序章
荘厳なオルガンの調べ──。
傍にある礼拝堂から漏れ出てくるその優雅な音色は、聖歌部の練習によるものなのだろう。曲目はジョージ・フレデリック・ヘンデル作曲の「メサイア」──四十四番。
伴奏の上に乗って滑るように進み出た女子生徒達の歌声は高らかに、伸びやかに、主の支配を寿ぐ。
「For the Lord God Omnipotent reigneth…」
歌詞が自然と口からこぼれ出る。
聖歌部を退部したのはつい一週間前のことだ。かつては私も、あの中で何の疑問も持たず歌っていた。
「讃えよ、王となられた全能の主の御代を」
そんな言葉を胸を張って歌うことなど、もうできない。
私は一人、放課後の教室に残っている。
この部屋に他の生徒は誰一人いない。部活か、委員会か、それとも家か──皆、自分のいるべき場所へと去って行った。私だけが、取り残されたように自分の席に留まり続けている。
しかし、たとえ今ここに同級生が何人いたところで関係ない。
私が一人だということには変わりがないのだ。
なぜなら私は──ここでは異教徒だからだ。
皆と同じ方向を、私は向けなくなってしまった。
いや、方向と言うなら、この齟齬は最初から存在したのだろう。
私がそれに気付かなかっただけだ。
だから気付いた今、私はここを出る。
偽りの祝福から抜け出す。それ以外に私の取れる手立てはなかった。
私は制服の胸に手を伸ばす。十字架に触れ、強く握り締めた。
それは、いつもの通りにそこにあった。
私を励ましてくれているかのような、確かな質感を指先にもたらした。
名残惜しく手の中で弄んで──やがて。
私は、それを引きちぎった。
戒めから解き放たれた十字架は勢い余って私の手から飛び出し、教室の壁にぶつかって床に落ちた。
部屋の隅に──転がった。
その様子を見て、私の胸の中に小さな穴が空く。その穴から冷たい風が吹き込み、私の内側をみるみるうちに空疎で寒々しい荒野の色に染めて行く。
私を私たらしめている一番の拠り所を、こともあろうに自ら無碍にしてしまったことへの良心の呵責が、容赦なく私を苛んだ。
いや──違う。
私は首を振る。
あれは十字架じゃない。
形こそ同じだからついそう認識してしまうけれど、あれはまったく別のものなのだ。
私が信じ、縋り、敬い、尊び、愛し、奉じているものとは──違うのだ。
そう自分に言い聞かせながら、駆け出した。
教室から出て。
廊下を疾走し。
昇降口を抜け。
私は、外に飛び出す。
待ちうけていたかのように頭上に広がった曇天は私を責めているようで。
湿度を含んだ生温い風は私の門出を呪っているかのようで。
ここにあるすべてが私に反対している気がして。
私はとても不安になったけれど──
振り返りはしなかった。