第8話 まだ砕けてなるものですか
翌朝。
「ごきげんよう鏑木天真。私の婚約者になる気にはなったかしら?」
「…………」
改札口で登校途中の彼を待ち構えていた私が言うと、鏑木天真は露骨に煙たそうな顔をした。
「あ、待って頂戴っ」
目も合わさず無言で私の脇をすり抜けて行く彼を慌てて追いかける。
「昨日は良い品をおすすめしてくれてありがとう。すまチキと言ったかしら? コンビニの食品は初めて頂いたけれど、とても美味しくてハマってしまいそうだわ。しかもお安いのね! それで、その、少し話せないかしら?」
幼く見えても男子は男子。彼の歩く速度が案外速くて、私は小走りになりながら先を行く彼に呼びかける。
すると、鏑木天真はふいに足を止めて、ためらいがちにこちらを振り向いた。くしゃくしゃとした重たい前髪の奥で、彼の瞳が威嚇するように冷たく光る。
「どうしてまたいるの?」
ひいぃっ、不機嫌な声も素敵ね! やっぱり彼の声は唯一無二よ!
私は怯むどころか堂々と胸を張って言う。
「言ったでしょう。貴方に私の婚約者になってほしいからよ。さあ、今すぐ良い返事を聴かせてちょうだ」
「ごめん無理」
「……ふぇ?」
く、食い気味に断られたですって!
今度こそ疑いの余地なく玉砕した私は、ゴーンと脳みそを撞木で突き鳴らされた心地で立ち尽くす。
……い、いえいえっ、まだ砕けてなるものですか!
「待ちなさい鏑木天真! 断るのならその理由を教えて下さらないと納得できないわっ」
なんとか正気を取り戻した頃には、彼はもっと先へとすたすた歩いて行ってしまっていた。私は急いで後を追いながら尋ねる。
それにしてもこの台詞。私、いつぞやの梁井さんと同じようなことを言っている気がするわね。今ならもう少しお見合い相手に優しくできそうだわ。もうお見合いなんて必要ないけれど。
「はぁ、はぁ……ちょっと、何か答えて下さらない?」
な、なんて歩くのが早いのかしら。全然追いつかないわ。もはやあれは歩いているというより走っているわよね? 私なんてほぼ全力疾走よ。
「聞いている? ねえったら……!」
逃げ切られた。
結局『ごめん無理』以降は一言も発することなく、鏑木天真は下野高校の校門をくぐって走り去ってしまった。
「何よもうっ、返事ぐらいしてくれてもいいじゃない」
久しぶりに走ったからか脇腹がきゅうきゅう痛むし、大事な彼の声もほとんど摂取できなかったし、踏んだり蹴ったりだわ。
ともかく、このまま彼に無視され続けでもしたら、私の健康上極めて良くない。また空腹を抱えて眠れぬ夜を過ごすのは御免だわ。
「――三好、聞こえるかしら?」
セーラー服の襟裏に忍ばせていた小型無線機の電源を入れて呼びかける。
すると、ジジ……という細かいノイズ音の後。
『アーアー本日は晴天なり。こちら三好。お嬢、お呼びですか?』
飄々とした三好の声がイヤホン越しに届いた。
正直、三好の声はあまり好みではないけれど、彼の諜報部としての力量は確かなのよね。確か今年で二十歳ぐらいだったと思うけれど、鏑木天真について調査してほしいと頼めば、その日のうちに高校生に扮して潜入する手配を済ませてしまう敏腕っぷり。本家も一目置いている日比野家諜報部の若手のホープなのだ。
「潜入調査ご苦労様。今日、鏑木天真が下校しそうになったら私に連絡してもらえる?」
『下校デートっすね! ひゅぅ、お嬢も乙女だなあ。アオハル万歳!』
ちょっぴり言葉遣いが荒いのが玉に瑕だけれど。
「何を言っているのかよくわからないけれど、頼んだわよ」
『わっかりました! ボスが何と言おうと、俺はお嬢のこと応援してますからね!』
「ふぇ? ボスって何のこと」
『ではではー』
ブチッ、と乱暴に無線が切れる。全く、相変わらずせっかちなんだから。
私はやれやれと息をついて自分の高校へと向かいながら、顎に手を当てて考える。
……日比野家が組織する全ての人員は、現在の当主である日比野潔人が最高責任者。諜報部や五条の属する秘書部も例外ではない。
つまり、三好が『ボス』と口走ったということは。
「パパったら、もう動き出したようね」
そう呟いてさっきまで快晴だった空を見上げると、西の方から分厚い暗雲が迫って来ていた。