第4話 拒否権はないと言ったのだけど
ついさっきまで『この桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろぃ!』という心持ちだったのだけど……これは参ったわ。
「う~ん……」
改札を出て数メートル先を歩く鏑木天真の黒い背中を追いかけながら首を捻る。私の通う女子高と彼の高校の正門はもうすぐそこまで迫ってきているのだが、私は未だに声を掛けられずにいたのだ。
だって……何と言って呼び止めたらいいのっ!?
もしも、もしもよ? 彼がハンカチに刺繍された私の名前を覚えていてくれたとしたら、第一声で名前を呼ばれてしまうかもしれないじゃない? そうしたら私、一発KOされる自信があるわ。
今、私の耳は飢えて乾いた砂漠状態。いきなり恵の大雨が降っても、湛えきれず大洪水になってしまう。少しずつ慣らしていかないといけないわ。
そうね……今日のところは先日の非礼をお詫びして、後日改めてお礼がしたいからと言って連絡先を尋ねてみましょう。もちろん急に電話をかけたりしたら(鼓膜が)爆死してしまうでしょうから、何度かメッセージのやり取りを重ねて文面から彼の幼な口調に慣れるの。いじめの実態について腰を据えて対談するのはそれからよ――!
「わ」
「あら失礼。ちょっと考え事をし、て、い、テェイッ!?」
咄嗟に空手の“気合”のような声を出して飛び退く。
思索に耽っていたらつい早足になっていたようで、前を歩く人の背中にぶつかってしまったのだけど……当然それは鏑木天真、本人だったのだ。
「あの、日比野さんですよね?」
「ひゃい!」
噛んだ。盛大に。
でも返事できただけマシだと思うわ。だって彼ったら、まるで飼い主を見つけた時の仔犬のようにパアッと微笑みながら言うんですもの。煮え湯に放り込まれたみたいに体が熱くって、今すぐ氷山の上でのたうち回りたい気分よ!
「その制服。やっぱり隣の女子高に通ってたんですね。良かったぁ~」
ぎゃああっ!
今の『良かったぁ~』、録音しておきたかった! 毎晩寝る前に高級ヘッドフォンでリピート再生して悶絶したいわ!!
「これ、やっぱり返したくて」
今にも天界に飛んでいってしまいそうな意識を必死に繋ぎ止めて平静を装っていると、彼がふいにそう言って何かを差し出した。見れば、先日のハンカチが握られている。
「あら、そう……」
火照っていた頬が、すうっと冷めていく。
そりゃあそうよね。この間は今すぐ退散しなければとパニックになってしまったけれど、冷静に考えたら、人の名前が書かれたハンカチなんて貰っても迷惑でしかないわよね。捨てるに捨てにくいでしょうし。
「わざわざありがとう。かえってお手間をかけて申し訳なかったわね。要らなかったら、捨てるなり雑巾にするなりしていただいて結構だったのよ」
気を抜いたら唇が震えてしまいそうで、無理やり口角を引き上げながら居丈高に振る舞う。
……何でかしら?
彼は一つも悪くない。なのに、こんなにも打ちのめされたような気分になってしまうなんて。己の理不尽さが理解できないわ。
すると鏑木天真は「雑巾?」と目をしばたいてから、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことできない!」
「っ?」
急に強い口調になった彼に、私はその声にときめく暇もなくビクッと後ずさる。
「大事な物なんでしょ? だってほら、すごく丁寧に刺繍されてる……お母さんがやってくれたんですか? とっても家族に愛されてるんですね」
そう言って彼は陽だまりのように微笑む。
その瞬間、辺り一帯が輝いて見えた。
「これは日比野さんが持っていなくちゃ、ね?」
なにこれ。春風が胸を突き抜けて、終わりかけの桜の花弁を全て吹き飛ばしてしまったみたい――。
本当は自分で刺繍しただけなのだけど、その発想が素敵すぎて、私にはないもので、心にドカンと風穴を開けられた気分になったのだ。
――この人を手放してはいけないわ。
透き通った空っぽの頭でそう思う。
「返せて良かったです。それじゃあ、さようなら」
手渡されるままにハンカチを受け取ると、鏑木天真はそう言って少し急ぎ足で校門の方へ歩き出す。
――『さようなら』?
またね、じゃなくて、さようなら?
こんなにも素敵な声なのに、その言葉だけはなぜだかすごく嫌で、胸がざわついて仕方なかった。
どうしよう……どうしたら引き留められるの? 思えば幾度もお見合いを重ねて来たけれど、いつも私は引き留められる側だった。どんな風に言葉をかけたら相手の気を引けるのかなんて、考えたこともない。反省だわ。
けれど、今はゆっくりと考える暇もない。
「かっ――鏑木天真ッ!」
校門に入ろうとする彼に叫ぶ。
麻酔銃にでも撃たれたみたいに、鏑木天真が「えっ?」と足を止めた。
「あれ? えっと僕、名前言ったっけ?」
重たい前髪と分厚い眼鏡に隠されていても、彼の困惑っぷりが窺える。
そんな彼に、私はずんずんと歩み寄りながら言う。
「貴方に出会ってから、私は夜も眠れないしご飯もちっとも味がしないの。完全に日常生活が破綻しているわ。この状態が長引くことによる弊害は、健康障害、集中力低下による成績不振、それに続く大学受験の失敗よ。日本を背負って立つ日比野家の長女がその有り様では、ひいては社会にとって不利益だわ。つまり貴方は私と一緒にいるべきだと思うの。おわかりいただける?」
早口ながらも、可能な限りわかりやすく懇切丁寧に説明したのだが、鏑木天真は困ったように「んん?」と首を傾げた。仕方ないわね、それならもっと簡潔に言ってあげようじゃない。
「ああもう、だから……私の婚約者になりなさい! 拒否権はないわ!」
顎を反らして言い放つ。
ここまで言ってわからなかったら相当よ。確か鏑木天真の高校も、私の高校ほどではないにしても偏差値は低くなかったはず。さすがに理解してもらえたわよね?
そう確信して彼を見れば――あろうことか私を見てすらいない。
なぜか挙動不審にキョロキョロと辺りを見回し、何かを見つけたのか「げっ」と小さく奇妙な声を上げた。
「まずい! ごめん、もう行かなくちゃ。ああぁ、どうしよう、本当にごめんなさいっ」
ひどく狼狽えた様子で謝罪の礼をすると、一目散に校門を通り抜けていってしまった。
「ふぇ?」
取り残された私は呆気に取られていた。肩からずるりと鞄が落ちても拾えないくらい。
えっと……今のは何に対する謝罪?
拒否権はないと明言したのだから、まさか私の婚約者になることを断られたわけではないわよね? それは間違いないはずよ。たぶんね。ええ、おそらく。いえ、あるいは……。待って、ともすると――!?
「もも、もしや、もしかして私、断られたのでは!?」
このとき。
私は初めて“終わりの礼が出来ない側”の気持ちを知った。知りたくなかった。
「お、終わらせないわよ、絶対に!」