第一話「はじまりはいつも雨」①
雨が強く降っていた。
六月も半ばを過ぎれば当然のことか──と、樋野祐圓は思ったが、それでもどことなく憂鬱な気分になっていた。
昔から、雨は好きじゃない。
通学が面倒だとか湿気がどうだとか、そういう話ではなく──気分が滅入るのだ。
人は雨に対抗する術を持たない。できるのは精々、傘や雨具で防御することだけだ。
圧倒的に強大な存在を前にして、ただ自己防衛に徹することしかできない。その事実は樋野に不快感を覚えさせた。
「────っ痛」
生ぬるい湿度を含んだ空気が制服を貫通し、もう治ったはずの傷跡を疼かせる。
樋野の体中に刻まれたその傷跡こそ、これまで樋野が「強大なるもの」に抗い続けてきた証だった。
しかしその当人は──樋野の与り知らないところで、消えてしまった。
今までの樋野の活動のすべてとは一切関係なく。
それはまるで、降りしきる雨の一滴一滴に拳を突き上げるような──そんな無意味な行いだったのではないかと。
「…………」
そんな思いを目の前の雨に重ねることこそ無意味だと、分かってはいる。
とどのつまり、樋野は雨が嫌いだから嫌いなのだ。それ以上の意味はない。
もともと深く考え込む性質ではない樋野はそのように強引に思考を決着させ──軽くかぶりを振って、校門へと進む。
周囲には同じように帰路に着こうとする数人の生徒がいる──陽陵学園の一日は、いつも通りに終わろうとしていた。
「よう、樋野!」
声に立ち止まる。
傘を揺らして樋野に近づいてきたのは、同級生の木田という男子だった。
「やあ」
「今から帰りか? 今日は早えんだな」
「ああ、うん」
樋野は頷く。
樋野の所属する陽陵学園生徒会は万年人手不足状態で、夕方遅くまでの活動が半ば恒例だった──木田はそのことを言っているのだ。
「今日はちょっと用事があって、生徒会の方は休ませてもらうんだ」
「そっか……」
そのまま木田は何か言いたげにもじもじとしている。
尻切れ蜻蛉のまま立ち去るわけにもいかず、樋野は促す。
「何か用だった?」
「あー、それが……えーっとな」
木田はなおも言いにくそうに視線をあちこちに飛ばしていたが、やがて決心したように樋野の目を見た。
「突然で悪いんだけどさ……ちょっと助けてもらいたいんだよ」
「助ける?」樋野は頭を掻き、曖昧に微笑んで見せる。「何の話かと思ったら、ホントに突然だね。具体的には?」
「おう。つまりその……金を少し、貸してくんねえかな」
「え?」
思わず聞き返す。意外だった──木田はクラスメイトだし多少は話もするが、友達と言うには遠い間柄である。助けるとは樋野の役職──生徒会書記というところから、それ関係の相談に乗るという話かと推測していた。
「あのさ……前にちょっと話したことあったよな。最近できた彼女について」
「ああ、聞いたかも。なんか他校の人なんだっけ」
「そうだよ。その娘にちょっと、プレゼントがしたくて」
「うん」
相槌を打つが、その続きは出てこない。
「……あ、それを買うためのお金ってこと? ブランド品でも買うつもりなの?」
「まあ、そんなようなもんだよ。それでちょっとその……手持ちじゃ足りなくて」
バイトしなよ、と言いたいところだが──樋野は木田が普段からバイトに精を出していることは知っていた。それでも足りないとはどれだけ高いものを買おうとしているのか──もしくは、何か別の事情でそのお金は使ってしまったのだろうか。
「ふうん……まあ詮索する気はないけど。悪いけどそういう相談には乗れないかな」
「え、マジかよ」
「ウチ、バイト禁止だから。小遣いも少ないしさ……千円二千円なら数日貸してあげられないこともないけど、多分それじゃ足りないだろ?」
「そっか……いや、そうだよな。悪いな、唐突に」
「いいって。それにそういう相談なら別に乗ってくれる人がいるんじゃない? 吉川君とか伊地川君とか、バイトしてる人多いじゃん」
「アイツらにはもう借りられないんだよな……」
ぼやくようなその一言に、樋野は事情を察した。
金が入用な理由──彼女への高価なプレゼント。
特段親しくもない樋野への無心──近しい友達へは軒並み借金済み。
それでも止まない金欠──自身のバイトの給料でもカバーできない。
会話から察せられる事象を繋ぎ合わせた時、木田の背後には不穏な影が見えた。
「あのさ、余計なお世話かもしんないけど……お金のかからないプレゼントにしてみたら? 何か手作りのものとか」
「言いたいことはわかるけどよ……それじゃ釣り合わねえんだよ、あの娘には」
「え?」
「ああ、いやいいんだ。ゴメンな。そんじゃ」
木田は手を振り、足早に立ち去って行った。
どことなく心配になりながらも、歩き始めようとしたその時──視界の端にあるものを捉えて、樋野は振り返りかけた顔を再び巡らせる。
校舎に向かう木田がポケットから手帳のようなものを取り出し、線を引いている。遠目でよくは見えないが、そこにはびっしりと何かが書かれていた。
今線を引いた文字列が──樋野祐圓、だとしたら。
「借金候補者リスト、か……? おいおい……」
そこまでして彼女に貢ぐのか。
記憶では──確かお嬢様学校に通う高嶺の花だとか何とか言っていたような気がする。釣り合わない、とはそういう意味なのだろう。
「何が残るわけでもないだろうに……少しは分かるけど、でもやっぱヤベーなアイツ」
「ああ、ヤバいよな」
独り言への予期せぬ返答に、樋野の神経が逆立つ。
陽陵学園の敷地外──校門に寄りかかる一人の少女が、樋野をすがめていた。
「……誰だ、あんた」
警戒態勢を取りながら、樋野は低い声で呟く。
掛けられた言葉は単なる相槌──しかしそれを発した当の少女は、剣呑な雰囲気を纏っていた。
制服は陽陵学園のものではない──漆黒の長袖服に金の刺繍が入った、どことなく高級なデザインだ。毛先だけがカールしたボブカットの黒髪の下には、切れ長だが厳しい眼光が光っている。時代錯誤な表現をするならば、スケバン──としか言いようのない威圧感を、少女は放っていた。
「まあ、通りすがりって言い訳は流石に無理があんだろうな」少女は片頬を歪めてにやりと笑う。「今のアイツ──あんたの友達の彼女、その関係者ってとこか」
「関係者……か」樋野は少女に一歩詰め寄る。「やっぱりな……木田は騙されて金を貢がされてる。それはあんたの指図ってことか」
「早合点されちゃ困るぜ。まあ、あたしの風体じゃ無理もねえ話だが──そう怖い顔しなさんな、ブルっちまう」樋野の足が止まるのを見て、少女のニヒルな笑みはさらに深まる。「もしかして隠してるつもりだったか? 平和ボケした坊ちゃん嬢ちゃんなら騙せるかもしんねえが──見る奴が見りゃ一目瞭然だぜ。あんた、相当場数踏んでんだろ? 素手喧嘩のよ」
「……お前」
「でもあんたはそれを表に出したくないと思ってる。それは周りへの配慮かい? それとも──それをひた隠すことで、あんたはどうにか自分の世界を保ててるってわけか?」
「…………」
無言になった樋野の雰囲気を察したか、少女は取りなすように両手を振って見せる。
「おっと、こいつぁ済まねえな。お喋りと無遠慮は悪い癖なんだ──何度も言うがあんたに突っかかるつもりもねえし、あいつ──木田とか言ったか? そいつに直接的な繋がりもねえ。あたしはただ様子を見に来ただけ──そして必要なら忠告をしに来ただけだ」
「忠告?」
「まあ、恋愛沙汰なんつうのは当人同士の話だ──あの木田って兄ちゃんが金策に走り回ろうが、それが原因で自分の信用を貶めようが、それで幸せになれんなら干渉すべきことじゃねえ。あんたもそう思ったからこそ必要以上に踏み込むことをしなかった。だろ? しかしな──それでも、越えちゃならねえ一線ってのは確実に存在する」少女の笑みが消え、眼力が鋭くなった。「もしもそれを越えちまったら、あの兄ちゃんには災いが降りかかることになっちまうだろうよ。そうならねえよう、節度を持ったお付き合いを願いてえ──とまあ、次に会った時にでも伝えといてくれ」
言い終わるなり、少女は校門から背を離して歩き出す。
「一線を越えさせようとしてるのは、お前達じゃないのか」
樋野が投げつけた言葉に、彼女は背を向けたまま肩を竦めて答えた。
「言っただろ? 当人同士の問題だってよ」
少女の姿が通りの向こうに消えるまで見送って、樋野はため息をつく。
木田は──やはり何か、面倒事に巻き込まれているらしい。
できれば助けてやりたいところだが──今の調子では、樋野の言葉に耳を貸すかどうか。
「あの方は──」
背後から聞こえてきた声に、樋野は振り返る。
視界には下校しようとしている数人の生徒の姿があったが、先程の声の主ははっきりとわかった。
一人の少女が、棒立ちになって樋野を見つめていた。