第一話「はじまりはいつも雨」③
「あ、それでさ。君は水族館とかよく行くヒト? 俺はあんま行かねえんだけどさ、この間ちょっとした気まぐれから行ってみたんだよ。いやーなんつーかアレは凄いね。水槽の見せ方とかすげー凝っててさ、もうテーマパークの類だよなァ。動物園に対する水族館、って並べ方は改めなきゃいけねーなと思ったよ。んー簡単に言うと、標本みたいにこの魚、この魚っつって個別に並べてないの。そういう展示も中にはあるけどさ、大体は一部屋分くらいのでっかい水槽に数種類入ってて、見る側が探すんだよな。学術的な研究には不向きかもしんねえけど、興味本位で行く分にはあれがまた楽しいんだよなー。カップルばっかりいて不愉快って部分もなくはねーけど、それをおしてでも通う価値のある場所だと思ったね。それで言うと植物園もいいよなー。あれはさらにその要素を推し進めた感じっつーか、もう一つ一つの分類とか気にしてなくて猥雑なんだよな、悪く言うと。でもそれゆえに一つのそういう環境っつーか、異境感っつーの? そういうのがビシビシ来てふわふわした気持ちになれるなーって思ったりするワケ」
「あ、あはは……」
しとしとと降る雨の音をバックコーラス代わりに、爪山弘明は駅前の喫茶店の一角でかれこれ一時間近くしゃべり続けていた。
向かいの席には一人の少女が腰掛けている──市内のお嬢様学校、聖ヨハネ祈念学院のシックな制服が似合うその少女は、相槌すら打たせない爪山のマシンガントークに若干の戸惑いを見せながら、それでも楽しそうに話に聞き入っている。
美少女、と呼んで差し支えない外見だった。肩までの黒髪はサイドテールに括られ、造作のあどけない可愛らしさを更に強調している。前髪を留めているヘアピンをはじめとした装飾品は多いが、それらすべてが計算されたように全体の雰囲気をまとめあげていた。
「……おっと、つい喋り過ぎたな。悪いね長々とさ」
「いえ。爪山さんのお話は面白くて、つい聞き入っちゃいます」
「そりゃ嬉しいね。ところでさァ……」
そこでようやく、ひと呼吸だけ間を取って──爪山は声を落とした。
「あんた、何か目的があって俺に近づいて来たんじゃねえの?」
「……え?」
虚を突かれたように固まる眼前の少女。
その瞳の奥で揺れた光を見て取り、爪山は自らの推測が正しかったことを確認した。
もともと話好きで饒舌な爪山ではあるが、今までの過剰なマシンガントークは半ば意図的なものだった──上機嫌でべらべらと当たり障りのない話を喋り続けていた人間が、唐突に本題に踏み込む。長い時間をかけて作られた一定のリズムが不意に崩された時、人はどんなに隠そうとしても生の表情を露呈する。事実、少女の長い睫毛の奥には衝撃と動揺、そしてそれをおしとどめようとする警戒の色が一瞬、浮かんでいた。
こういったことはお手の物──爪山は陽陵学園で長らく諜報活動に携わってきた、いわば専門家であった。
「ええと、どういう意味ですか?」
少女は困ったように首をかしげる。本当にわからないという表情──しかしそれは作り上げられたものである。相手が確証なくカマを掛けている可能性を鑑みて一瞬の動揺を巧みに覆い隠して見せた──その手慣れた様子に、爪山はむしろ疑いを強める。
動揺しっ放しなら可愛げがあるが、この反応の速さは「こう来られたらこう返す」というフローチャートがすでに彼女の中で構築されている可能性が高い。
やっぱりな、と爪山は胸中で呟く。
こいつ──素人じゃねえ。
「どういう意味って、言った通りの意味だぜ? ウチとは比べ物になんねえ偏差値の聖ヨハネ生にわからないとは思えねえけど。あ、それとも深読みしすぎちゃうタイプ?」
「こうしてご一緒させていることについて、ってことでしたらぁ──こちらも、さっき言った通りですよ?」少女は爪山を上目遣いで見つめながら、鼻にかかった声で甘えるように言う。「以前に偶然お見かけした時、かっこいい人だなぁって思って──またお会いできたので、勇気を出して声をおかけしたんです」
「かっこよかったから、ね……あんたみたいな可愛いコにそんなこと言われたら大抵の奴は舞い上がっちまうだろうけど、あいにく俺は自分の顔面偏差値を知り尽くしてるもんでね」
爪山はすべての事柄について、過大評価も過小評価も厳に戒めている。それは情報の正確性を覆い隠す危険を秘めているからだ。
美少女の発した甘い言葉を半笑いで受け流し、爪山は頬杖を突く。
「ホントのトコはさあ、俺が陽陵の生徒だから、だったりすんじゃねえの? それとも──俺が陽陵の爪山弘明だから、ってとこまで行ってんのかな?」
「…………!」
「調べはついてんだよ。このところ、ウチじゃ色恋沙汰に絡むトラブルが頻発してる──青春花盛りの高校生だから、って理由じゃ納得できねえほどにさ。それにもう一つ気になんのは、相手が皆聖ヨハネの生徒だってことだ」
爪山は運ばれたままになっていたアイスコーヒーに手を付ける。一口飲んでその苦さに顔をしかめ、ガムシロップを開けながら話を続けた。
「範囲を広げて調べてみるとさ、まー出るわ出るわ。ほぼ市内全域と言っていいレベルで、『聖ヨハネの生徒と付き合ってる』ヤローの情報が目白押しだったワケ──噂になってねえのはあんたらの工作の賜物だろうけど、そこに絞って調べる奴の存在まではさすがに考慮してねえわな」ひひひ、とストローを咥えながら爪山は笑う。「どう考えても組織的な行動だよなァ。見ればあんたが身に着けてるアクセサリー、全部高級品じゃん──確かに聖ヨハネはお嬢様学校だけどさ、もしかすると羽振りの良さには『裕福なオウチ』以外に理由があるんじゃねえの?」
「…………」
押し黙ったままの少女は、大きな瞳からぽろりと涙をこぼした。
「ひどい……私が、男の人からお金を騙し取ってるって言うんですか? そんなひどいことを言われるなんて……幻滅しました」
「そっかそっか。傷つけちゃったらゴメンなー。人の痛みを知らない無痛症野郎なんだわ俺」指でつまんだストローをくるくると回しながら、爪山は少女を見つめる。「でもそう言うあんたの方は──その可愛さを武器にして好きでもない男に貢がせて、心は痛んでんのかい?」
「もう、いいです。お話ししたくありません」
席を立ち、少女は立ち去る。
席に残された伝票を見やりながら──爪山は考えた。
今の行動から──もう一つ、情報を絞り込めそうだ。
性格にもよるが、もし仮に爪山の言葉が完全に見当違いの誹謗であったら、自分の分も支払わず帰ったりするだろうか? それは『金目当てで男に近づく』という言葉を裏付けてしまっているからだ。
もちろん怒りに任せて、という理由も大いに考えられる。でも、もしそうじゃないとしたら。
単なる守銭奴、ではまだ弱い──このデート商法まがいの集金活動が自分たちの為だけでないとするなら最も納得がいくのだ。自分の金ではないから、見込みのなさそうな人間の為に無駄に経費を掛けたりしない。そういうことなのではないだろうか。
それはつまり──先程爪山が言ったように、組織的な行動ということだ。彼女自身の意志ではなく、誰かが彼女を使って金を集めている。彼女の身なりの良さはその黒幕からの報酬──支配され、いいように使われている。
その組織的行動が現在、陽陵に集中している。そこにはどうにも不穏な空気が感じられた。
「せっかく平和な生活が戻ってきたっつうのに、またぞろきな臭くなって来やがったな、面倒臭え……ん、そう言や」
確か転校生がいたな、と爪山は思い出した。
聖ヨハネから陽陵に転入してきた女子──彼女も、もしかしたら。