第1話『Rolling Days』(1)
未来学園。未来区南部に住む俺や怜奈、その反対側の北部に住む洸一までもが通う未来区に一つしかないマンモス校の名前である。
未来学園初等部を卒業した全ての生徒はそのままエスカレーター式に中等部と高等部を経て大学部へと進学する。俺たちの通う高等部の二学年だけでも十五クラス存在するため、狙って友達と同じクラスになることは難しい。
そんな中でも俺と怜奈、洸一の三人は天文学的な確率の壁を越えてめでたく同じクラスである二年十五組に在籍している。
「……私、この場所、見覚えがあるわ。ここに何度も来ていた、そんな気がするの」
俺の隣で記憶喪失ごっこを継続する洸一が正門前で挨拶運動に精を出している権田にそんな言葉を投げかける。
「おはよう天野。話は聞いているぞ、授業中に体調を崩したら遠慮せずに言ってくれ。事情はほとんどの教師に知れ渡っているだろうからいつでも授業を抜け出せるだろう。なんせ夏休み中は職員室でもその話題で持ち切りだったからな」
俺が雷に撃たれた話はやはり大きく出回っているらしい。二年十五組の担当教師である権田が知っているのは当然として、高等部全ての教師が集結している職員室で噂になるくらいなら未来学園中に広まっていることくらいは覚悟する必要があるようだ。
新聞に実名公表されるくらいならまだしも、テレビのワイドショーで箸休め的に連日報道されている録画を今朝方母親に見せられた辺りで当分の間、酒の肴にされるであろうことは既に覚悟していた。
「……あなたは、誰ですか?」
そんなことを心の中で考えていると、先ほどから権田に無視され続けている洸一が捨てられた子猫のような目で俺と権田を見つめていた。
「おはよう二宮。朝から教師に喧嘩を売るとは良い度胸だな」
「……その目。記憶を失った私でも理解できる。あなたは私に深い憎しみを持っているのですね。でも、それは仕方のないこと。それが私の、運命なのだから」
権田が付き合ってられん、という様子でポリポリと頭を掻く。洸一の悪ふざけはいつも通りだが、今日は事情が事情だけに俺は洸一のフォローをしてしまいたくなる。
何せ昨晩の記憶が抜け落ちているのだ。俺と洸一の二人供が。
抜け落ちた記憶はほんの僅かなのだがどうにも気味が悪い。俺の記憶は園宮邸へ赴いた辺りから朧気になっており、どうやらそこから洸一に連絡を取った形跡があるものの俺も洸一もそれから数時間の出来事を全く覚えていないのである。
最も不気味なのは俺の電子携帯に表示されていた『同期』という言葉の検索履歴だ。初めは昨夜電子携帯のデータを別の媒体にコピーするために調べていたのを度忘れしてしまっていたのかと思ったが画面には「データファイルの交信において、信号の交信のタイミングを合わせること」と表示されており、どうやらそういう意味で調べたわけではなさそうだ。
「――やれやれ。本人を目の前にして思い出せないというのなら、お前のこの男に対する愛はその程度だったということだ」
「……それでは、やはりこの方が私の愛した人、なのですね」
そんなモヤモヤを晴らすかのように俺も洸一の悪ふざけに便乗する。
「おい、お前らいい加減にしろ」
勝手に記憶喪失の娘(洸一)の元彼設定の役に就任させられた権田の沸点が見る見るうちに上昇し始めていく。
「それじゃあ俺はこの辺りでとんずらさせてもらうぜ。大金を積まれたからここまで案内してやったまでだ。次会うときは他人同士、だろ?」
見事に記憶喪失の娘(洸一)を元恋人(権田)の下に連れて行った傭兵に就任した俺は二人に背を向けて颯爽とその場を離れる。権田の射程圏内は脱したため、幾ら権田とはいえ俺を捕らえるのは至難の業だろう。
「二宮、職員室に行くぞ」
「待ってください! 確かに私はこの人と愛し合っていたのかもしれない。けれど、私は、文句を言いながらも私をここまで送り届けてくれたあの人のことが――」
ベタベタな展開を織り交ぜて俺を引き止めようとする洸一の頭を無言で掴み上げる権田の背中を後目に、俺は高等部校舎へと足を踏み入れた。
◇
二年十五組の教室の扉を開く。
教室へ入ると小さく雷や避雷針といった言葉が聞こえた気がしたが、変に好奇の目で見られ続けるのも嫌なのでさっさと自分の席へと向かう。
「おはよう誠也、いい朝ね。課題が免除されているアンタはさぞや快適な朝を迎えることができたのでしょうね」
俺にだけ聞こえるように朝っぱらから皮肉を投げかけてくる怜奈を無視し、その隣の席へと腰を下ろす。怜奈の両目にはクマができており、苦し紛れにファンデーションで隠した形跡が見られる。どうやら俺が帰宅してから徹夜で夏休みの宿題へ取りかかっていたらしい。
鞄から筆箱と一時間目の授業の用意を取り出し、クラスメートたちとの久々の再開を楽しむ。そして五分ほど経った後、勢い良く扉を開いた権田が教室に現れ、遅れて権田にしっかり絞られたであろう洸一が恨みがましい視線を向けながら俺の後ろの席へと座る。そしてすぐに朝のホームルームが始まった。
「起立、礼」
クラス委委員長である怜奈の言葉と供に朝礼が進行していく。
「それじゃあ今日は幾つか決めなきゃならないことがあるからよく聞いておけ。というわけで園宮、前へ来てくれ」
怜奈が呪詛のようなものを呟きながら立ち上がって黒板の前へと向かう。
「これから二週間後に文化祭がある。そこで文化祭実行委員を二名決めなければならないのだが、クラス委員長は自動的に文化祭実行委員に選出されるためもう一名の文化祭実行委員を園宮進行の下で決めてくれ」
どうりで怜奈のテンションが低いわけだ。つまりこのクラスからは強制的に怜奈ともう一人が文化祭実行委員、もとい生贄として選ばれるらしい。
権田が教卓から椅子を引っ張り出すと教室の脇へ移動し、教室内を静観し始める。怜奈は観念したのか一呼吸置くと、ホームルームの進行を引き継ぎ始めた。
「というわけで、自薦、他薦ある方は挙手をお願いします」
もちろん、誰も動かない。
当たり前だ。マンモス校である未来学園の文化祭は普通の文化祭とは規模が違う。そうなれば必然的に仕事の量も多くなってくる。
俺はざっとクラス内を見渡す。
恐らく選ばれるのは洸一だろう。なぜなら洸一は普段の素行を置いておけば意外とリーダーシップ性があるし、変に真面目な部分も相まってこういう場面では割りを食うことが多い傾向にあるからだ。
クラスの空気が徐々にそんな風向きへ向かっていることを勘付き始めたのだろう。底冷えした空気の中、まるで小学生のようにピンと右手を上に伸ばして挙手をするバカがいた。
「はい洸一」
「俺は天野君を推薦します!」
思考が一瞬フリーズする。クラス中の人間が俺に視線を集めていた。
「天野君は夏休み中ずっと入院していたので陸上の大会に出場することができず、悔しい思いをしていました! だから文化祭実行委員としてこれからの学校生活に彩りを持たせてあげることが優しさだと思います!」
「おい洸一ふざける」
「なるほど噂のヒライシンボーイっていう話題性もあるから出し物の宣伝にも使えそうね。他に候補者はいないかしら? それじゃあ合理的に考えて天野君が文化祭実行委員で決定ね」
驚異的なスピードで洸一の暴論が怜奈によって受理される。そして誰も怜奈の小ボケにツッコミを入れることのできないテンポ感で俺は文化祭実行委員に選ばれてしまっていた。
「それじゃあ次は文化祭の出し物を決めましょう。天野君、板書をお願いできるかしら」
心の中でシンデレラガールみたいに言うんじゃねえとツッコミを入れながら大人しく壇上へ登り、出てきた候補を一つずつ板書していく。そして黒板いっぱいに羅列された出し物を見て、大雑把に実現不可能そうなものなどを削り取っていく。
議論は熾烈を極めた。
文化祭実行委員を決める時の空気はどこへやら、クラスが一つの議会となり、積極性を持つ生徒たちが自分の持つ主張をぶつけ合う。そして議論はホームルーム終盤へともつれ込み、放課後へ延長されるかと誰もが思い始めた時だった。
「――駄目ね、全然駄目だわ」
それまで一切主張をせず、議長としての職務を全うしていた怜奈の突然の暴走にクラス中の視線が集中する。
「この程度じゃあ大した収益は見込めないと言ったのよ。アンタたち、この程度の出し物で得た利益だと碌な打ち上げもできないわよ」
普段の怜奈なら人前で「アンタ」なんて乱暴な言葉は使わない。俺と洸一はついに優等生の化けの皮が剥がれるのだろうかという期待と不安の入り混じった視線を怜奈へと向ける。
「考えてもみなさい」
怜奈が教壇へと駆け寄りながらクラスメートたちに問いかける。
「この学園の文化祭は毎年、あまりもの疲労で倒れる生徒たちで溢れるにも関わらず、一向にその負担を減らそうとしないわ。そのくせ、生徒たちが得ることのできる利益は文化祭で得られる収益だけ。つまり出店以外は論外よ。演劇なんて選択したら何十公演やらされるか分かったもんじゃないわ」
クラスの脳裏に去年の苦い思い出が蘇る。高等部に進学してから初めての文化祭。中等部の頃に客として来ている分には気付かなかったが、安易に演劇なんて選んだが最後、主要アクターが疲労によって次々と倒れ、繰り上がりに次ぐ繰り上がりで大木(B)を演じていた俺まで主演を張る事態に陥ってしまったのは苦い思い出だ。
「近年の傾向だと、未来工業のバックアップを取り付けて今までにない新たな戦略を見せたクラスが売り上げを伸ばしているわ。昨年だと確か、プロジェクションマッピングのシステムを導入したお化け屋敷が優勝していたわね。……これらの前例を考慮に入れ、今年この二年十五組が行うのは」
怜奈の演説にクラス中の人間が息を呑む。いつの間にか普段とは様子が違う怜奈の語り口調に皆聞き入ってしまっていた。何かのパフォーマンスだとでも勘違いでもしているのだろうが、残念ながらただ単に寝不足で機嫌が悪いだけだろう。
「……行うのは?」
緊張した面持ちでクラスの副委員長である男子が、怜奈の言葉尻を復唱する。
「ここにいる天野誠也の力を借りるのよ」
「……は?」
思いもよらなかった言葉に、俺の間の抜けた声が教室に響き渡る。
「彼の両親は未来工業の研究者として勤めているわ。その研究内容は『幸福指数の計量化』。人間の幸福度を数字で表すことができる技術を医療機器などに転用するための研究を行っているの。私たちは、それを利用させてもらう」
怜奈が俺の両親の研究内容を知っていることにも驚いたが、何よりその内容を理解して喋っているように思える。怜奈が頭が良いことは知っていたが、どうやら俺の想像していた域を遥かに超えているようだ。
「んで、結局俺らは何をするんだ?」
再び暴走し始めそうな兆候を察知して軌道修正するため洸一がフォローを入れる。
怜奈は小さく咳払いを行うと、クラスに静寂が訪れるまで溜めに溜めて、次の言葉を紡ぎ始めた。
「――メイド喫茶よ」
それお前の趣味じゃねえか、とは口が裂けても言えなかった。
◆
「天野君、第七会議室へ向かう準備をしてもらえるかしら」
「……ああ、すぐに準備するよ」
時は経過し、現在は昼休憩の時刻である。めでたく文化祭実行委員へと選出された俺たちは早速文化祭実行委員会の会議へ赴くこととなっていた。
「それにしても驚いたね、園宮さんってあんな風にプレゼンもできるんだ」
「本当、園宮さんって美人なだけじゃなくて何でもできるから憧れちゃうわよね」
午前の授業中、教師に見つかることなく器用に寝ていた怜奈への賛辞を聞き流しながら俺の席へとやって来た怜奈と供に移動を始める。
そこで初めて、違和感を覚えた。
「怜奈、その腕輪はどうしたんだ?」
怜奈の右手首に、見覚えのない『シルバーのブレスレット』が巻かれていた。怜奈が着けるにしては武骨な、それでいて機能性のみが重視されているようなデザインである。少なくとも怜奈の趣味でないのは明白だ。
「何よ、アンタこれが気になるの?」
腕輪を付けている左手をひらひらと動かしながら、怜奈は悪戯な笑みを浮かべる。
「これは貰ったのよ。三十代前半の素敵なオジサマにね。……そんなに怖い顔しないでよ。これは」
タネ明かしをしようとする怜奈の背後を、オレンジ色の目立つ髪がスッと通り過ぎた。
「――急がないと、会議が始まってしまいますよ」
怜奈にだけ聞かせるような、か細い声でそう呟いたのは中学生のような小柄な少女だった。
身長は怜奈よりも一回り小さく、オレンジ色の髪をビー玉のようなアクセサリーでおさげにしている彼女は恐らく一年生なのだろう。あのネクタイの色は去年俺たちが付けていたものと同じものである。
少女は一瞬だけ俺へ視線を移すと、静かに会釈をした。
今の言葉にはどういった意味が込められているのだろうか。俺の脳内は勝手に少女の言葉を反芻させ、その言葉の真意を探ろうとする。
「――そう。私には誤解を解くことすら許されないのね」
だからだろうか。怜奈が苦い顔で零した言葉を上手く聞き取ることは叶わなかった。そして怜奈と同じ大きさのクマを怜奈同様ファンデーションで隠そうとする彼女の顔に酷く明瞭なデジャヴを感じていた。