第1話『Rolling Days』(3)
「お、来たか天野!」
陸上部の顧問、北村が俺を見付けるやいなや大声で名前を呼びながら近付いてくる。
俺たちの通う未来学園高等部において陸上部が使用を許可されているのは高等部の校舎と大学部の校舎のちょうど中間地点に存在するここ、高等部第八グラウンドのみである。マイナーな運動部ならば初等部・中等部や大学部と合同で練習が行われるなんてこともざらにあるのだが、未来学園高等部の陸上部は少し歩かないといけないとはいえこのように専用のグラウンドがあるだけ恵まれていると言えるだろう。
「天野、身体はもう大丈夫か? 大会はまた一年後とはいえ、あまりに部活に参加できないとなると成績に響くぞ」
「はい、もう大丈夫です。今は文化祭実行委員の仕事もあるので全ての練習に参加することは難しいですが、文化祭が終わり次第完全に復帰するつもりです」
「権田先生から聞いてるよ。怪我明けなわけだしむしろそれくらいの練習量の方が良いだろう。今日も朝練だけの参加になるんだったな?」
「はい。終わり次第文化祭実行委員の仕事で未来工業へ向かうことになっています。……それと、入院中何度もお見舞いに来てくださっていたそうで、ありがとうございました」
「気にするな。大会期間中じゃなければもっとマシな見舞いができたというものだが、お前が大会を欠場することが決まってから二宮まで欠場すると言い出してな。こっちも大変だったんだ」
「それは、初耳です。てっきり優勝していたのかと」
「お前が参加しないなら自分も参加する意味がないと聞かなくてな。おかげでほら、グラウンドをよく見てみろ」
北村の言うがままにグラウンドに目を向ける。すると、いつも以上に死んだ目をしながら練習に励んでいる部員たちの姿が映った。
「……随分、練習メニューがキツくなったようですね」
「ああ。お前や二宮のこともあるし、やはり選手層を厚くするべきだと考えてな。お前らも油断しているとすぐにレギュラー争いは激化していくだろう」
「それは、怖いですね。なるべく早く復帰できるように頑張ります」
俺はそう答えると運動着へ着替えるために陸上部の部室へと向かい始めた。
怒涛の始業式を終えてから一週間という期間が過ぎていた。
怜奈考案の企画書が完成し、既に未来工業へのアポイントを取ることには成功している。そのため本日の朝練終わりに俺は怜奈とそのまま未来工業へ向かう手はずとなっている。
「……本当だ。長距離走の大会記録に洸一の名前が無い」
普段からあまり陸上のことについて話さないため知らなかったのだが、てっきり洸一は優勝したものだと思っていた。
運動着に着替えた俺はグラウンドに一礼をして準備運動を開始する。
ストレッチを入念に行いグラウンドを軽く周回してウォーミングアップを終えると、短距離走の部員たちに交じって練習を始めようとする。
「待て天野、お前はこっちだ」
そこを北村に呼び止められ、なぜかレーンのスタート位置に俺を含めた数人の生徒が招集させられる。恐らく俺や洸一の代わりに大会に出場した生徒たちなのだろう。
「せっかくだからお前たちには今回の大会記録に挑戦してもらう。天野、お前は一カ月間のブランクがあるとはいえ結果は今後に影響するから覚悟しておけ。……おい二宮、お前もこっちに来い」
隣のグラウンドで朝練に参加していた洸一がメガホンを使った北村に呼び出される。
「俺も走るんですか? 俺、長距離選手ですよ。それに……」
洸一と目が合う。
「俺が勝っちゃったらもしかして大胆な選手入れ替えとか起きます? いやー困っちゃいますね、短距離中距離長距離ハードルハンマーやり投げ監督全部俺。みたいな展開は」
「馬鹿もの。監督は俺だ」
既に朝練に参加していた俺以外の部員たちのために少しの休憩時間を挟みながら、再び洸一たちと供にスタート位置に並ぶ。
「それじゃあ始めるぞ」
北村が静かにそう呟く。最初こそは和やかな雰囲気だったものの、先ほどの北村の言葉が周囲に伝わり始めたのだろう。厳かな雰囲気が辺りを支配し始めていた。
「――位置について」
スタートの直前、洸一が場違いな方向に視線を向けたため思わず俺も反射的に同じ方向に視線を向けてしまう。この後の一仕事のため俺を迎えに来ていたのだろう、そこには遠巻きにこちらを眺める怜奈の姿があった。
「……誠也。お前、怜奈が夏休み中、意識を失っていたお前のために何もしていなかったなんて、本気で思ってるのか?」
洸一も俺の視線の動きに気付いたのだろう。そんな言葉が聞こえてくる。
「そんなわけないよな。だってあの怜奈がだぜ。お前のために何もしなかったなんてある訳がない」
「――用意」
洸一の言葉を聞きながらスターティングブロックに置いていた足に強い力を込める。
「もう少し、自分を見つめ直せ誠也。……じゃないと」
腰を上げ、足のつま先に細かな調整をかけていく。
「――スタート!」
置いて行くぜ。
そんな言葉が聞こえた瞬間、俺たちはゴールという獲物をひたすら追い続ける獣と化していた。
足をこれでもかというほど高速で回転させ、ゴールラインを目がけてひた走る。
既に隣に洸一以外の人間はいない。未来学園陸上部二大エースの面目は保たれた、なんて惚けている場合ではない。空気の壁にぶつかる感覚を感じながら前へ、前へと走り続ける。
洸一は俺の入院していた期間中、大会にも出場せず貪欲に走り続けていたのだろう。何となく、そんな気がした。そしてそれはきっと事実なのだろう。
「ああ、そうか……」
考えてみれば雷が直撃し、目を覚ましてから僅か一週間。俺の身の周りの歯車が急速に回転を速めているような、そんな気がしていた。歩みを緩めてはならない。これから起きる全ての事柄を何も見逃さずに走り抜けなければならない。そう強く思った。この能力のこと、陸上部のこと、洸一のこと、そして、怜奈のことも。
ゴールラインはすぐそこに迫っていた。
「……よし」
俺は緩急を付けることでスピードを一切落とさず、最大限の力を以て加速を開始した。
洸一の姿が徐々に視界から消え始める。この速度を保ち続ければ俺は一位のままゴールに辿り着けるだろう。
そして、俺は無慈悲に、そして大胆にゴールラインを踏み抜いた。
◇
「これから体力を使うっていうのにあれだけはしゃいじゃってバカじゃないの?」
「喧しい、男には絶対に戦わなきゃならない時があるんだよ」
怪我明けとは思えないほど高密度の朝練を終え、長めのシャワーを浴びさせられた俺は怜奈と供に未来工業本社へと向かっていた。
未来学園と同じ未来区中央部に位置する未来工業だが、未来学園とは真逆の位置に存在する。バスに揺られて四十分ほどの移動の末、俺と怜奈はようやく目的地へと到着した。
「着いたわよ誠也、くれぐれも失礼のないようにね」
「……ここが」
俺は、目の前に聳え立つ高いたかいビルを見上げ、その社名を反芻する。
未来工業。俺の両親が務める日本一、いや世界一の企業のオフィスが眼前に在った。
厳しい検問を潜り抜けて会社の敷地内に足を踏み入れた瞬間、やけに心臓の鼓動が高鳴り始めた。
「高いな……」
五十階建ての未来工業オフィスの受付へ向かうとエレベーターへ通され、俺たちは三十八階の会議室を宛がわれる。
「それでは担当の者をお連れしますので、どうぞこちらでお待ちください」
その言葉を言い終えると同時に案内をしてくれた女性がゆっくりと扉を閉める。
やがて足音が聞こえなくなると、俺と怜奈はようやく肩の力を少し抜いた。
「まさか学生の身分である私たちがこんな重要そうな部屋に通されるとは思いもしなかったわね。……あ。このソファ、家にある奴と同じブランドのものだわ」
「いや、その感想はどうかと思うが」
怜奈がソファに深く腰掛け一息つく。そんな中、俺はステンドグラスが張り巡らされた窓から壮大な景色を眺めていた。
「アンタの家も本来ならこのくらいの絢爛さであるべきなのよ。両親ともに天下の未来工業の社員なんでしょ。だったら相当貯め込んでいるはずよ」
「……未だに信じられないがな、俺の両親が世界一の会社に勤めているだなんて」
「まっ、世界一かと言われれば微妙なところはあるけどね。アタシの読みでは未来工業の業績は数年以内にISコーポレーションに抜かれるわ」
「それは未来区に住む人間にとってはあまり喜べた話ではないな」
「そうかもしれないわね。……そろそろ来るわよ」
怜奈の言葉と同時に、数人がこちらに近付いて来る足音が聞こえてきた。
「お待たせ致しました。私たちは未来工業の――、こういうものです。我が社の『幸福指数の計量化システム』を未来学園の文化祭で使用したいというお話でしたね」
入室してきた三人の社員の名刺を怜奈に倣って受け取る。
「こちらこそお忙しい中、一学生のためにお時間を割いて頂いてありがとうございます。未来学園高等部二年十五組の園宮怜奈と」
「天野誠也です」
お互いに簡単な自己紹介を済ませると、本格的に怜奈が文化祭の出し物のプレゼンを行い、未来工業の社員たちと本格的な会議を始めた。
もちろん俺も最低限の応答に参加し、少しでも印象アップを心掛ける。
そして三十分ほどの濃密な会議の上、怜奈は無事『幸福指数の計量化システム』の商業利用の許可を獲得した。
「それでは、出口の方まで見送らせて頂き――」
社員たちが素早く席を立ち、俺たちを廊下へと誘導しようとする。
怜奈はここが勝負だと言わんばかりにその言葉を遮り、本来の目的を遂行するために動き出した。
「――唐突なお願いで大変申し訳ないのですが、少しの間オフィス内を見学させて頂いてもよろしいでしょうか? 御社への就職を志望する未来学園の生徒として予てより見学をさせて頂きたいと思っていたんです」
「怜奈さんのような聡明な方であれば大歓迎ですよ。ぜひ未来の仕事場をじっくり見学していってください。受付で渡されたバッジがあれば大抵の場所には入ることができますよ」
余所行きの怜奈の笑顔を向けられた社員たちは柔らかい笑みを返しながら足早に退室していく。
「……? 当てが外れたわね。もっと抵抗されると思っていたんだけど。というか普通こういうことを言われたらきっぱり断るか最低でも誰か一人は同行しようとするはず……。
――ジルドから連絡が来たわ。向こうはまだ当分かかるそうよ。どうやらアタシたちが実行犯の汚名を被ることになりそうね」
怜奈はとくに感情を表に出さずにソファから立ち上がると急いで身支度を済ませ、電子携帯を出現させた。
「……ええ、不自然なまでにあっさり引き下がってもらえたわ。ジルドにこっちのサポートをするように連絡も入れた。……誠也、オッケーよ。アタシに付いて来なさい」
怜奈は俺の腕を掴んで部屋から退室し、エレベーターまでスタスタと勝手知ったかのように歩いていく。怜奈が最上階のボタンを押した瞬間、エレベーターがゆっくりと閉まって浮上を開始した。
「……怜奈。思ったんだがこういう場所って普通監視カメラとかが仕掛けられてるんじゃないのか? それに最上階なんて……」
「当たり前でしょ。さっきの部屋にももちろん監視カメラが設置されていたわよ。……それに、言ってなかったかしら。知り合いにクラッキングが得意な三十代前半の素敵なオジサマがいるって。――ゴメン、少し黙ってて」
エレベーターが四十八階に差し掛かった頃、突然階上で大きな物音が聞こえてきた。
獣の咆哮。
それに続いて人間の叫び声が聞こえたかと思うと、どこかの扉が閉まる音が鳴り響いた。
「……どうやら上手くいったようね」
やけに冷静な怜奈の声が、静かな密室に大きく響く。
エレベーターの扉が開いた。
廊下には誰の姿もなく、不自然なまでに非常階段の扉が揺れているのみだった。
僅かに、廊下に流れる鮮やかな血溜まりが視界に映る。
俺と怜奈は無言で歩き続け、ついに社長室の前へと辿り着いた。
「……うん、やっぱりこのタイプのカードキーか。もう少しそこで待ってて」
怜奈がそう俺に声をかけると、鞄から見たことのない小型装置を取り出してそれに何かを入力し始める。数秒が経つと取り出し口からカードキーのようなものが飛び出してきた。
怜奈はそれを掴んで無感情のまま社長室にかざすと自動ドアのように社長室の扉が簡単に開いた。
未来工業社長室は、部屋を分断するかのように存在する巨大な金庫が存在していること以外はテレビでよく見るオーソドックスな社長室の内装だった。
それをさも当然かのように怜奈は辺りをキョロキョロと見渡すと、金庫を開錠するためのパスワードを入力する装置を即座に発見し、躊躇いなくそれに手を伸ばす。
数十桁の暗証番号を怜奈が入力し終えると、金庫はゆっくりと開錠を始めた。
そして、完全に開錠し切った金庫の入り口を俺たちは力いっぱいにこじ開ける。
「何だよ、これ……」
それは、何となく見覚えのある、そして絶対に見たことのない装置だった。
直径五メートルはあるであろう大きな機械。
この世の全てと接続するかのようにあらゆる方向からピンと伸びた電子ケーブルは、その装置の明らかな特殊性を物語っていた。
「これは『リヴァイアサン』よ。下手なことに首を突っ込みたくなければこれ以上はもう知らない方が……って、もう遅いのか」
リヴァイアサン。
歴史の授業でそんな名前を見た覚えがある。別名『レヴィアタン』、旧約聖書に登場する海の怪物、だったような。
申し訳なさそうにそう呟く怜奈は自らを奮い立たせるかのように気後れすることなくその異形の装置へとズンズン近付いて行く。
何故だか、嫌な予感がした。
「やっぱり……」
その装置の中央部には、ひときわ自己主張をしている大きな匣があった。その匣には上部から透明なガラスが張られており、外からでもその中身を見ることができるようだ。怜奈はその匣の中身を見てそう呟いたのだろう。
俺も数歩近寄り、少し離れた位置から恐る恐るその中身を覗く。
「なッ――」
間違いない。
中には、人間が入っていた。
『未来工業最上階に眠る男』
何てことはない。未来区に住んでいる人間なら誰でも知っているあの都市伝説は真実だったのである。
そして更に、俺はその男の顔に見覚えがあった。
それは当然だろう。この地に住んでいる人間でこの男の存在を知らない者なんて一人もいない。いるわけがない。
「――岡崎、幹也?」
その匣の中には、未来工業の元社長である岡崎幹也が入っていた。
『久々の父親との再会はどうですか? 岡崎玲奈お嬢様』
唐突に、社内アナウンスが社長室から聞こえ始めた。
『――父親亡き今は園宮怜奈、と呼んだ方が正しいのか。……いや、そんなこと今はどうでも良かったかな』
「……随分なご挨拶ね、神野白夜。パパを蹴落として得たその地位にはご満足頂けているのかしら?」
神野白夜。
未来工業の現社長であるその男は、スピーカー越しに俺と怜奈に警告を行ってきていた。
『金庫の映像に違和感があったとの報告を受けて来てみれば、まさか怜奈お嬢様直々に侵入なさっていたとは。貴方が来社するということで監視体制を強化していた甲斐がありました』
「やっぱりおかしいと思ったのよ。ここまで用意周到に準備するアンタの包囲網をこれくらいの作戦で突破できるなんて最初から思っていなかったもの」
『ご謙遜を。その全てをクリアして、怜奈お嬢様はそこまで辿り着いたのではありませんか。
……まあどちらにせよ『リヴァイアサン』に打ち込まれた強力なプログラミングまでは解除できなったのでしょうが。――それにしても、わざわざご友人同伴の下来られるとは思っていませんでした。これまでは温情で静観していましたが、これからは私の管理の下で生活してもらい』
怜奈が無言でスピーカーのケーブルを引っこ抜く。そしてもう片方の手で電子携帯を出現させた。
その画面には【潴溜りん】という名前が表示されていた。
「……もしもし? うん、そう。どうやらもう表舞台には出てこれなくなりそうよ。……やめておきなさい、あなたまで表に出てこれなくなったら次の手が打ちにくくなる。そうね、ジルドたちには契約破棄の旨を伝えておいて。事情が分かったら彼らも納得してくれるでしょう」
怜奈の話している内容は、ほとんど全てが右から左に通り抜けて行った。
分からない。しかし、なんとなく理解できた。
できて、しまったのだ。
怜奈が消えてしまう。
少なくとも、俺の前から。
「……怜奈。一体お前は、何を」
予兆はあった。
未来工業のオフィスに足を踏み入れた瞬間、突然心臓の鼓動が高鳴り始めた。それは今にして思えば心臓の音ではなく、時計の針の音だったような気がする。そしてそれは最上階へと近付くにつれて大きくなっていった。
目の前の装置が笑っているような、そんな気がした。
「……や、誠也!?」
「く、そ――」
ピロピロ、プルルル。ドンッ、ドンッ。
軽快な音楽がグルグルと脳裏を駆け巡っていく。
まるでこの世の全ての情報が頭に流れ込んでくるような、そんな感覚に俺は陥っていた。もはや俺はこれまでなのだろうかという感情の下で、何かが消えては新たに生まれていくような、奇妙な感覚が俺の脳裏を支配していた。
『本日の正午まで猶予を』
『やけに優しいのね。そんなにこの世界がお好みかしら?』
『父親に似て達者な口だ』
『アンタの娘にはアンタの小賢しさは遺伝していないのね』
『何が言いたい』
『神野真紀さん、だったっけ。可愛い娘さんね』
『下手な抵抗はしないことだ』
『するわよ、こんなまやかしだらけの世界なんて』
『それでは、良い一日を』
『アンタこそ、せいぜい長い夏休みを満喫していると良いわ』
ノイズが止む。
そして俺は、白い世界に居た。