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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異世界恋愛短編

そして令嬢は悪魔の戯れに堕ちた

作者: 空原海




 それでは私めが、お可哀想なお嬢様に、たくさん気持ちのよいことを教えて差し上げますね――……。



 細くて長い指先をこちらに伸ばし、林檎酒(カルヴァドス)を注いだような瞳を細めて嗤う、悪魔。

 この大陸の人間とは違う色の肌。褐色の肌に小麦色の髪。薄いのに官能的なくちびる。長い首。すらりとしなやかな手足。

 厚くはないけれど薄くもない体は美しい獣のようで、均整がとれている。

 どこか造り物めいた、理想を形にした神話の登場人物の彫刻のような、この大陸の人間とも異なる体型。異邦人。

 甘い死臭を漂わせる、信仰を(たが)える、異端の者。


 そのおぞましい手を、取った。







 とても寒い日だった。

 鈍色(にびいろ)の空を見上げれば、はらはらと白い粉雪が舞う。

 かじかむ手を擦り合わせ、はあっと息を吹きかけると、少しだけ指先に感覚が戻る。それでも突き刺すような痛みと痺れは、もうあまり感じない。


「もどりたくないなぁ……」


 ポツリと呟くも、このまま路地でやり過ごすことも叶わない。してもいいが、翌朝には凍死体が一つ道端に転がってカラスに(つつ)かれている。

 まだ夕方前だというのに既に薄暗く、このあたりに住まう者は皆、家にひっこんでいるのだろう。しんと静まり返っていた。

 足元をじっと見つめると、はたり、はたり、と軽やかに揺れて落ちる雪の粒が、薄汚れて磨かれていないブーツに当たって消えていく。


 はらはら。ひらひら。


 空中で踊る小さな、白い雪の粒。まだ軽くて湿り気のない雪は、時々起こる風によって舞い上がったり、渦を巻いたり。

 雪は自由に、空を舞う。


 しかし空を覆い尽くす不穏な雲は厚く、陽の差す余地はない。この可愛らしい雪の舞いは、いずれ強くうねり吹き荒ぶ、荒々しい暴力へと変貌するのだろう。

 継母がしならせ、打ちつける(むち)のように。



 はあっと息を吐くと、目の前に真っ白な靄。仕方がない。帰らなくては。

 今日は市場に送り出す奴隷の選別の日だと今朝、使用人が噂しているのを耳にしていた。

 おそらくもう終わっているはずだ。

 何もできず、ただこうして逃げているだけの無力な自分。見ないふりをしたところで、売買される奴隷がいなくなるわけではない。

 知らなかったことにして、自分に咎はないと思い込みたいだけだ。

 こんなに卑怯で薄汚い考えをする醜悪な存在だから、大陸を統べる唯一神オーディン様はわたくしをお見捨てになられたのだろう。


 魔女(ヘクセ)の名を持つ者に、神も情けなどかけない。







 帰宅すると案の定、奴隷選別は終わっていた。

 けれど売りに出されなかった一人の奴隷が屋敷に残されていて、継母がその奴隷にニヒト(なにもない)という名を付けていた。

 ニヒト。

 褐色の肌に小麦色の髪。蜂蜜を溶かし込んだような甘い琥珀色の瞳。

 何より、あの匂い。

 何かが腐ったような、甘ったるい腐臭。それでいて芳しく、不思議と心が高揚する刺激的な香り。

 異邦人の奴隷がまとう匂いは、魂の根源を震わせるような、抗えない何かを漂わせていた。


「お嬢様。私めはニヒト。どうぞ()()()してくださいね」


 継母と異母姉が愉しそうに、新しく買った奴隷の話に興じていたとき。その隙を見てニヒトがそっと近寄り、耳元で囁いた。

 ふわりと香る匂い。頭が痺れるような。甘く芳醇(ほうじゅん)な、朽ちてゆく前の花の匂い。


「え……。わたくしと……?」


 振り返るとニヒトは美しい顔に甘美な微笑を浮かべ、わたくしから離れた。

 継母と異母姉が揃って顎をツンとそらしてニヒトを呼ぶ。

 従順に侍るニヒトは、側に呼ばれたことが心からの歓びだと言わんばかりの満面の笑みを浮かべ、歓喜に打ち震えんばかりだとでもいうように、継母と異母姉をうっとりと見つめた。

 その熱っぽい眼差しと仕草に継母と異母姉は虚栄心を満たされたようだった。


 継母と異母姉は奴隷のニヒトにエスコートさせ、部屋を出ていく。

 通りざま、偶然を装い手にした扇でわたくしの頬をぶって笑う継母。

 そこにはいつもの敵意や嫌悪の他に、何かベットリとこびりつくような嫌な匂いがあった。そしてその匂いは、ニヒトに向けられているような気がした。







「なんておぞましい子! この年でもう男を誘惑するなんて。穢らわしい! 母親そっくりだわ!」


 母譲りのこの黒髪を憎んで、継母は度々鞭で打つ。

 おろした髪というのは、男に媚び誘う意味がある。だから娼婦は髪を結わない。だから髪を結わずに手入れもされず、油でベトついた黒髪を垂らしている継子(ままこ)は穢らわしい。

 そういう論法だ。


 別に好き好んで髪をおろしているわけじゃない。

 不器用で髪を結うのが苦手だということもあるけれど、髪をくくるリボンも紐も、何もないのだ。

 それらはどんなにみすぼらしいものであっても、全て異母姉が奪って捨ててしまうから。「いやだ。公爵家の嫡出子様が、こんなにみすぼらしいリボンをつけているなんて、とても恥ずかしくて身につけさせられないわね?」と。


「どうしてこんなにみっともないの? 痩せこけてくちびるは乾いているし、髪は艶もない。ねえあなた、ちゃんと体は洗っていて? 孤児のように臭うわ。おお嫌だ。()()が公爵家を継ぐだなんて。お父様にお考え直していただかなくては」

「本当ねぇ。そうよ。()()()が公爵家を継ぐべきなのよ。美しく気高いあなたこそが。ねぇ、だってそうでしょう? あなたは公爵様の尊い血を引くのだもの」


 継母と異母姉はそれは愉しそうに笑う。


 無言で無表情で、身動ぎもせず。そうして無為に時間の過ぎるのを待つ。継母か異母姉は時に気まぐれを起こして食事の残りを恵んでくれることもあるし、癇癪(かんしゃく)でいたぶることもある。



 公爵家に相応しい装いも出来ない嫡出子の存在が恥ずかしくてたまらないから「あなたのためなのよ」と笑いながら、継母が。異母姉が。代わる代わる地下牢に閉じ込める。

 (かび)臭く湿った冷たい匂い。

 運が良ければ翌朝、誰かが地下牢から連れ出してくれる。


 三日ほど忘れられ、父公爵がわたくしの不在を指摘し、連れ出されたこともある。

 そのときはさすがの父公爵も眉を(ひそ)めていたように思う。衰弱していたこともあり、父公爵がどのような指示をしたのかは知らない。




 厩舎(きゅうしゃ)に押し込められ、馬とともに藁の上で寝たこともある。

 踏まれないように出来るだけ端に寄って身を縮めて一晩を過ごす。馬糞(ばふん)(わら)、馬の油、躍動感溢れる命の匂い。


 翌朝厩舎に馬の世話をしにきた馬丁(ばちょう)が気がつき、屋敷に戻って報告に行く。面倒くさそうな顔をした使用人が迎えに来る。屋敷へ戻る途中、足を蹴られたり髪を引っ張られたり頬を打たれたり、継母、異母姉、侍女長や他使用人への愚痴を聞かされる。

 それはまだいい方で、すぐに屋敷に知らせに戻ってくれる馬丁ばかりではない。


 厩舎の隅で身を縮めるわたくしを見つけ、下卑て厭らしい笑みに口を歪める男がいた。

 飼葉や馬糞で汚れたブーツで強かに腹を蹴り上げられ、藁の上に寝転がされる。べっとりとこびりつく苦くて酸っぱい匂い。

 最初は男は自らの下履きを脱いで見せつけるだけだった。その次は手を無理やり引かれた。その次は頬に(なす)りつけられた。その次は。その次は――。


 純潔までは散らされなかった。

 そこまではたとえ()()()()()()()()()()相手だとて、仮にも公爵令嬢だと踏みとどまったのかもしれない。単純にわたくしがまだ幼すぎたからかもしれない。けれど劣情を発散できぬ代わりにと散々打たれ、蹴られ、嬲られた。継母や異母姉への恨みを口にしながら。


 それでも彼等彼女達らは、決して父公爵への不平は口にしない。なぜなら生粋の貴族であるのは父公爵だけだから。

 継母は元はそこそこ裕福な商家の娘。父公爵の後妻に入ったことで継母の名は公爵家の家系図に加えられたが、異母姉は庶子で、その名が貴族名簿に載ることはない。

 父公爵の亡くなった正妻との子である嫡出子は、わたくしだけだ。



 亡くなった母は伯爵令嬢だったそうだ。

 母の生家はこの国が近年推し進める議会制に反発する旧体制派の貴族の一つで、派閥を同じくする父公爵との縁はそこで繋がったのだという。

 完全なる政略結婚。

 継母曰く、母が父公爵の美貌と権力に惹かれ、強引に結んだ婚姻だったらしい。

 真実は知らない。

 母はわたくしを生んですぐに亡くなってしまったし、母の生家は立憲君主制の確立化を阻止せんとクーデターを企ててしまった。母の生家は今はない。

 だからわたくしは貴族であり叛逆者の子孫でもある。使用人がわたくしを軽んじる理由の一つ。


「薄汚い国賊め」

「生きていて恥ずかしくないのか」

「その名の通り、魔女そのものだ」


 魔女。この国では重罪を犯した女囚人の隠喩になる。重罪人の子孫だから魔女。

 わたくしの名はヘクセ。ヘクセとは魔女を意する。生まれながら魔女と呼ばれる重罪人。


 そんな魔女(わたくし)を父公爵は一度だけ、抱き上げてくれたことがある。

 優しく温かいオリーブ色の瞳を細め、そこに浮かぶ確かな慈しみを見た。

 父公爵の頭に手を伸ばし、お日様の匂いのする亜麻色の髪を小さな手で撫でると、父公爵は頬を緩ませた。そして父親らしい言葉をかけ、わたくしの額に口づけてくれた。

 よく晴れた日だった。青い空と白い雲と、夏の訪れを知らせる緑の匂いと、茉莉花 (まつりか)の甘い匂い。

 父公爵の亜麻色の髪とわたくしの黒い髪が風になびいて、きらきらと光っていた。







 異母姉の癇癪は大抵、茶会のあと。

 貴族の正式な茶会に招かれない異母姉は、継母の生家である商家の伝手を用いて、継母と共に茶会を開く。

 集まるのは最も身分の高い者で、地主貴族(ユンカー)夫人。あとはほとんどが商人のようなやや裕福な家の者。まれに政治活動家、思想家のご夫人やそのご子息令嬢も公爵家の名に財産目当てに集まることもあるけれど、真っ当な家の者は決して参加しない。


 衰退しつつあるとはいえ、この国で二つしかない公爵家の一翼。であるにも関わらず、忌避すべき家。

 先のクーデターで関与は否定されたが、同派閥であった前妻の生家を思えば、当然皆危うきには関わりたくない。その上この国で否定される庶子をまるで直系であるかのように扱うなど、貴族であれば誰もが眉を顰める。



 この国のもう一翼の公爵。

 現ゲルプ王国国王の弟君、グリューンドルフ公爵。王弟殿下は十数年前に臣籍降下し、この国で二人目の公爵となった。

 そしてその時から父の公爵としての地位は、瓦礫の上にある。

 王家の血を引く公爵家。そんな驕りを翳す意味も価値もなく、あとは衰え廃れてゆくのみ。

 父公爵は現状を理解したうえで、享楽に興じ現実から目をそらしている。継母は変わりゆく政治体制や貴族勢力について、理解ができないらしく、我が家は旧き由緒ある公爵家なのだから、と胸を張っている。







「なんとも愚かですねぇ」


 目の前の異邦人は金色の目を三日月のように細めると、わたくしにそう言った。


「なぜ、あなたはそんなことをしっているの?」

「ああ。それはですね。私めが悪魔だからです」

「あくま? どうして? オーディンさまにおいのりしないから?」


 悪魔だと自称する褐色の肌の異邦人は奴隷で、先日父が継母に請われて買った()()だ。奴隷はわたくしと同じで人ではない。だからなのか、他の使用人はわたくしを疎んじるのに、この自称悪魔の奴隷はわたくしに色々なことを教えてくれる。

 今のように、我が公爵家が斜陽なことだとか。父公爵が捨て鉢なことだとか。継母に現状認識能力がないことだとか。異母姉が未婚の女の身ながらこの奴隷に色を仕掛けようといった、神に背く悪徳を企てていることだとか。


「オーディンですか。懐かしいですね。彼のことは神々の中でも、そう嫌いではありませんよ。ロキの息子なんぞに(しい)されるなど愉快な神でした」

「オーディンさまをばかにしたらいけないのよ!」


 拳を振り上げて反論すると、奴隷は「すみません。あんな間抜けが唯一神だと思うと、笑いが止まらなくなりそうでしたので」と全く反省していないようなことを言う。だからわたくしはポカリと殴った。すると奴隷は長く美しい指を、しなやかな動きで空中に一振りした。


「これで大丈夫。お嬢様が私めを殴っても蹴っても。何をなさっても、お嬢様が害されることはありません」


 何のことかよくわからず首を傾げるが、奴隷はその美しい手でわたくしの頭を撫でるだけだった。窓の外で何かが潰れてひしゃげたような、ぐちゃり、という音がしたのは気になったが、窓の外へ視線を向けようとすると、奴隷がわたくしの頬に手を添えて目を合わせてくる。琥珀色の目は角度によって黄金色に輝いて、とても綺麗だ。


「それにしても死した神に祈るとは、この大陸の信仰は面白いですね。オーディンの魂に現状、神の力などないでしょうに」

「なにをいっているの? オーディンさまはわたくしたちをみまもってくれているのよ。しんかんさまがそうおっしゃってたもの」

「ふふふ。お嬢様は本当に素直で愛らしい。オーディンが仮に見守っているのだとしたら、私めがお嬢様に触れられるはずがありませんよ」

「なぜ?」


 首を傾げて奴隷を見る。奴隷はオーディン様を信仰してはいないけれど、異邦人だ。だから仕方がない。

 それにこの奴隷はとてもいい匂いがする。これまでに嗅いだことのない、とても甘くて温かい匂い。焼きたての林檎のような。レーズンとバター、それにブランデーを一滴垂らした、甘酸っぱくて温かい焼きリンゴ。それによく似た匂い。


「私めは悪魔ですからね。死してさえいなければ、オーディンが私めの存在を見逃すはずはない。ましてや私めが纏わりついているのは、あの者達の好む清廉な魂の持ち主。あのオーディンが雷槌を下さぬ道理はないのです」


 それならばわたくしは、オーディン様に見捨てられたわけではないということなのだろうか。

 毎朝毎晩欠かさずオーディン様に祈りを捧げてきた。醜い魔女の祈りなどご不快だろうかと不安になりながらも、それでも父公爵の犯す罪を止めてほしくて。


「この家の人間の魂は皆淀んでいて不味そうで、まったく食指が動かないのです。ですから復讐の対価に美しい魂をお持ちのお嬢様を喰らおうかと思っていたのですけれど……」


 奴隷はにっこりと笑っているのに、なぜか全く親しみの持てない笑い方をした。







「お嬢様、奥様には新しい情夫をあてがってまいりました。そろそろ私めも飽いたところでして」

「……その新しい情夫とやらは、人間なのよね?」

「お嬢様が私めをどう考えていらっしゃるのか、よくわかるお言葉ですね」


 ニヒトとの付き合いも五年を過ぎた。



 ニヒトは奴隷の身として買われ、もともとそのためであったからと、その晩からすぐさま継母との閨房の語らいに就き、他の雑用は免除された。そしてこの屋敷に居ついて間もなく、ニヒトは気まぐれにわたくしの部屋を訪れるようになった。

 しかしそれを知られたことはない。使用人達にも、継母にも異母姉にも父公爵にも。


 ここに来るまでに誰にも会わなかったかと尋ねたとき、ニヒトは「そんな迂闊なことを私めが犯すはずがありません」と言った。

 優しく美しい微笑みを浮かべ、わたくしの頭を撫でて「ですからご安心ください。お嬢様が害されることは、今後なくなります」と。

 そんな夢のようなことが起こるはずもないと思ったけれど、気にかけてくれているという事実が嬉しくて「ありがとう」と笑った。


「お嬢様の笑顔は私めがお守りしますよ」


 まるで騎士のようなことを口にする物腰の柔らかい、まるで荒事に向かなそうな異邦人が、哀れだと思った。こんなにも美しく、優しい人なのに。

 異邦人だというだけで、奴隷の身に貶され、継母の情夫などをさせられている。


 けれどその後、わたくしを苛んでいた使用人達の嫌がらせはぱたりと途絶えた。

 継母と異母姉も、顔を合わせれば嫌味を投げられるが地下牢や厩舎に押し込まれることはなくなったし、食事も一日二食、きちんと運ばれるようになった。

 そしてニヒトは堂々とわたくしの部屋に出入りするようになった。



 ニヒトは公爵家の事情のみならず、様々なことを教えてくれた。

 この国の大陸における位置関係、国家間、および国内情勢について、現王族の権威、思想、パワーバランス、公としての顔と私としてのお人柄、貴族名鑑に記載されていない裏事情を含めた国内貴族関係者の名前、貴族の勢力図。その他諸々。

 家庭教師がつけられるはずのない哀れな公爵令嬢に、基本の読み書きから算術、天文学、幾何学、文学、歴史、地理に哲学といった男子のする学問も、望めば指南してくれた。女子に必須の刺繍やレース編み、基本の礼儀作法に、宮廷作法、ダンス、家政の取り仕切り方なども。けれど乗馬と護身術だけはせがんでも教えてくれなかった。


「馬に乗るのは嫌いなのです。蚤の心臓のように臆病で、何かあればすぐに混乱に陥り振り落とそうとしますからね。これほど使えぬ獣もない」


 にっこりと微笑んでニヒトは愛らしいつぶらな瞳を向ける馬を撫でる。その馬は父公爵の愛馬だ。


「その割に可愛がっているようだけど」

「愛玩動物ですから。これと奥様を(つが)わせたら、さぞ面白いかと、」

「やめなさい」


 うっとりと瞳を細めて淫らな妄想に耽り始めたニヒトを止める。この自称悪魔の妄言にもいい加減慣れた。

 とはいえ万事がこの調子なのだから、継母にあてがった新しい情夫とやらが人間なのか懸念がもたげるのも仕方のないことだと思う。





 継母に新しい情夫をあてがったとニヒトは言ったが、その日からニヒトは夜、継母の寝室へは行かなくなり、わたくしの部屋へ就寝前の挨拶に訪れるようになった。そのとき、ついでとばかりに護身術を教えてほしいと乞うた。優美で繊細で、とても武力を行使できなさそうなニヒトを揶揄う意もあった。

 けれどニヒトは首を縦に振らない。


「やはりニヒトは荒事には向かないものね」


 仕方がない、と嘆く素振りで小さく溜息をつくと、ニヒトが片方の眉をぴくりと持ち上げる。あまり感情の起伏を示さないニヒトにしては、とても珍しい。彼はとても誇り高く、他人に揶揄されてもそのほとんどが薄っすらと酷薄で美しい微笑を浮かべるだけで終わる。ニヒトが感情を乱す様を見てみたくて、わざと怒らせようと揶揄ってみたこともあるけれど、なんの手応えもなく、軽くいなされてしまう。

 今の言葉の何かが、ニヒトの自尊心に引っ掛かったのだろうか。

 どう返ってくるだろうか。好奇の目でニヒトを見つめていると、ニヒトは結局にっこりと微笑んだだけだった。


「お嬢様ご自身が立ち向かわれる必要はございません。お嬢様が害される前に私めが全て駆逐して差し上げます」


 美しい顔でぞっとするようなことを言う。駆逐だなんて、まるで害獣に対する言いようだ。そして実際にその通りにしてしまう。


「……ニヒトはやり過ぎなのです。使用人達の半数以上が屋敷から去ってしまったけれど、彼等に一体何をしましたの?」

「私めは破壊と復讐も得意なのです。ご安心ください。お嬢様の怨みつらみは果たされました」

「怖いことを言わないで。使用人達は母と姉に理不尽に虐げられ従っていただけなの。あの方達にも立場と生活があるの。そしてあの方達の怒りがわたくしに向かうのもまた道理。わたくしは公爵家の嫡子なのですから。さあ今すぐ彼等を解放なさい」


 するとニヒトは困ったようにくちびるに人差し指を押し当て眉を下げる。仕草の一つ一つが色香に溢れ、悪魔と自称するのもさもありなん、と頷きそうになる。


「ですがもう彼等の肉体も魂も、我が下僕が喰らい尽くしてしまったあとでして……。今後は始末の手段と結果について、お嬢様のご意向を伺うことにいたしますので、どうぞお赦しを」

「わたくしの『ご意向』は全て『破壊も復讐もするな』です」

「ああ……。なんと慈悲深い。これだから私めはお嬢様を敬愛してやまないのです」


 うっとりとした目を向けてくるニヒトにげんなりする。


「あなた自称悪魔なのでしょう? 慈悲深いだとか何だとか。そういったものはお嫌いなのではなくて?」

「何を仰せになりますか。悪魔だからこそ、気高く高潔な魂に惹かれ欲するのです。醜く穢れきった魂など、我が身だけで十分ですから」

「それならばなぜオーディン様を厭うの?」

「お嬢様…。まさかお嬢様は神々が真に気高く高潔であると?」


 心底驚いた、とでもいうように琥珀色の美しい瞳をまん丸に見開くニヒトに、こちらこそ驚いてしまう。神が気高く高潔でないならば、一体他の何者が高潔であるというのか。


「当然でしょう。オーディン様こそ、この世で最も尊く気高いお方ですもの」

「お嬢様……」


 可哀想なものを見るような、その憐れみの微笑みを今すぐやめてほしい。


「純粋で穢れなき美しい魂をお持ちのお嬢様に、真実を告げるのは(いささ)か胸が痛みます」

「ならばやめて。わたくしに余計な入れ知恵をしないでくださる? いくらニヒトが異邦人で信仰を違えるとはいえ、わたくしはオーディン様に祈りを捧げているのです」

「左様にございますか…。ああ、お嬢様の敬愛を一身に受けるオーディンが恨めしい。死してさえいなければ、私めが地獄から七十二の軍団を率いて魂まで貶めてやるところを。魂のみとなったオーディンなど、青二才めが匿うのみで退屈で仕方がない」

「……あなたの言っていることが、わたくしには何一つわからないわ……」


 目元に手を当て嘆息すると、ニヒトがもう片方の手を取り、その美しく整った冷たい指でわたくしの手を爪から手首までそっとなぞった。


「私めの主はオーディンではないのです。とはいえ、私めは主に信仰を捧げているわけではありませんが……。強いて言うのならば、現在私めが恭順を捧げるのはお嬢様です。その敬愛するお嬢様が私めの主とは反目する存在、オーディンに信仰を捧げるというのは、いささか気分が芳しくない、ということです」

「わかるようなわからないような……。いえとにかく、わたくしはそんな大層な人物ではありませんし、オーディン様を貶めるような言葉は謹んでちょうだい。わたくしもニヒトの主様を否定いたしませんから」


 跪いて手を撫で続けるニヒトを見下ろし、あえて高慢に顎をそらすと、ニヒトは体を震わせた。その褐色の肌がうっすらと高潮し、琥珀色の瞳が黄金に輝く。

 そしてまるで甘熟した南国の果物のような濃厚で芳醇な香りがニヒトから漂う。


「ああ……ああ……! なんと気高く美しいお嬢様……! ええ、かしこまりました。お嬢様のご命令とあらば、私め、どのようなことでも恭順致します」


 うっとりと狂信者の瞳で見つめてくるニヒトから、そっと身を引く。たいしたことなど口にしていないのに、ニヒトはこうしてわたくしを大層な人物であるかのように扱うのだから、どうにも座りが悪い。

 しかしニヒトから目をそらして内心葛藤していると、ニヒトがブツブツと小声で何かを漏らしている。なんだろう? と耳を傾けてみると、案の定というべきか。またもやオーディン様を罵っている。


「……まったく口惜しい。フェンリルなぞに弑されておらねば、私めがこの手で(くび)り殺してやったものを……」

「ニヒト!」


 ニヒトの手を振り払って厳しい声を上げると、ニヒトはそれまでの憎悪に満ちたおぞましい表情を改め、麗しい顔立ちに柔和で優美な微笑を浮かべる。


「はい。なんでございましょう」

「『なんでございましょう』ではないわ! あなた今、またオーディン様に不穏なことを呟いていたでしょう!」


 厳しく問い詰めようと顔を近づけると、ニヒトは琥珀色の瞳をとろりと細め、頬を染めて近寄せてくるので、思わず身を引いた。


「まさか。私めがお嬢様のお言いつけを破るわけがございません」


 ぐいぐいと近寄ってくるので、その分後ろに引くのだけれど、もともと左右の脚にガタつきのあるスツールに腰掛けていただけだったため、ついにバランスを崩してスツールから転げ落ちる。


「……危ないところでした」


 ニヒトの長くしなやかな手がわたくしの腰に周り、ふわりと膝に載せられる。思わず顔に血が上りそうになるのを堪えるため、ニヒトから顔をそらす。

 ニヒトから漂う香りはいつも甘すぎる。純度の高い酒のようで、酔ってしまいそうで嫌になる。


「ありがとう。でももう平気よ。離してほしいわ」

「はい。お嬢様」


 壊れ物を扱うかのように腰に回されていた手はそのままに、紳士的に差し出された片方の手を借りる。しっかりと手が載せられたことを確認したニヒトは腰を支え、立ち上がる手助けをしてくれる。

 そんなことをしなくても立ち上がれるのに、と(なじ)りたいけれど、足腰がガクガクと震えていることには気がついている。きっとニヒトも気がついていて、何も言わない。


 この奴隷は、本当に悪魔のようだ。


 ニヒトの常人より低い体温と、香りに包まれていては頭が正常に働かない。この異国の美貌もよくない。

 今ではニヒトの纏う香り、そして継母や異母姉がニヒトに向ける熱っぽい眼差しと、そのときに発するベトついて不快な匂いの意味をわかっている。

 だからこそ。わたくしは飲み込まれたりしない。


「それでニヒト? あなたまたオーディン様を害したいような、不穏なことを口走っていましたわね?」


 スツールはガタガタとして頼りないため、ぺたんこの薄い布切れを敷いただけの簡素な寝台に腰掛けるようニヒトに促される。言うことを聞かない足腰が無様に転げないように、ゆっくりと腰掛け、ふう、と息を吐いた。

 ニヒトはそれを確認するとわたくしから離れ、足元で膝をつく。


「いいえ。私めはフェンリルに弑された数多の神々を罵っていただけです。世界の滅亡(ラグナロク)では多くの神々が死にましたから。主犯であるロキですら、あの戦いで命を落としました。お嬢様にも以前、お話ししましたでしょう?」


 この二枚舌め。だけど建国神話については気になる点がある。


「ええ。アス神族と神聖アース帝国の建国神話についてでしたわね。……神官様から伺ったお話とは相違点がありましたけれど」

「それは神官どもが都合のよいように神話を作り変えていますから。でもまあ、大筋は同じことですよ。オーディンは死んだ」

「その後復活なされたはずです」

「復活したのはオーディンの息子のバルドゥールなんですがね……。まぁ、どちらでもよいかと。私めからすれば、苛烈で被虐嗜好のオーディンか、きらきら鬱陶しいバルドゥールか。どちらが信仰対象になろうとも、大差はない」

「ほらまた! オーディン様に無礼なことを!」


 思わず指差すと、ニヒトは鼻先につきつけられた指にそっと触れ、優しくおろしていった。


「お嬢様。私めには構いませんが、相手を指差してはなりません」

「うっ……。ごめんなさい……」


 大変不道徳なこの奴隷は、こうしてわたくしに道徳的指導をする。実際、わたくしの倫理観も道徳も礼儀も作法も。ほとんどがニヒトの指南によるものだ。道徳観念や倫理観については、とても不安が残るため、時々神官様にお話を伺って、正していただいたり、それでよいと肯定していただいたりしている。

 つまりニヒトは持論とは別に、真っ当な道徳観念も倫理観も知識としてきちんと頭に入っているのだ。


「お嬢様のその素直な性質。己の間違いを認め、相手の話をきちんと聞くところ。何にも代えがたい美徳です。だからこそ私めはお嬢様を敬愛しているのです」


 自称悪魔のくせに、慈悲に満ちた微笑みを浮かべて頭を撫でてくるのだから、本当に意味がわからない。


「……ニヒトのおかげだわ。わたくしがひねくれずにいられたのは、ニヒトがわたくしの側にいてくれたから」


 そうでなければ、継母と異母姉、使用人からの仕打ち、実父の無関心に心が折れていたことだろう。

 あの日、ニヒトが奴隷として屋敷に残ったとき。わたくしの心は砕ける寸前だった。

 ニヒトはわたくしを救ってくれた。奴隷として買われ、人間としての尊厳を貶められ、屈辱を引き受ける代わりに。


「そんなお顔をなさらないでください」


 一体わたくしはどんな顔をしているのか。ニヒトが困ったように眉を下げている。そして漂う、甘く魅惑的な香りがますます濃くなっていく。

 ニヒトがくすくすと笑う。


「ほうら。お嬢様にはおわかりでしょう? そんな風に私めに同情なさると、私めはますます貴方様を食べてしまいたくなる……。ええ。でも食べませんから、ご安心ください。お嬢様にはきっと相応しい御仁を私めが必ずご用意いたしますから。私めはお嬢様の『真っ当な幸福』をこの目で見たいのです」


 優しい声色に含まれる拒絶の色。でも大丈夫。わたくしは飲み込まれない。

 胸の前で両手を握りしめ、くちびるをぐっと引き締める。


「……わたくしのお相手など、ニヒトが探さなくてもいいのよ。いずれわたくしは、この家を出て、オーディン様に仕えるのですから」


 ニヒトが途端に嫌そうに顔を歪める。


「教会ですか? まさか私めに消滅しろとお嬢様は仰せで? まあ、死した神を祀る教会程度、敵ではありませんが……。とはいえ教会で寝食を過ごすなど、どうにも心身が休まりそうにありません。お嬢様、お考え直しください」

「あなたは何を言っているの? わたくしは女子修道院へ行くのよ。ニヒトは男でしょう。修道院には入れません」

「なんと修道院でしたか。それならば教会よりまだ魔の差しやすいというもの。私め、女体にならねばなりませんね」

「……あなたは本当に、何を言っているの……?」


 ニヒトの言うことは時折、荒唐無稽が過ぎて、頭が痛くなる。奴隷という身を嘆くあまり、妄想が過ぎるようになってしまったのだろうか。

 ニヒトの教養高さに作法、洗練された仕草に口調。奴隷の身に堕とされる前は支配階級の地位にあったのかもしれない。というより、それ以外に考えられない。

 公爵領の屋敷に閉じ込められているため、他王侯貴族の方々と接する機会はないけれど、たまに見かける父公爵の立ち姿や所作よりもニヒトが洗練されているようにすら見えるのだ。父公爵は落ちぶれているとはいえ、由緒正しき公爵。立ち姿だけで貴族であることを示し、使用人や領民の尊敬を集めていた。

 その父公爵よりも更に、為政者を思わせる品と威厳のようなものをニヒトから感じる。只者ではない。それなのに、現状は衰退しゆく公爵家の奴隷。

 やはりあまりの転落ぶりに絶望し、空想の世界へ逃避しているのだろう。


 ふう、と息をついて空想の世界に旅立ってしまったニヒトの瞳を見る。聡いニヒトとはいえ、……いえ、聡いからこそ。現実を直視するのはつらいだろう。このいつでもトロリと夢見るような琥珀色の瞳は、そのせいだったのか、とようやく気がつく。


 ニヒトの苦しみに気がつかなくて、ごめんなさい。


「ねえ。ニヒト。あなたは確かにとても美しいわ」

「ありがとうございます。ですがお嬢様は私めなどより美しい。ええ、天と地のあらゆるものを卓越して美しく気高いのはお嬢様です」


 どう切り出そうかと、胸の前で組んだ両手をぎゅっと握りしめ、気遣いながら声をかけると、ニヒトからうっとりとした顔で親バカかくの如し、といった応えが返ってきた。

 違うの。そうじゃないのよ、ニヒト。


「……ありがとう。だいぶ大袈裟だけど嬉しいわ。でも、そうじゃないの。あのね、ニヒト…………あなたは、男性なのよ……?」


 そう。たとえニヒトが殿方の劣情を誘うほど美しく色香に溢れていても。それでもニヒトは男性なのだ。女性ではない。

 ニヒトはこてり、と首を傾げた。


「私めは神の(ことわり)の外にあるものですから。お嬢様が私めに女体であることをお望みならば、そういたします。――とはいえ、この国で女体であることは、お嬢様をお守りする上で不安が残るのですよねぇ。まあ人間どもの倫理観も慣習も無視すればよいことですが」


 琥珀色の瞳がゆらゆらとろり、とまるでグラスに注いだ酒精のようにゆらめいて、薄いくちびるがにんまりと弧を描く。胸の前で結んでいた手に力がこもり、爪と関節は真っ白。それに気がついたニヒトの細く長い指が強く結んだ手をほぐしていく。優しく触れられただけなのに、いつの間にかわたくしの両の手は離れ、膝の上に置かれている。

 そして目を細めて、まるで何の邪気もないといった顔で「どうなさいますか? 私めは女体になればよろしいでしょうか?」などと聞いてくる。


「…………ニヒトを修道院に入れる寄付金まで出せないわ。自分の分で精一杯。あなたにはよい奉公先をきちんと見つけてあげるから、安心してちょうだい。この屋敷から解放してあげるから」


 だから、そのときまではどうか傍にいてほしい。


「お嬢様。私めに破壊と復讐の限りを尽くせと仰せで? もしくは淫蕩に耽らせよと? それならば私め、お嬢様の魂をいただかなければなりませんが……。しかし私めはできることならお嬢様の魂を喰らうより、その美しい魂が幸福を掴んで輝く様を見せていただきたいのですよ」

「わたくしの幸福を願ってくれるのね。ありがとう…………って違うわ! どうしてそういう話になるの?!」

「私めがお嬢様のいらっしゃらないこの屋敷から解放されるということは、つまりこの屋敷の没落に他なりませんでしょう。違いますか?」


 違う、と言いたい。だけどこの屋敷の全ては父公爵の所有物で、それは屋敷や使用人だけでなく、わたくしの命そのものも、父公爵の所有物だ。父公爵を出し抜く方法。そんなものは神に背く手段以外にない。

 寝台の布切れを掴み、ぐっとくちびるを噛むも、あざとく小首を傾げるニヒトを睨めつける。


「たとえオーディン様のお教えに背こうとも、あなただけは必ず助けるから。ニヒト、わたくしがあなたを真っ当な世界に戻してあげる」


 決意を込めてそう言うと、ニヒトは細く長い指で薄いくちびるに触れ、わたくしの足元で可笑しそうにわらった。ガーデニアによく似た甘い香りがどこからか漂う。


「ふふふ。お嬢様。悪魔のためにお嬢様が悪魔に魂を売り渡すなど…ふふ。おかしいですね。でも嬉しいですよ」

「…………また馬鹿にして。わたくしは本気よ」

「私めも本気で悪魔なのだと打ち明けているのですがねぇ……」


 面白くなくてニヒトから視線をそらす。小さな窓から蒼白い月の光がぽっかりと浮かんでいた。漆黒ではなく、濃紺の空。月の光に照らされて、淡い灰色の雲がぼんやりと見える。

 本当にニヒトが悪魔だと言うのなら、なぜこんなところで奴隷に甘んじているのだろう。


「……――私めの名を、覚えておいてください」

「え?」


 静かな声に振り返ると、ぞっとするほど美しい微笑みを浮かべて、ニヒトは言った。


「私めの名はアスモデウス。アスモデウスです、お嬢様」


 ニヒトは、そう言った。甘く濃い、官能的な匂いに眩暈がした。


 





 ああ。どうして。

 それだけが頭の中で何度も何度も繰り返し。けれど目の前のこのおぞましい光景から逃れようと意識を飛ばそうとしたところで、何も解決するはずもなく、最も柔く大事な部分、魂が穢されようとしている。


「ああ……! ああ……! 私のリーゼが戻ってきた……! 待っていた、この日を待っていたよ、リーゼ……」


 恍惚とした狂人の目。濁ったオリーブの瞳。父であるはずの男の視線が身体中を舐めるように這う。

 きつく締めあげていたはずのレースアップは解かれて緩み、胸元は大きくはだけ、ドレスも腰のあたりから切り裂かれている。

 シュミーズとドロワーズの生成り色と肌色の足。


 父の生ぬるく湿った吐息が頬にかかる。

 たっぷりとした口髭が目尻を掠める。亜麻色の頭髪と同じ色の髭は想像より柔らかかった。


 幼子の頃、一度抱き上げてくれたときは、「おひげがチクチクして痛い」と不満を口にした記憶がある。

 思い返してみれば、ずいぶん怖いもの知らずだ。

 しかしあのとき父公爵は、いつものような冷たく無感情なガラス玉の目ではなく、なぜか温かな光を宿した目を細め、まるで慈しむかのように頬を撫でた。

 そしてあのときの父公爵の言葉。


「早く大きくなっておくれ」


 そう言った。まるで子を慈しむ父親のような台詞。




 それはこういうことだったのか。



 わからない。何が痛いのかも、苦しいのかも。はあはあと不快な父公爵の熱い呼気が、べっとりとしたこの甘ったるい匂いが。

 口腔内の錆びた鉄の味。大きな手でぶたれた頬も、鞭うたれた背も、ドレスを切り裂くときにかすめたナイフの刃先が触れたくるぶしも。熱かったはずなのに、今は痛くない。

 どこか奇妙に醒めた目で自分を俯瞰しているよう。魂だけは穢されぬよう、見下ろすわたくしの目からは大粒の涙があとからあとからこぼれ落ちている。何が痛いのだろう。何が悲しいのだろう。何が怖いのだろう。

 薄っすらとヴェールのかかった意識で、働かない頭をゆっくりと動かす。

 足元に石灰で描かれた魔法円。チェストの上には開かれた黒書。銀皿の上には黒いべったりとした液体のこびりついた臓物。床に投げ出されたハシバミの杖。

 それから、術者を慕う生きた人間。


 ああ、父公爵は悪魔を召喚しようとしているのだな、とわかった。おかしなことだ。自称悪魔ならいつでも屋敷にいたのに。やはり自称ではなく本物の悪魔でないといけないらしい。


「…………お父様……」


 ばしんっ。

 額から頬にかけて、強くぶたれる。くらくらとして立っていられない。視界が真っ赤に染まった。

 ぐいと腕を引っ張り上げられ、背中に腕を回される。この匂い。命あるものが腐ったような、べとつく、この匂い。

 父公爵の濡れたくちびるが滴る血と涙に触れる。


「お父様ではないだろう? リーゼ。私は君の夫なのだから」


 リーゼ。エリーザベト。わたくしの生みの母。


「さあ。私の名を呼んで。ずっと待っていたよ、リーゼ……」


 がさりと乾いて固い手が腫れて塞がった瞼を撫でる。


「ああ、痛かったね。ごめんよ。君の器だとわかっていたけれど……。でも、リーゼ。君も悪いんだよ?こんなモノのせいで、こんなモノを残して私を置いていってしまうから……。コレが君の器になると気がつくまでは、どうやって処分しようかと毎日そればかりだった。気がついてからも、コレが君を私から奪ったのだと思うと、つい手にかけてしまいたくなるから。激情を止められそうになくて、コレから離れていたけれど。そのせいで君の器が穢されそうになっていたと知ったときは、あの女共までうっかり殺してしまいそうだった……。そんなことをしてはこれまでの計画も水の泡だから耐えたよ」


 父公爵はうっとりと言葉を重ねる。ずきずきと痛む頭はとっくに思考を放棄している。


「あれらはね、ほら、そこにあるだろう」


 肩をぐっと押され、よろけた足がたたらを踏む。まだ塞がっていない方の目で促された方へ視線を投げる。重なるように横たわる二つの体。ぼんやりと霞む視界でわかるのは、それらがおそらく女性であるだろうということ。

 深緑色のドレスと、薄紫色のドレス。今朝見かけた継母が着ていたドレスは深緑色だった。異母姉は会っていない。


「リーゼの分の魂と、私の願いを叶えるための魂。二つ必要だろう? だから丁寧に大事にここまで囲ってやったんだ。決して君を裏切ったわけではないよ。私が愛するのはリーゼ、君だけだ」


 嬉しそうに無邪気な声を上げる父公爵は、まるで褒めて褒めて、とせがむ子供のようだった。しかし無言でいるわたくしに父公爵が気まずそうに視線をそらす。


「…………あのときは悪かったよ。君という人がいたのに、あの売女の誘惑に負けてしまって……。だって仕方がないだろう? 君は婚姻するまでは駄目だと言うし、私はそういう年頃だったんだ。許しておくれ。女の君にはわからないだろうが、男には耐え難いものがあるんだ。リーゼの貞淑は美徳たけど、時に苦しいのだよ……」


 手前勝手な男の理論だ。

 しかし神官様も仰せだった。男を誘う女の罪なのだと。姦淫は欲に負けた女の罪が引き起こす。淫蕩に耽る女が男を色欲に堕とす。


「ああ……。本当に長かったよ、リーゼ。君と初めて出会ったあの日に戻るために、君の器が成人する十五の年まで待ったんだ。ああ、綺麗だよ、リーゼ。まるであの日のまま…………とはいかないけど」


 ぎょろりと目玉を回して父公爵が上から下まで矯めつ眇めつ眺める。そしてたっぷりと蓄えた亜麻色の髭の下、ふっと口元を緩めるのがわかった。


「……でも君の器に私の血が流れていると思うと、それはそれでとてもそそられる。そうだろう? リーゼ」

「…………わたくしはリーゼではございません。ヘクセですわ、おとう、」


 ばしん。

 明いていた方の目もついに塞がり、世界が真っ赤に染まった。


「…………まだ混乱しているんだね、リーゼ。仕方がない。地上に戻ってきたばかりだものね」


 違う、あなたの降霊術は失敗したのだ、と言おうと口を開こうとしたが、大きな手が顎をつかんで持ち上げた。頬にぎりぎりと指が食い込む。


「いいんだよ、リーゼ。君が長らく不在だったことに私は怒ったりしない。だいぶ待たされたけれど。その分私の君への愛は熟成されたのだ。わかってくれるね?」


 熟成されて腐り落ちたのだ。父公爵からは耐え難い腐臭が漂っている。

 何も見えない中、ふと頬にかけられた力が緩んだ。崩れ落ちて床に座り込むと、頭上で何かが動いているような、空気の揺れを感じる。


「それにしても悪魔は姿を見せないのだろうか。早くあれらを回収してほしいのだが」


 悪魔が現れるのを待っているのか、と納得する。そんなものくるわけがないのに。だってわたくしは教えてもらった。本当の召喚術を。降霊術を。それらに必要な贄と重ねる魔法円と、それから――……。






「悪魔なら、ここにおりますよ。公爵閣下」




 甘い、甘い匂いがする。どこまでも魅惑的な、朽ちりかけの花の、それから芳醇なカルヴァドスの、焼き立ての焼き林檎の。あの、魂の揺さぶられる、全てを譲り渡したくなる。官能に満ちた匂いがする。



「大変お待たせいたしました。お嬢様」







 ええ。待っていた。ニヒト。








 ゆらり。ゆらり。ニヒトの身体が黒い靄に包まれていくのがわかる。

 瞼が切れ、視界は自らの血で塗りたくられているのに、なぜかニヒトの姿が浮かび上がって見える。

 その背からは大きな蝙蝠のような漆黒の翼が広げられ、額の左右から生えた複雑に捻じれる角は牡羊のそれと似ている。それからそれより少し上から天を目指す牡牛の角。うねうねと自由に動き回る蛇が翼の後ろで揺らめき、いつも履いている磨き上げられたブーツはニヒトの足元になく、その代わり、大きな雄鶏の足。その足が空を掴むように大きく開かれ、宙に浮いている。


「……ふふふ。そちらにおられるのは、我が敬愛なるお嬢様でございます。公爵閣下。『リーゼ』などという魂はどちらにも見当たりませんが?」

「お前は奴隷の……! なんだ! お前は……いったい…………化け物……? 化け物め!」


 はっと息をのむ音。それから混乱に陥っているような父公爵の焦った声。

 ニヒトは可笑しそうに嗤う。うっとりと恍惚とした笑みを浮かべるニヒトの顔だけがよく見える。


「化け物とな。なんと低俗な存在と違えられたものよ。我こそは地獄の七王が一人。色欲と憤怒、破壊と復讐の大悪魔」


 ごきゅり。何かが潰れる音。


「…………そして、忠実なる僕」


 濃い匂い。甘く、痺れる匂い。


「さぁ、お嬢様」


 肩を抱かれ身を起こされると、脱臼した関節が痛んだ。真っ赤な視界に浮かぶニヒトの顔はわずかに顰められ、膝裏に腕が回される。体が宙に浮かぶ。


「私めの名をお呼びください――……」









「……あなた、本当に悪魔だったのね……」

「ええ。お嬢様。私めは悪魔だとずっと申しておりましたでしょう?」


 くちびるに指を当て、あざとく小首を傾げるニヒトに嘆息する。


「そうね。でもまさか、地獄の王様だなんて。そんなに偉い立場にある悪魔が、なぜここで奴隷などに甘んじていたの?」

「王と申しましても、悪魔とは気まぐれなものでして。人間のように忠誠を誓うわけではなく、単純に力のある無しなのですが……。でもそうですね。この地に残っていたのは、お嬢様の側にありたかったからです。その高潔で美しい魂を、いつかこの手で穢してやろうと夢見ておりました」


 うっとりと夢見るように語る言葉に、溜息が漏れるばかりで、嫌悪感はもはや沸いてこない。なぜならもう知ってしまったからだ。

 ニヒトは悪魔で、その悪魔が教えてくれた建国神話。悪魔が真実を語るはずもないけれど、騙され悪に唆され道を踏み外すだけなのだとしても。それでもすでにわたくしの魂は穢れ、罪に塗れていた。


「ですが今は、穢すよりも、その美しい魂がより輝く様を見たいのです。ですからお嬢様には真っ当な幸福を得ていただかなくては」

「…………真っ当な幸福だなんて……。わたくしはオーディン様の使徒にはなれないわ……」

「オーディンは死んだとお伝えしておりましたでしょう?」


 細く長い指で何かをやわらかく撫でるような、優美な舞のように手を振る。その先にはこの地下牢で床に転がる三人が倒れこんでいて、ニヒトが手を振った途端、汚れた衣服がもとの通り、すっかり整えられた状態になった。


「ええ。でもそうではないの。わたくしの信仰心が消えてしまったのは、救ってくれなかったなどと傲慢な失望をしたわけではないのよ」

「ではなぜですか? 私めにも、その理由をお聞かせいただけますか?」


 どろりと色欲に塗れた、甘く官能的な、白い花の匂い。そう。ニヒトの匂いは、色欲に塗れている。

 わたくしは知っていた。その匂いの意味を。そしてわたくしがすでにその匂いに夢中になってしまっていることを。とっくに取り込まれてしまっていたことを。

 気がつかないふりをしていただけ。


 ぶたれた瞼や頬の痣も、背中の鞭打ちの痕も、踝の切り傷も、何も残っていない。外れた肩の関節も元通り。

 だけど元通りにはなれない。穢れた望みを、己の淫蕩と好色を知ってしまった。


「…………わたくしは、それでもいいと思ってしまったの……」


 なんて醜く穢れた娘なのだろう。これほどまでに浅ましかったなどと知りたくはなかった。

 ぼろぼろと流れ落ちる涙も浅ましく醜悪で、誰の同情を乞おうとするのか。まさか目の前の悪魔の同情を?

 すうすうと平和な寝息をたてて眠る三人を眺める。なにもかも元通りになった父公爵に継母に異母姉。この地下牢で起こったことについて、彼らの記憶は残されていない。魂を捧げてはいないけれど、わたくしは悪魔の名を自らの声帯を震わせ音を出し、呼んだ。


「わたくしは…………お父様がわたくしを愛してくださるのなら…………リーゼになろう、と……」


 恐ろしい罪を告白しながらも、その罪深さに震えもしない体。悪徳に染まった心。父公爵のゆっくりと挙上する胸とその呼吸を見つめている。

 愚かな娘に父公爵はきっと失望したのだろう。愛した女性の命を奪って生まれてきたものが、これほど醜く浅ましく愚かなどと。だからきっと、器としても大事にできなかったのだ。愛する女性を再び招き入れる器として、きっと丁重に扱いたかっただろうに、こんなにも出来損ないで。

 満足に神に祈ることもできず、父公爵を罪から救えず、奈落の底へと引きずり込んでしまった。


「わたくしが生まれてさえこなければ、お父様は罪を犯すこともなかった。わたくしが愚かでなければ、ただ無気力に無為に耐え続けているのでなければ、お父様をお救いすることもできた。わたくしが厩舎で馬丁に辱めを――」


 くちびるに湿った吐息が触れたかと思うと、柔らかく冷たいものが押し当てられ、頬にさらりと小麦色の髪が滑り落ちた。

 どこまでも甘い、朽ちゆく手前の濃厚な花と、香ばしい林檎の匂い。


 目を瞑ると触れたくちびるの先から溶けていきそうで、そんな甘い柔らかな感触に溺れた。頬を撫でる冷たい指先。そのまま顎から耳へと辿ったかと思えば、ゆっくりと頸をなぞって鎖骨までおろされていく。それから手のひら全体で肩をおされた。

 くちびるが離れ瞼を開けると、黄金色の目を細めたニヒトが底冷えするようなおそろしいほど美しい微笑を浮かべていた。


「お可哀そうなお嬢様」

「わたくし、可哀そう?」

「ええ。とても。お可哀そうで、とても愛らしいですよ」


 悪魔だというのに、いや悪魔だからなのか、労りに満ちた優しい手つきに心がひたひたと満たされていく。わたくしの腰を抱くニヒトの華奢な腕。わたくしの胸にあたる柔らかくまろやかな胸。艶やかなくちびる。


「ニヒトって、こんなに美しい女性になれたのね」


 くすくすと笑うと、ニヒトがわたくしの頸の後ろを撫でる。ぞくっとする感覚に足が震える。


「お気に召されましたか?」

「ええ! とっても! なんて素敵なの」


 垂れ目がちの黄金の瞳に、細くまっすぐのびる鼻筋はその先つんと尖って小さく、薄いくちびるは魅惑的に弧を描く。きゅっと小さな頤から細く長い首が続き、くびれた腹部に豊かな胸と腰。さらさらとなびく小麦色の髪は男性であったときと同じように首の後ろでひとくくりにしている。


「お気に召していただけてよかった」


 ふんわりと笑うニヒトは、無垢な少女のよう。くすくすと笑う声が止められない。ああ、こんなにも楽しい。淫らでおぞましい自分に嫌悪するでも絶望するでもなく、呆れることすらなく。

 目の前の少女の姿をした悪魔が手を差し伸べてくる。


「ねえ。ニヒト。わたくし堕落してしまったわ。もう祈り続けられないの。どうしたらいいかしら」


 伸ばされた細い手を取る。折れそうなほど華奢で、体温を感じさせない冷たい指。ニヒトが艶やかに笑む。


「それでは私めが、お可哀想なお嬢様に、たくさん気持ちのよいことを教えて差し上げますね」

「ええ。お願いね」






 魂を売り渡さずに穢すだけでいいなんて、情け深い悪魔の手を取る。

 すでに穢れきった淫蕩な魔女に、悪魔は言った。「正当なる手段で、正義の名の下にお嬢様の復讐を叶えましょうね」と。

 わたくしの真っ当な幸福が望みだという悪魔。

 それならばわたくしは真っ当な幸福を手に入れなくてはならない。


「お嬢様に相応しい、淫らで高潔な魂の持ち主を私めが探してご覧にいれましょう」




 ええ。そうね。お願いね。

 でもそのときもきっと、あなたはそばにいてね。約束よ。







挿絵(By みてみん)

 イラスト = ウバ クロネ様(https://mypage.syosetu.com/1733287/)

お読みいただき、ありがとうございました!


ヘクセとニヒトのその後は「好色王子の悪巧みは魔女とともに(https://ncode.syosetu.com/n7031hd/)」で書いております。

併せてご覧いただけると嬉しいです。

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ヘクセとニヒトによる、薄味ざまあは「好色王子の悪巧みは魔女とともに」へ
― 新着の感想 ―
[良い点] 素敵ですニヒト。 う〜ん上手く感想が思いつきません。 凄く面白かったです。 あら、ありがちな感想ですみません。
[良い点] すごくすごく素敵でした……!もう言葉が出ません……! ニヒトになら魂を売っていいかも、と思った私は確実に穢れています(*´∇`*) [気になる点] ハッピーハロウィンヾ(*´∀`*)ノ♡…
2022/10/31 21:08 退会済み
管理
[一言] 荘厳で、優美で、しかも淫靡 イラストも見返して ただうっとりしております♡( *´艸`)♡
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