刻み続けていた。


颯太は、ただ呆然と立ち尽くしていた。部屋は静寂に包まれ、先ほどまで美琴がいたはずの場所には、何の痕跡も残されていない。


 彼は震える手で携帯を取り出し、通話履歴を確認する。


 ——ない。


 美琴の番号はどこにもなかった。LINEのメッセージ履歴も、メールのやり取りも、すべてが消えていた。


 「そんなはずは……」


 急いで写真フォルダを開く。しかし、そこにあるはずの二人で撮った写真は一枚もない。まるで最初から存在しなかったかのように。


 「嘘だ……嘘だろ……?」


 恐怖が彼を包み込む。美琴との思い出は確かにあったはずなのに、それを証明するものは何もない。


 彼女は、現実に存在したのか?


 それとも——最初から、彼の頭の中にだけいた幻だったのか?


 ——カチリ。


 時計の針が音を立てる。


 その瞬間、部屋の空気が異様に変わった。窓の外に広がる風景は歪み、見慣れたはずの街並みが違う何かに侵食されているようだった。


 「颯太くん……」


 背後から聞こえた声に、彼の血の気が引いた。


 振り向くと、そこに立っていたのは——消えたはずの美琴だった。


 しかし、その表情は以前の彼女とはまるで違う。


 目の奥に宿るのは、人間のものとは思えない深淵の闇。


 「……嘘だろ。」


 彼の喉が凍りついた。


 美琴は、まだ終わっていなかった——。

----------

美琴がそこにいた。


 確かに、颯太の目の前に立っていた。しかし、その輪郭はどこか不確かで、彼が知る美琴とは微妙に異なっているように見えた。


 「颯太くん……どうして、そんな顔をしてるの?」


 美琴は優しく微笑んだ。しかし、その笑みは冷たく、何かが欠けていた。


 「お前は……」


 颯太は一歩後ずさる。彼の記憶の中の美琴は、こんな風ではなかった。


 「何を怖がっているの?」


 彼女の声は、まるで静寂の中に響く囁きのようだった。まるで、この空間そのものが、彼の不安を増幅させるかのように。


 「美琴……君は……」


 彼の頭の中にある記憶が次々と反転していく。


 彼女と過ごした日々。交わした言葉。触れ合った瞬間。


 それらが、まるで初めから違う色を持っていたかのように、ゆっくりと塗り替えられていく。


 「私を、忘れたの?」


 美琴が首を傾げる。その目の奥にあるのは、かすかな怒り——いや、悲しみのようにも見えた。


 「そんなはずはない……」


 彼は必死に思い出そうとする。確かに彼女は存在した。彼の隣にいた。


 しかし、証拠は何一つ残されていなかった。


 「……違う、違う!」


 叫ぶ颯太の視界がぐらりと歪む。


 部屋の光が徐々に失われ、彼を包む空間が暗闇へと沈み込んでいく。


 「颯太くん、もう遅いよ。」


 美琴が最後に囁いた。


 その瞬間、世界が完全に崩れ落ちた。


目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。


 白い霧が立ち込める中、颯太はぼんやりとした意識のまま、足元を確かめた。


 ——ここはどこだ?


 空は白く、地面はどこまでも黒く広がっていた。遠くには、ぼんやりとした影が揺れている。音もない。風すらない。


 「颯太くん。」


 その声が聞こえた瞬間、彼の体が硬直した。


 ——美琴。


 ゆっくりと振り向くと、そこには確かに美琴がいた。しかし、その姿は彼が知る美琴とは異なっていた。


 「どうして……」


 彼女の顔は淡く揺らぎ、時折別の何かに切り替わるように不安定だった。目の奥には深い闇が広がり、その微笑みはひどく作り物めいていた。


 「ねえ、颯太くん。覚えてる?」


 美琴はゆっくりと手を差し伸べた。


 「何を……?」


 「あなたと私が出会ったあの日。あなたが私にしたこと。」


 彼女の言葉が、颯太の意識を深くえぐった。


 何かが頭の奥で疼く。忘れていた記憶が、無理やり引きずり出されるように。


 「俺が……?」


 霧が少しずつ晴れていく。美琴の背後には、何かが見え始めていた。


 ——黒ずんだ手。


 ——歪んだ顔。


 ——無数の影。


 そして、その中心にある、一つの扉。


 「もうすぐよ。」


 美琴は微笑んだ。


 「真実を知る時が。」


颯太の心臓が激しく鼓動する。


 霧がゆっくりと晴れ、目の前には黒ずんだ扉が現れた。その扉の表面には無数の傷跡があり、まるで中に閉じ込められた何かが必死に逃れようとしたような痕跡だった。


 「真実を知る時が来たのよ。」


 美琴が囁く。その声音は柔らかくも、どこか異質な響きを持っていた。


 「何が……あるんだ?」


 颯太は息を詰まらせながら、美琴の顔を見つめる。彼女は微笑んでいたが、その微笑みにはどこか哀しみが滲んでいた。


 「私を、思い出して。」


 美琴の言葉と共に、颯太の意識が深く沈み込む。まるで時空が反転するかのように、周囲の景色が歪み始めた。


 ——過去の断片が、蘇る。


 大学の構内、夕暮れに染まる校庭、美琴と並んで歩いた記憶。


 しかし、その記憶の奥に何かが潜んでいる。


 ——美琴が怯えていた。


 ——美琴が、何かから逃げようとしていた。


 「やめろ……」


 颯太は頭を抱える。記憶が塗り替えられるような感覚に襲われる。


 「颯太くん、あなたは……」


 美琴が静かに続けた。


 「私を殺したのよ。」


 その言葉が落ちた瞬間、颯太の視界が完全に暗転した。

----------

 颯太の意識が深い闇に沈む。


 美琴の最後の言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。


 ——私を殺したのよ。


 そんなはずはない。美琴は生きていた。彼女は目の前に立ち、確かに存在していた。


 「嘘だ……俺は、そんなこと……」


 混乱と恐怖が絡み合い、頭の中で過去の記憶が錯綜する。


 目の前の景色が歪み始め、現実と幻想の境界が曖昧になる。そこに現れたのは、ぼんやりとした影。


 ——それは、かつての自分自身だった。


 大学時代の颯太が、美琴と向き合っていた。


 「ねぇ、どうして?」


 美琴の声は震えていた。彼女の顔には恐怖と絶望が浮かんでいる。


 「君がいなくなれば、全部終わるんだよ……」


 その声が、今の颯太のものだった。


 「違う、違うんだ!」


 目の前の光景を否定するように叫ぶ。しかし、記憶は冷酷にも、真実を映し出していく。


 雨の降る夜、キャンパスの裏庭——。


 ——美琴は地面に倒れ、手には震える血の跡が。


 「俺が……やったのか……?」


 すべてのピースが合わさる。視界が歪み、意識が揺らぐ中、再び美琴の声が響いた。


 「颯太くん、さようなら。」


 彼女の微笑みとともに、世界が暗転していった——。


暗闇の中、颯太は目を開けた。だが、それは目を開けたというよりも、ただ意識が引き戻されたような感覚だった。


 周囲はどこまでも漆黒で、地面も空もない。ただ、彼はそこに立っていた。


 ——ここはどこだ?


 次の瞬間、淡い光が灯った。その光の中に、美琴が立っていた。


 「颯太くん……」


 彼女は優しく微笑んでいた。しかし、その目には深い悲しみが宿っていた。


 「また……戻ってきたのね。」


 「戻ってきた……?」


 彼の頭が混乱する。だが、心の奥底では理解していた。この光景は初めてではない。いや、何度も何度も見たことがある。


 「これが、何度目か分かる?」


 美琴の声が穏やかに響く。


 「……何度目、だと?」


 彼は記憶の底を探る。だが、そこには無数の断片しかなく、何が真実なのかすら分からなかった。


 美琴がそっと手を差し伸べる。


 「あなたは、何度も私を殺したの。そして、何度もここへ戻ってきたの。」


 その言葉に、彼の脳裏が閃光のように駆け巡った。


 繰り返される記憶。毎回異なる結末。しかし、彼が逃れようとするたびに、この闇に引き戻される。


 「そんなはずはない!」


 彼は叫んだ。だが、美琴の表情は変わらなかった。


 「いいえ、颯太くん。あなたは、また同じ道を選ぼうとしている……。」


 美琴が静かに手を伸ばした。


 次の瞬間、光が弾けるように広がり、彼の視界が真っ白に染まった——。

----------

 光が弾け、再び闇が広がる。


 ——ここはどこだ?


 颯太はまばたきを繰り返し、目の前の景色を確認しようとした。視界はぼやけていたが、やがて輪郭がはっきりしてきた。


 そこは、見覚えのある大学の講義室だった。


 「……え?」


 彼は無意識のうちに呟いた。椅子に座り、手元には履歴書が広げられている。講師が前で話しているが、彼の声はまるでノイズのように頭に響いた。


 「嘘だ……戻ったのか?」


 しかし、周囲の学生たちは何事もないかのように授業を受けていた。まるで、すべてが最初からやり直されているかのように。


 「颯太くん?」


 背後から声がした。


 ゆっくり振り向くと、そこには、美琴が立っていた。


 ——いや、違う。


 彼女は笑顔だった。しかし、その微笑みの奥にある冷たい違和感を、颯太はすぐに感じ取った。


 「また……戻ってきたのね。」


 美琴が静かに言った。


 彼は混乱しながらも理解した。すべては最初から繰り返されている。


 「俺は……ここから、逃げられないのか?」


 美琴の微笑みが僅かに歪んだ。


 「どうかしら。でも、今度こそ——あなたが正しい選択をすることを願ってる。」


 彼女の目が深い闇を映し出す。


 その瞬間、講義室の風景が淡く揺らぎ、またしても現実が崩れ始めた。


 ——終わらない輪廻。


講義室の景色が揺らぐ。まるで水面に映った像が歪むかのように、現実が微かに波打っていた。


 「……選択?」


 颯太は目の前の美琴を見つめながら呟いた。


 「そう、あなたには選択肢があるの。」


 美琴は静かに言った。その目には、優しさと冷徹さが交じり合っている。


 「君は……誰なんだ?」


 美琴は微笑んだ。


 「私?」


 彼女は軽く首を傾げ、柔らかく言葉を続けた。


 「あなたがそう望んだ存在よ。」


 颯太の頭に鈍い痛みが走った。再び記憶がフラッシュバックする。


 ——雨の夜、裏庭。


 ——美琴の震える声。


 ——彼女の手には、鮮血が滲んだシャツ。


 「やめろ……」


 颯太は思わず耳を塞いだ。しかし、記憶の断片は無情にも彼を追い詰める。


 美琴は、まるで全てを知っているかのように微笑み続けた。


 「ねぇ、颯太くん。どっちを選ぶ?」


 彼女はゆっくりと手を差し出す。その掌には二つの鍵があった。


 ひとつは金色に輝く鍵。


 もうひとつは黒く歪んだ鍵。


 「金の鍵を取れば、この世界は元に戻るわ。でも——」


 美琴の微笑みが、わずかに陰る。


 「黒い鍵を取れば……あなたは、真実と向き合うことになる。」


 颯太は息を飲んだ。


 「真実……?」


 「ええ。あなたが何をしたのか、そしてなぜこうなったのか。その全てを知ることになるの。」


 彼の手が震えた。選択肢は二つ。


 平穏な世界に戻るか。


 それとも、全ての真実と向き合うか。


 「さぁ、どっちにする?」


 美琴の声が囁くように響く。


 颯太は、迷いながらも、ゆっくりと手を伸ばした——。

----------

 颯太の指先が、金の鍵と黒い鍵の間を行き来する。選択の重みが彼の肩にのしかかり、喉がひどく渇いた。


 「どっちを選ぶの?」


 美琴の声が優しく響く。しかし、その声の奥には、微かに揺れる影があった。


 彼の脳裏に、過去の断片がよみがえる。


 ——大学の図書館。二人で過ごした静かな午後。


 ——雨の夜、駅前の歩道橋で交わした約束。


 ——そして、血の匂いが充満した部屋の中で、美琴が囁いた最後の言葉。


 「……真実を知りたい。」


 そう呟くと、颯太の指は黒い鍵をつかんでいた。


 美琴はふっと微笑む。


 「やっぱりね。」


 その瞬間、視界が変わり、彼の意識が戻った時、そこは見覚えのない部屋だった。


古びた壁紙が剥がれ、カビ臭い空気が鼻をつく。窓の外は漆黒の闇が広がっていた。


 「ここは……どこだ?」


 ふと、足元に何かが転がっていた。


 それは、写真だった。色褪せた写真の中には、自分と美琴——そしてもう一人、見覚えのない男が写っていた。


 「これは……?」


 彼の背筋に冷たいものが走る。


 美琴の声が、すぐ後ろで囁いた。


 「思い出して。」


 ——真実の扉が、ついに開かれようとしていた。


写真の中のもう一人の男。その顔はどこか既視感があった。しかし、思い出せない。颯太は指先で写真をなぞる。


 「誰……なんだ?」


 背後で、美琴が静かに言う。


 「あなたが忘れた人よ。」


 言葉の意味が理解できない。美琴の表情には、微かな哀しみが滲んでいた。


 「忘れた……?俺が?」


 頷く美琴。


 「ええ。でも、それも仕方のないこと。記憶の扉は閉じられていたから。」


 部屋の奥に、古びた扉があった。鍵穴があり、彼が先ほど選んだ黒い鍵が手の中に残っている。


 「これを……開ければいいのか?」


 美琴は答えない。ただ、ゆっくりと頷く。


 躊躇いながらも、颯太は鍵を差し込む。そして、ゆっくりと回した。


 ——ギィ……


 重々しい音を立てて、扉が開く。その向こうには、見覚えのある場所が広がっていた。


 「……俺の部屋?」


 しかし、何かがおかしい。そこにいるのは、大学時代の自分と美琴、そして——写真に写っていた男だった。


 「これって……?」


 目の前の光景が、彼の記憶の奥底に眠る真実を暴こうとしていた。

----------

 颯太の心臓が激しく鼓動する。


 目の前に広がる光景——それは、かつての自分の部屋。しかし、どこか違う。


 部屋の中には、自分と美琴、そして写真の中の男がいた。三人は談笑している。親しげに、何の違和感もなく。


 「……俺の記憶にない。」


 颯太は、額に手をやりながら呟く。確かにこの部屋は自分のものだ。だが、この光景は——。


 「思い出せないのは当然よ。」


 美琴の声が背後から響く。


 「あなたの記憶は、何度も書き換えられているから。」


 書き換えられている?


 颯太は美琴を振り向く。彼女は静かに微笑みながら、指先で壁をなぞる。


 「この場所は、現実と記憶の境界が曖昧になった空間。」


 彼女の言葉と同時に、部屋の壁が崩れ始める。


 「……っ!」


 壁の奥から現れるのは、歪んだ記憶の断片。


 ——自分が誰かを追い詰める。


 ——血に染まった手。


 ——叫び声。


 「お前は、何をした……?」


 写真の中の男が、颯太を見つめて呟いた。


 現実が崩壊する中、彼は真実に手を伸ばす。


 ——次第に、すべてが明らかになろうとしていた。


壁が完全に崩れ去り、颯太の目の前には新たな扉が現れた。


 それは、見覚えのある扉——過去に閉ざしたはずの記憶の象徴だった。


 「開けるの?」


 美琴が静かに尋ねる。


 颯太は息を整え、扉に手をかけた。


 扉の向こうには、色褪せた記憶が広がっていた。


 ——深夜の廃ビル。


 ——血だまりに横たわる男。


 ——震える自分の手。


 「俺が……やったのか?」


 美琴は微笑みながら、囁くように言った。


 「ようやく思い出したのね。」


 崩れゆく現実の中、颯太は目を閉じた。


 すべてが明らかになる、その瞬間が迫っていた。


扉の向こうに広がるのは、忌まわしき過去だった。


 朽ちた廃ビルの一角。床に染み付いた暗い赤の痕跡。その中心に倒れていたのは、写真に写っていた男——彼の名は佐伯直人。


 「佐伯……?」


 颯太の呟きに呼応するように、記憶が次々と鮮明になっていく。


 大学時代、颯太と美琴、そして佐伯は親しい友人だった。特に佐伯は、美琴に想いを寄せていた。しかし、美琴が颯太を選んだことで、その関係は次第に歪み始めた。


 ある晩、佐伯は美琴に執拗に迫り、ついに二人の間で激しい口論が起こった。怒りと恐怖に駆られた美琴は、無意識のうちに佐伯を突き飛ばし、彼は頭を強く打った。動かなくなる佐伯。


 「私たち……終わりよ。」


 美琴の震える声。しかし、その直後に動いたのは颯太だった。


 「終わりじゃない。何もなかったことにすればいい。」


 彼は美琴を庇うため、佐伯の遺体を廃ビルに運び、事件を隠蔽した。しかし、その選択が全てを狂わせた。


 時間が経つにつれ、美琴は罪悪感に苛まれ、次第に精神を病んでいった。そして、ある夜——彼女は消息を絶った。


 「だから……お前はここにいるのか。」


 目の前の美琴は微笑んでいる。しかし、それは生者のものではなかった。


 「私はここにいるわ。あなたが選んだから。」


 その瞬間、颯太の視界が揺らぎ、講義室の風景が現れた。


 ——最初の場面。


 履歴書、講師、そして美琴。


 「また戻ってきたのね。」


 美琴の声が響く。だが今度は、彼女の目には涙が浮かんでいた。


 「選び直せるの……?」


 「ええ。今度こそ。」


 彼女は金の鍵を差し出した。


 ——もし、最初からやり直せるなら。


 颯太はゆっくりと鍵を握りしめた。


 この輪廻から解放されるために——。


~終~

気持ち悪く、何度か見直してもらえるように頑張りました。

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