1. アニスは不敬を気にしない
新月の夜。
クレイドロフ・ヤレンは、執務室の机の上でペンを走らせていた。
「まったく、何で失敗したんだ。手練れを相当数投入したんじゃなかったのか。お蔭で仕事が増えてしまったじゃないか」
他に誰もいない部屋の中で、苛立ちが籠った呟きだけが響いていた。
と、クレイドロフは目の前に人の気配を感じた。
ペンを動かしていた手を止め、顔を上げると扉の前にポニーテールの若い女性が一人立っていた。仕立ての良い服を着ているが、スカートではなくズボンを履いている。腰に剣を帯びていることから見ても騎士だと思われた。しかし、これまで屋敷の中で見たことが無い顔だ。しかも、扉を開けた音がしなかった。
「貴様は誰だ」
暗殺者である可能性を想定して、クレイドロフは返事を待たずに席を立ち、脇に立て掛けてあった杖を手にする。
「お初にお目に掛かります、子爵様。私はアニスと申します」
アニスは胸に手を当て、優雅に騎士の礼をした。
「何をしに来た。貴様をここに呼んだ覚えはないぞ」
「そうでしょうか。子爵様は、先日盗賊ギルドに依頼して、南の公爵様の使者を襲わせましたよね。幸いにも使者には大事はありませんでしたが、命が狙われたことには変わりありません。であれば、ご挨拶しない訳にはいかないでしょう、使者の姉としては」
アニスの言葉は丁寧であったが、その目には殺意が籠っていた。
「そうか。私にとって貴様は無価値と言うことだな。では、ここで燃やし尽くしてくれる」
クレイドロフは杖に魔力を籠め、攻撃の体勢を整える。
しかし、アニスは動こうとしない。
「こんな部屋の中で火魔法を使うと屋敷を燃やしてしまいますよ」
その言葉にクレイドロフはフンと鼻を鳴らした。
「莫迦が何を言っている。火魔法を極めた私なら、部屋を燃やさずに貴様を燃やすことなど造作も無いわ」
「極めたと言うのは本当でしょうか?その杖があってこそのようにお見受けしますが」
図星を刺されたクレイドロフは、いきり立って吠える。
「ただの騎士の分際で、どこまで私を愚弄する気か。いい度胸だが、度胸だけでは私には勝てぬと思い知れ」
クレイドロフは十分に魔力を籠めた杖を掲げ、狙いを定めて力ある言葉を叫ぶ。
「フレイムバースト」
杖から飛び出した紅蓮の炎の塊が、真っ直ぐアニスに襲い掛かる。
「見ろ、これが精度を極めた魔法の技だ。もっとも、自分が燃やされては見ることもできないがな。まったく、身の程知らずが」
相手を始末できたと考えたクレイドロフは留飲を下げ、炎が燃え尽きるのを待つ。が、少しして様子がおかしいと思い始めた。
普通なら燃え尽きたところから形が崩れて行く筈なのだ。
なのに目の前の相手は、いつまでも原形を留めている。しかも、炎が徐々に弱まっている。
そして所々の炎が消えていき、その下から淡く白く光る膜に覆われた相手の身体が現れ始める。遂にはすべての炎が無くなり、相手の身体全体を覆っていた白い膜も消え去った。
「確かに屋敷は燃えませんでしたね」
何事もなかったかのように話すアニスに、クレイドロフは恐怖の念を禁じ得ない。
「まったく魔法が効かないだと?そんな人間がいる訳が――」
そう言い掛けたところで、クレイドロフは心当たりがあったことを思い出す。
「ま、まさか。貴様、魔女か?」
裏の世界でまことしやかにささやかれていた噂に、魔女には魔法が通じないとの話があった。クレイドロフは、そんなことはあり得ないと鼻で笑っていたが、まさか本当にそのような存在がいたとは。
「あら、バレてしまいましたか。魔女のことをご存知であれば、魔女の正体を知った者の末路もご存知ですよね?」
アニスは剣を鞘から抜くと、あっという間にクレイドロフの鼻先に迫り、剣をその胸に突き立てる。
クレイドロフは、一言も発することができずにこと切れた。
クレイドロフの身体が崩れ落ち、アニスは自然と抜けた剣を一振りしてから鞘に戻す。
その時、ガシャンと大きな音を立てて傍らの窓のガラスが割れ、そこから人が一人、部屋に飛び込んで来た。
黒装束に身を包んだツインテールの童顔の女性だ。
「わざわざ目立たない格好をしているのに、ツインテールは隠さないって変だよ、サラ」
それまでとはガラリと話し方を変えたアニスが指摘する。
「これは我のトレードマークだからな」
悪びれることなくサラが返す。
「いや、だから、隠密行動の時は普通トレードマークを隠すよね」
アニスが突っ込んでもサラは平気な顔だ。
「我のことより、咎められるべきはお主の方ではないか。魔女たるもの、政には不干渉、王家の跡目争いへの関与は以ての外だと分かっておるだろうに」
「勿論知ってるよ。だけど、こいつは私が魔女だって見抜いたから仕方なく――」
「バラしたのはお主だよな」
サラがジト目でアニスを見る。
「そーかなー、いやぁ、あれは、不可抗力じゃないかなー」
目を逸らすアニス。
「どの口が不可抗力と言うのだ、まったく。そもそも貴族社会に取り込まれておる時点で問題なのだぞ」
「あれは、シズの近くにいるためだから仕方がないよ。それはともかく、こいつのことはサラ達だって目をつけていたんじゃないの?魔導国との裏取引にしたって、人間社会の活動と考えれば、そう簡単に魔女は手出しできないもんねぇ」
「だからこうして後始末に来ておるではないか。文句あるのか?」
サラはフンムと腕組みをして尊大な態度を示す。
「ねぇ、サラ。それ、逆ギレって言うんだよ」
「お主に言われとうないわ。ともあれ、ここは第一王子派の仕業か第一王女派の仕業か曖昧になるようにしておいてやる。お主はさっさと妹のところに戻ってやれ」
「ありがと、サラ。恩に着るよ。あと、今回の情報の出所の件、分かったら教えてね」
アニスはサラが入って来た窓枠に飛び乗った。そこにサラが後ろから声を掛ける。
「ああ、それほど時間は掛からぬだろう。もしかしたら、お主、踊らされていたやも知れぬぞ」
「うん、分かってる。持ちつ持たれつのところはあるとは思ってるけど、実際にシズに危害が及ぶことがあったら、あのオバさんでも許すつもりはないから」
後ろを振り向いて笑顔を見せると、アニスは夜の闇に紛れ込んだ。
クレイドロフの別宅は、王都を望む丘の上にあった。貴族なので王都の中にも屋敷はあるのだが、貴族街の中では後ろめたいことをするには不向きなのだからだろう、クレイドロフは丘の上の別宅にいることが多かった。お蔭で襲撃するのも楽だった。
しかし、とアニスは思う。
王都を見下ろす丘の上とは些か悪趣味だ。クレイドロフは子爵とは言え、魔導国との裏取引でそれなりの財産を築いており、第二王子派の中でも発言力はそれなりにあったと聞いている。だから独力で丘の上に要塞のような別宅を構えることは問題なくできたのだろう。が、見方を変えれば、自分の住まいから王城を見下ろしていることになる。
ある意味、自分の主である第二王子すら内心では下に見ていたのかも知れない。
それだけのことをしても、派閥の中にその行為を咎められる者がいないために調子に乗っていたのだろう。だが、もしかしたら、それによって彼は派閥の中でも孤立していており、南の公爵の使者を襲わせることで、自分の有能さを示したかった可能性も。
いや、そんな大層な話ではないな。
クレイドロフは財力はあったのだろうが、アニスの目からは小物にしか見えなかった。彼が気にしているのは大局ではなく、自分の周囲のみ。だから、クレイドロフが魔導国と通じていた証拠をシズアが王都に運ぶと言う情報を得て、シズアを襲わずにはいられなかっただけ、くらいが関の山か。
夜の闇の中、身体強化をして走るアニスの前に王都の城壁が見えて来た。人の背丈の何倍もの高さのある城壁は、そのままでは飛び越えることはできそうにない。だが、アニスは事もなげにその城壁を飛び越え、城下町の屋根伝いに貴族街を目指す。
ザイアス子爵の屋敷の庭に降り立ったアニスは、その屋敷の通用口から入り、二階の部屋を目指した。
部屋の前に立っている護衛に挨拶し、軽く扉を叩く。
「誰?」
「アニスです」
「入って頂戴」
「失礼します」
お決まりのやり取りを経て扉を開け、部屋に入る。
そこには少女が一人だけ、椅子に座って本を読んでいた。長い髪をハーフアップにしたその顔立ちは、アニスによく似ている。
「ただいま戻りました、姫様」
アニスの言葉に顔を上げた少女は、ぷくっと頬を膨らませた。
「ちょっとアニー、二人きりの時にそういう他人行儀な言葉遣いをしないでって言ったわよね」
「ごめん、シズ。仕事気分が抜けなくて」
「こんな時間まで仕事とか、何してたの?」
シズアは心配そうな表情でアニスを見る。
「えー、いや、外で見回りしていただけだよ。不審者がいないか心配で」
「そんなの屋敷の警備隊に任せておけば良いじゃない。ウチの警備隊は優秀なんだから」
幾ら優秀でも、私が屋敷から出入りしたことを察知できていないんだけどね、とアニスは心の中で呟く。
「できるだけそうするけど、貴族社会は色々とキナ臭いから、どうしても心配になっちゃうんだよね」
「アニーが心配してくれるのは嬉しいのだけど、私だってアニーとお喋りして息抜きしたいのよ」
上目遣いにおねだりをするシズアが可愛すぎて、アニスは抗うことができない。
「うん、なるべくシズの傍にいる」
シズアに手を出す奴は自分で成敗するつもりだったが、そんな奴のためにシズアとの時間が減るのも癪な話である。今夜のような仕事は、次からはサラに丸投げしようかなとアニスは真剣に考え始めた。
「アニーは明日は一緒にいてくるのよね?」
「明日ってどこかに行くんだっけ?」
「王城に決まっているでしょう?そのためのお使いなんだから」
シズアに手を出す害虫をどう駆除するかでアニスの頭は一杯だったが、頑張って頭を切り替えようとした。
「えーと、そうだったね。と言うことは、オバさんに会うってことか。面倒なこと押し付けられないと良いんだけど」
アニスは溜息を吐いた。
そんなアニスをシズアはジト目で睨む。
「王女殿下のことをオバさんって呼ばない」




