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引っ込み思案

作者: 平野雄隆

以前とある賞に送って二次落ちした作品です。



                       1


 恐らく僕は苛められている。と、言ってもあくまで恐らくであるのだが。

 僕はまだこの会社に入って三ヶ月しか経ってないし、別に露骨に無視をされたりだとか、悪口を言われているわけでもない。でも、時々そのような違和感を感じていた。

 この会社はお菓子を製造する会社で、株式上場なんかはしていないものの地元では有名な企業であり、そのお菓子は大人から子供まで幅広く愛され、老若男女に広く食べられている。地元では、日本で一番大きなあの自動車メーカーに就職するよりも、この菓子メーカーに就職する方が、周囲の反応も好感度が増すほどだった。

 僕だって最初に面接に受かった時は、飛んで喜んだものだ。だけど、その時には、当然こんなことになるなんて考えもしていなかった。

 物流インフラがネットと共に発達した現在では、中小企業といえども全国で商品を販売している。全国販売をしているとはいっても、一番のモットーは会社の原点である地元の住民に愛されることにある、というのがここで働く従業員の共通認識だ。製造する地元での信頼の大きさが、全国への信頼の大きさでもあるということを、この会社の創立者である社長はことあるごとに言っていた。

 地元で敬遠されるようなものは、お菓子であれ何であれ、やがて全国からも見放されるだろうという考えからであり、自分たちの食べたいものをお客さんに運ぶことが仕事だと捉えている。そんな社長だから仕事の環境にもうるさかった。従業員が働きやすい職場こそが最高のコストカットだって公言しているくらいだったし、今こんな風に苛めにあっている張本人の僕ですら、これは冗談なんじゃないかと半信半疑に思っているくらいだった。苛めなんて思い過ごしだろうと。

 今日もそんなことを考えながら作業をしていると、隣のベテラン、といってもおばちゃんなのだけれど、つんつんと肘で小突いてきた。


「ちょっと土谷君、手が遊んでるよ」そういってラインに向けて顎を突き出す。


「あっ、すいません」


「ちゃんとしなさいよ、若いから女の子のことでも考えてたんだろうけど、微妙なやつ見逃してるよ。ほらそれも」


 手が遊んでるとは、この会社では疎かになってるよ、常に神経は尖らせなさいって意味である。最初は何のことか分からなかったが、最近だんだんとそういう用語にも分かるようになっていた。目の前を流れるジャガイモは、低い唸り声を上げるベルトコンベアーの上を転がるように集団で大移動を行っている。


「すいません、気をつけます」


 そう言って作業に集中する。が、流れていくジャガイモを見てもそんなに悪いものとは思えなかった。三ヶ月目だからまだ見極めが悪いのかもしれないが、それを差し引いても僕の見る限りでは許容範囲内のはずだった。これも苛めの一種なのかと勘ぐってしまう辺り、既に精神的に重傷なのかもしれない。隣を見ると何事もないかのようにおばちゃんは、作業に戻っている。僕の謝罪の言葉は聞く必要もないといった貫禄だった。

 何でこういう風にマイナスな方へマイナスな方へと考えるようになったのだろう。また、考えに耽けっていった。それでも手は自動で作業している。

 人間とは不思議なものである。思考と身体は一体であることもあれば、独立して動いていることもあるのだ。一方は集中で、もう一方は条件反射といったところだろうか。

 現在このラインでは、ジャガイモを選別しているところだった。この持ち場の担当は五人いるのだが、ジャガイモは結構なスピードで流れているので、一人が遅れるとその分みんなの負担が増える。

 例えラインで見逃してもセンサーで二重のチェックするので、ある程度はそれで不良品を止めることができるのだが、人の手には適わないのであくまで補助的なものである。だが、それももうすぐ逆転されそうなほどセンサー類の精度は日々劇的に改善されている。

 ジャガイモの選別は大きく分けて三つだった。一つは形と大きさの選別。そしてジャガイモの芽の有無。もう一つは傷の有無であり、規格から外れたものを弾いていくのだ。

 特に形と大きさは使う用途が変わってくるので重要だ。味に直接影響するからこの見極めには神経を使う。もし間違って先の行程で発見されると、クレームというか文句がすぐさまここまで飛んでくるのだ。

 ジャガイモの芽は、別ラインに送り、それを取り除く専門の人達が、包丁を使って巧みに取り除き次の行程に送られる。

 そして傷はジャガイモが内部から傷んでいるからなのか、それともそうではない単なる表面的な傷なのかを見極め、傷んでいるのを取り除けるか、そうでないかで処置が変わる。

 そうした作業をこの会社は分業することによって、というより現在の会社は大抵分業化が進んでいるのだが、ミスを減らし品質管理を徹底している。それぞれの担当はみんな自分の仕事に誇りと自信を持って取り組むといった具合である。

 そこまで徹底した品質管理のお陰からか、地元でのシェアを今でも伸ばしているし、トップを走っていけるのだろう。

 メディアなどで話題になるような悪い会社というのは、自分たちの作った物は食べたくないと従業員が、しかも胸を張ってそれを言うらしい。内容を聞くと僕だって当然だと思ってしまう程だった。

 何と言ってもそんな会社の従業員は、落ちた食品や腐った食品をラインに乗せそのまま加工するという通常では考えられないような事を平気でするのだから。世界的に有名な企業の某ハンバーガーショップの鶏肉も使用期限の切れた鶏肉を混ぜ、加工して輸出していた工場があったのは有名な話である。あくまで偏ったメディアの情報に踊らされているだけかもしれないのだが、それはメディアの風に乗って広く認知されている。

 話を訊いているだけで、背中の悪寒が治まらない。

 現にその会社はその風評被害にかなり売上を落としているし、その立て直しにはかなり苦労を強いられているようだった。何度もニュースで経営者が、肩を落として毎月の売上の報告をしている姿も目にした。

 左隣を見ると今さっき僕を注意してきたおばちゃんは、頭巾とマスクの間に汗をかいていた。ここは食品会社だけあって温度管理がしっかりしていて年中気温が一定に保たれている。僕にはそれが苦痛なのだが、左隣のおばちゃんは違った意味で苦痛なのかもしれない。体格は丸々としていて鼻息も荒い。性格は大雑把でジャガイモの選別も本人が思っているほど正確というわけでもないのだ。名前は細川というのだが、名前と体格が真逆だった。

 名は体を表すと言うが、実際はそんなことはない。反対側の右隣のおばちゃんは、細川さんとは逆に神経質で、家庭での出来事がすぐに仕事に影響する。最近は子供が受験生ということもあり、心配事が絶えないからなのか、ここ最近も作業効率が二割は下がっている。こちらは体型もひょろりとしているのだが、名前は太田とこれまた不釣り合いだった。最初工場に勤務したばかりの頃は、イメージのせいで名前を逆に覚えてしまい頭が混乱したものだった。

 それに太田さんの仕事の作業はそんな感じであるにも関わらず、細川さんは太田さんには何も言わずに僕にだけ作業が遅いだの、見逃しているだのと注意してくるのだ。最初はたまたまなのかなって思ってたりもしたけど、仕事に慣れてきて周囲に気を配れるようになってからは、その扱いの違いが気になるようになってきていた。何で太田さんには言わないのだろうか、と。

 そしてその太田さんはというと、僕に仕事中でもお構いなしに喋りかけてくるのだ。慣れない頃は空返事で「はい」や「ですよね」とだけ言っていたのだが、自然と身体が動くようになってからは、きちんと返事を返すようにしていた。なのにいつも聞こえていないかのように、その返事に対しての返答が返ってこなかった。

 が、その内容は決して明るい内容でもないし、為になる話というわけでもない。その殆どが家庭での自分へのプレッシャーであるとか、受験生の息子が私に何かを隠しているだとか、さらにエスカレートしてくると、私にばかり傷物のジャガイモが流れてきて、一番選別が大変なんだとすら言い放つ始末だった。ラインを流れるジャガイモに限って言えばそんなことがあるはずもないのは一目瞭然なのに。なぜならそんなものを見極める暇があったらそれを弾いた方が早いし、いちいちそれを他の人に残すというのは逆に神経を使うからだ。だからそれは現実的ではない。直接言ったことは一度もないけれど。

 そんなことよりも今の僕にはいつもの悩みが襲ってきていた。

 それは三ヶ月経っても慣れないもので、結構悩ましいものだった。細川さんが僕と逆の苦痛で汗を掻いていて暑そうにしているのに対して、僕にはこの工場は寒すぎてトイレが近くなるという悩みを抱えていた。

 二時間毎に休憩があるので、その時にはきちんと行っているのだが、それでも作業中、行きたくなることが週に二回か三回くらいある。なーんだって言われそうだが、そう簡単な話ではない。生理現象の悩みとは結構根が深いものなのだ。

 ラインは五名体制でやっているから、一人くらいトイレに少々抜けても大丈夫なように感じなくもないのだが、実際流れていくスピードを考えると、実際はそんなにゆったりと誰も仕事をしていない。むしろ細川さんが言っているように、一人が手を抜くと他の人にに負担がいってラインを維持するのが難しいほどなのだ。

 こんな仕事ぶりは日本特異のものらしく、海外の人が工場見学に来た際には、「オー、ワタシノクニダッタラ、ストライキオキルネコレ」なんて言っているのが、聞こえてくることもあった。

 じゃあ、どうやってトイレに行くかって話になるのだが、それはラインにはそれぞれオールマイティーに活動できるリリーフという人が数人いて、必ず起きる突発的な休みや仕事に遅れが生じそうなとき、そして僕みたいにトイレに行きたいとか、そういった状況に柔軟に対応する人達がいるのだった。後はラインに不具合が起きたときなどの修理も兼ねている。リリーフは大抵ベテランで固められていて、作業の手は早くそして正確なのである。

 だが、実際はトイレのために呼ぶと余りいい顔はしない人も多い。それはそうだろう。二時間に一回休憩があるのだからその時に行っておけば我慢出来るというのが、殆どの人の特徴というか普通の声だからだ。そして作業中トイレに行く人間の多くは、サボリの口実にトイレを利用していると思われているし、実際そういう人が過去に何人もいたという。そういう人は大抵五分じゃ帰って来ないらしく、こっそり別の人が見に行くと、スマホを扱ってゲームなどをしていたということもあったみたいである。実際は作業ラインへのスマホの持ち込みは禁止されているのだが、全員を検査するようなことはなされていない。最近のスマホゲームは時間で体力が回復して、完全回復するとそれを早く減らさないと勿体ないというか強くなれない仕組みになっていて、強くしたいなら定期的にゲームをする必要がある。そんなこともしばしば起きているトイレ事情だから、週に何度もあまりに頻度が増えてくると、そういう疑いの目で見られるのだった。

 だが、そうでない人間もいるのも事実だし、実際僕がそうである。僕は真面目に直行でトイレに行って、そして用を足して真っ直ぐにラインに戻る。時間は五分ピッタリである。それ以上は怪しまれるという話を細川さんが熱弁していたので、なるべく急いで戻るようにしている。だが、人とはそんなに単純なものでもないようで、あまり回数を重ねていくと時間は重要ではないという解釈に変わっていくようだ。そして、最終的には回数だけがものを言う状態になる。

 だからなのか、というより最初からなのだが、トイレに行きたくてリリーフを呼んでも無視されることが多かったのだ。そんなときは本当に辛い。目の前のジャガイモの選別にも集中できないし、膀胱が破裂しそうで、漏れる寸前に何度も陥ったこともある。多少、パンツを濡らしたことも何度もあるし、気付かれてないとはいえ、恥ずかしいことに変わりはなかった。

 そしてまた細川さんに怒られ、太田さんにはどうでもいい話をされる毎日が続く。大体息子が受験で隠し事って言ったら『思春期の悩みに決まってるじゃないか』って言ってやろうかと思ったくらい息が詰まったことだって何度もある。

 そんなこともあって自分の落ち度が全くないかと言われると、そうではないのかもしれないのだが、それが苛めに発展している原因の一つではないかと思うようになったキッカケでもある。

 そして、今まさに僕の膀胱は満タン状態であり、下半身をもじもじせずにはいられないほどだった。


「あっ、ほらぁ今の十分余裕あったでしょ。手を抜かないでよね」と細川さんがいちいち人のミスに対して小言をいう。


「だからね――それを旦那に相談するんだけど、いつも空返事なのよ。どう思う?」と太田さんが手を止めつつ、こちらを窺いながらうんざりする話を延々としてくる。


「はい、すみません……」、「ええ、そうですね――」とは返事してみるもののそんなことは聞こえてもいないようにお構いなしである。


「私にばっかり負担を押しつけないでよ、若いんだからバリバリやってもらわないと」といつもは浮かんでいるはずの額の汗は今日はまだ浮いてもいない。


「最近家族の会話が減ってきてるから、私が橋渡しの役をしてあげてるのに、何てみんな勝手なんだろう、私の苦労を考えて欲しいわよね。ねえ土谷君なら分かるわよね」と橋渡しが出来るとは思えないほど自分の意見ばかりを淡々と述べている。


 僕だって頑張ってるんだよ。別に細川さんに迷惑かけようとしているわけじゃないんだ。

 勝手だって? 太田さんだって勝手に自分の話ばかり進めて作業の手を止めてるじゃないか。それを棚に上げて何を言ってるんだ。だから旦那も息子も呆れてるんじゃないですか。

 何てことは間違っても口にはしない。そうこうしている内にも僕の膀胱は悲鳴を上げ続けていた。


「すいません、リリーフ呼んで貰えませんか」


 額には脂汗が浮き、何とか辛うじてそう口に出してみたが、そんな僕を知らぬ存ぜぬで太田さんも細川さんもジャガイモに目を落としていた。

『ああっ! 一体何なんだ』声なき声で叫んでみる。

 ラインは相変わらず低い唸りを上げながらベルトを回し、ジャガイモはその上を無機質に転がっていく。

 もじもじ。そわそわ。

 我慢の限界が近いようで身体をくねらせてみたり、足踏みをしてみたりして何とか気を紛らわそうとするが、一瞬だけスーッと尿意を忘れるのが限界のようで、また直ぐに身体中をそれが駆け巡っていく。

 ああ…… もう限界だ……


「おい、土谷どうかしたか」


 僕の肩に手を置いて喋り掛けて来たのは、班長の渡さんだった。


「ちょっと、トイレに行きたくて……」


 救世主が現れたことに安堵した僕は、一瞬身体の力が抜けて体液が漏れそうになったけど、直ぐに引き締めて身体を硬直させる。

 渡班長は、少しだけ僕を観察するように見ると、察したように言った。


「なんだ、そんなにくねくねするほど我慢しないで早く言えばいいのに。行ってこい」


 そう言うと太田さんと僕の間に割り込みジャガイモを選別し始めた。弾かれるように僕は飛び出しトイレへと競歩でもするかのように急いだ。

 工場内は走ることが禁止されている。台車やフォークリフトなどが行き交う場内では、出会い頭の事故などが頻発したことがあるようで、そういった事故の原因の多くが、忙しいからと走って移動をしていたということが、聴取により浮かび上がってきたのだ。

 原因の究明と改善。企業が長く存続するためには、こうした小さな積み重ねが必要なのである。現在のネット社会の波は、地方の企業さえも容赦なく呑み込むことがある。

 飲食メーカーを震え上がらせたゴキブリ混入事件や、従業員の厨房での悪ふざけによって閉店に追い込まれた店なども、全てはつぶやきや動画サイトへの投稿から拡散されたのが最初だった。こうした状況が起きないように企業は生き残りを懸けて、日々改善に改善を重ねる必要がある。たった一つの落ち度が、従業員の生活を脅かすことがあることを、ただの平社員であっても自覚しなくてはいけない時代なのかもしれない。

 そして会社では食品を扱う以上、埃が立たないように元々走ることなどは禁止されていたのだが、昔は今ほど厳しくなかったようだ。現代では人間も社会のシステムに組み込まれ、リミッターが設定されているのである。

 それを守るためにもトイレはもう少し近くにあって欲しいといつも思うのだが、未だに工場の端っこに数カ所あるだけだった。膀胱の限界まで我慢した後で向かうには、些か遠すぎだ。最初の設計図の段階の工場レイアウトでは、もっと近くにトイレも設置される予定だったという噂もあり、社長がこういうふうに切り出したというのは今でも語りぐさになっている。


「製造ラインのすぐ後ろにトイレがあるような場所で作られたお菓子を誰が食べたいと思うのか。トイレのドアがキッチンの中にあるような場所で作った料理を、気持ち良く食べられるような教育は、日本では行われていない。顧客至上主義、お客様は神様です。だろう」と他の意見を一掃したというのだ。


 現在でこそ丸くなり、『従業員が働きやすい環境を』を掲げてはいるが、当初はワンマン社長であり、若さからなのか血気盛んであったらしい。それだけの勢いがあったから、ここまで地元に愛されるメーカーになったことは否定できない。

 時代が高度成長期であり、とにかく売れる物を売れるだけ売りまくれという風潮が、日本に渦巻いていたのも、その考えの根底に流れていたのだとも言える。

 だが今は、そういった会社はどんどん淘汰されてしまう。こうした時代に柔軟に対応する辺り、ワンマンとは言っても柔軟性を兼ね備えた資質を持っているのだ。そうでなければここまでの会社の発展はなかったはずだし、愛される企業にはならなかっただろう。

 足早に通り過ぎた場所の右手には、所々分厚いブルーのシートが貼られていた。現在トイレを増設中なのだ。ただ、ラインが動いている平日は、埃が立つなどの理由で工事をストップしているため時間がもう少しかかるらしく、完成は二ヶ月後の予定となっている。

 今のトイレは昔とは違い、性能が飛躍的に発達し、抗菌は当たり前、清潔に保つ技術が至る所にちりばめられていて、そんなに神経質にならなくても品質には影響しないと、メーカーなどの後押しと社員の要望によりやっと増設が決まったのだ。

 実際ジャパンクオリティの技術は、目に見えないものも多く、一見僕たちのような素人には判断し兼ねることもたくさんあるが、流石は専門家。社長も笑顔でトイレの増設を決めたという。

 とはいえ、それはまだ実現されていないので、今僕の膀胱は臨界点に達しようとしていた。ここで破裂してしまえば、環境汚染よろしく、大惨事が起きるだろう。

 後十メートル、九、八と近づくが、近づけば近づくほど、まるで弁が圧力で押しだされてしまうかのように溢れだしそうになる。

 扉もくせ者だ。焦っていると普段引いて開けるというのを忘れるはずはないのに、こんなときに限って押してしまうのだ。その衝撃の余り、弁が一瞬だけ開き零してしまうこともしばしばあったりして、ちょっと気恥ずかしくなったりもする。

 僕は、そのことを現在は学習していたのでスムーズに扉をあけ身体を滑り込ませることができた。

 二つの扉を抜けた先の、白く艶やかなその佇まいで待っていてくれる便器に、まるで数か月ぶりに出会った恋人のように身体をぴたりと寄せると、窓を開け男性器を取り出し、一気にその中へ放出した。


「あー」思わず呻き声が出てしまう。


 苦しみからの開放感から出るものなのだろうが、それがもの凄く気持ち良かった。生理現象は、苦しみが大きければ大きいほど快楽の振り幅の大きさが多いような気がする。睡眠や食欲、そして性欲までも限界まで我慢してから与えられると、感謝の余り涙さえ流れるものなのだ。

 だからといってわざわざ苦しむようなことをするのは、きっと一部のマゾヒストな人達だけだろうが。

 便器に大量に放出される液体を見つめながら、何で自分がこんな辛い思いをしているのかという考えが、頭を過ぎるのを防げなかった。

 呼んでも振り向かないリリーフ。自分が楽することばかりしか頭にない細川さん。自分の話にしか興味がない太田さん。唯一班長だけが、僕を気遣ってくれているような気がしたが、孤独を感じずにはいられない。班長は誰にでも平等に接する人なので、僕への気遣いもその延長線上でしかないからだ。

 液体が途切れると、身体を震わせ上下に揺らす。いつまでもそんな考えにふけっているわけにもいかずに、パンツに男性器を仕舞うと、直ぐに踵を返した。残り二分。

 もちろん手は念入りに洗う。食品を扱うために身についた習慣だ。潔癖症な人が洗うかのようにしつこく丁寧に洗うと、目の前の鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。

 そこには青白く気弱そうな男が映っている。自信がなさそうな垂れ目がコンプレックスだった。鏡の自分に「よしっ」と呟くとトイレを後にした。

 急いでラインに戻ると、楽しそうに喋る太田さんと細川さんが目についた。班長と雑談混じりで次から次にジャガイモの選別をしている。

 この二人はいつもリリーフや班長が近くにいると途端に手早く作業を行うのだった。それを初めて目の当たりにしたときから、それを見るたびに溜息が出てしまう。そして僕がラインに戻った途端にその作業効率は著しく低下するのだった。二割減といったところだ。今だってこのスピードをいつも維持してくれたならば、もっと楽に作業が出来るのになんて思う。


「あの、ありがとうございました。戻りました」


 渡班長の二歩ほど後ろから、それまた二度ほど声を掛けると、声が届いたのか気配を感じたのかは分からなかったが、暫くの間があった後、渡班長は首をこちらに回して表情を変えた。


「ああ、オッケー戻って来たね。じゃあこの後も宜しくね」


 渡班長は僕が入るスペースを作り、スムーズに僕と作業を入れ替えた。

 斜め後ろを横目に見ると何事もなかったかのように渡班長は歩き去っていった。

 細川さんと太田さんは迷惑そうにこちらを見たような気がしたが、それは恐らく気のせいだろうと自分に言い聞かせた。


「おかえり、早かったわね」


 嫌みだ。いつも早く帰って来なさいなのに、交代したのが班長だったからなのか、こう言ったのだろう。渡班長はおばちゃん達の間ではかなり人気がある。

 甘いマスクという訳ではないが、人当たりが良く物腰も柔らかい。そして何より聞き上手なのだ。同姓の僕がいい人だなって思うくらいだから、おばちゃん達から見たらかなりの魅力であるはずだ。といっても僕はそんな趣味はないから悪しからず。

 それからもおばちゃんたちの小言は続く。どこにそれだけのエネルギーがあるのか、とにかく一日中エンドレスなのだ。やっと今日も終了のチャイムが鳴った。ラインからジャガイモが無くなり選別作業が終わった。後は、掃除をして今日の仕事は終了だ。

 日々の掃除は簡単に済ます。簡単と言っても食品を扱うのだから一般的には念入りなのだが、自分の持ち場を綺麗にする。これを怠ると雑菌が繁殖して食中毒の原因にもなるので手は抜けない。

 と、まあ同じラインで作業する細川さんと太田さんは、性格的には微妙にネックだが、僕はこの仕事と会社に一応の誇りを持って取り組んでいる。 


「おつかれさまでした」


 そう言って、持ち場を後にした。いつものように独り言を言うかのように誰からの返事も貰えないが、別に気にしてもしょうがない。苛めの一環だろうかと感じることもあるが、そうでないのかもしれないという期待は今でも消えていない。


                       2


 工場を出るといつものように近所のスーパーで総菜を買って真っ直ぐに自宅に帰った。この工場に勤めるようになって、一人暮らしを始めたときからの定番の行動だった。

 このスーパーで人気があっていつもは値引きの時間には残っていない唐揚げ弁当が今日は残っていた。それを発見したときには、テンションが上がってしまい、よしっ、と小さくガッツポーズを取った。恥ずかしいので動きは最小限で拳を握っていたのだが、つい声が出てしまったことが、急に恥ずかしくなって回りを見渡してみる。誰も僕の出した声には反応しなかったようで、ほっと胸を撫で下ろした。夕方のピークを過ぎたこの時間に買い物をしているのは、早く自宅に帰ろうと足早に買い物かごに必要な物を放り投げているような人が多かった。値札なんか見ずに買っているように見えたので、みんな裕福なんだろうなって思ったりする。僕は自分の手にある二割引の唐揚げ弁当を見ながら、そんな真似は出来ないなって溜息をついた。とはいえ、唐揚げに対する愛情は二割引ではないことだけは確かだった。

 そうして特に何事もなく、平日の一日も何となく過ぎ去っていく。後は寝るまでゲームやテレビで時間を浪費していくのが日課だった。この会社で働きだして、初めて身についた習慣が、この生活パターンだったかもしれない。

 最初の頃は外食にも行くことが何度かあったのだが、何でかは分からないが、いつも料理が運ばれて来ずに待たされてしまうのだった。料理を頼んでも三十分以上も料理が出てこなかったりするのはザラである。頼んだはずなのに忘れられることが多い性分らしい。

 そういう時には結局、店を出るのだが、誰も何も言わない。普通に今作っているんだったら店員さんが呼び止めてくれそうな気もするのだが、いつも「ありがとうございました」なんて言われるので、そのまま店を出る始末だった。

 だから飲食店からも足が遠のいてしまうのはしょうがないことだと思う。

 そういった感じで、結局ストレスが溜まることのないスーパーで夕食の買い物をして自宅に戻るのが、当たり前というか一番安心するのだった。

 必然的に休日だって特に予定を入れるでもなく、一人家に引き籠もってゲームをしているのが通常になっていった。その時には自分の工場で作ったお菓子と黒い炭酸飲料が手放せない。ジャンクなフードにはジャンクなドリンク。現代人の定番。最近は健康ブームでジャンクな飲み物にまで健康の領域は広がっている。いつかきっと世界からカロリーが消える日が来るんじゃないかと、思えるほどに浸食は速い。

 そしてその相棒のジャガイモをスティック状にして揚げたこのお菓子は、サラダ、チーズ、バターとラインナップも充実している。最近は季節限定の味もあったりして、それもお気に入りである。

 食感と口にしたときに広がる旨み。そして何と言っても炭酸飲料との相性が恐ろしいくらいにマッチしている。これが人気に火が付いた理由だろう。開発した人は天才だとすら思う。そしてそれの製造過程に自分が立ち会っているということに優越感も感じるのだ。

 突然冷やっと震えが走る。僕は六月に中途採用で入社したため、現在は九月であり、忘れていたかのようにか、はたまた思い出したかのように、時々冷たい空気を運んでくるようになった。そういうとき決まって僕はトイレへと立った。冬になるに連れて揮発する水分より地下に流れる水分が多くなり、循環コストは増大するのかな、なんてことを考えてみるがそれは不毛な考えだろう。

 トイレから戻ってくると、またゲームをしながらお菓子に手を伸ばす。日替わりで味を変え、毎日一パック平らげるのが習慣になっている。二つ目の習慣。

 それにしても何で僕は無視されることが多いのだろうと、考えることが最近増えてきていた。どんなに思考を巡らせてみても、全く心当たりがないのだった。確かに昔から引っ込み思案だったし、コミュニケーションは苦手だったのだけれど、笑顔だってそれなりに出来るし、渡班長とまではいかないけれども人の話はきちんと聞く。そして真面目に作業は行っているはずだ。

 やっぱり心当たりがあるとすれば、しいて言うとするならばトイレの件だけだった。

 だが、これはどうしようもないことなのである。生理現象だけは誰にもコントロール出来ないのだから。それが出来るならばその人はきっと超人である。

 確かに僕は昔から冬になるとトイレが近かった。膀胱が人より小さいのだろうか。それとももっと別の、もしかしたら病気なのかもしれないけれども、それでもこんなことで病院に行くのも気が引けるし、先生に『えっ』て顔をされるのが恐ろしくてしょうがない。いつも人の表情に怯えて生活している気がする。いつからこんなふうになったのかは、自分でもよく分かっていない。強いていえば、気付いたらこうなっていたとしかいいようがなかった。

 とても冷える日なんて、酷いときは一時間に二回も行く。たまに、本当にごく稀に友達と居酒屋に行ってお酒を呑んだ時はもっと頻繁だ。自慢じゃないが、一時間に三回、四回だって時にはある。

 仕事自体は好きなのだが、工場の温度管理が僕にとっては過酷だった。細川さんと太田さんには困ったものだけれども、その被害は今のところそれほど大きいとは必ずしも言えない。苛められているならば、もうちょっと深刻に考える必要があるが、まだそこまでは達していないと自分なりに思ってもいる。

 一枚多く着込んで作業したり、季節外れのカイロを仕込んでみたりも試したが、そこまでの効果が得られたとは言い難かった。

 最近考えるようになったのが、心理的影響である。一度駄目だと思うと、自分では意識しないように努めても心のどこかで意識していて、それが身体に影響を及ぼしているというものだ。プラシーボ効果ってやつだ。

 例えば、お医者さんが「この薬は本当に効くんですよ。私が受け持っている患者さんの殆どがこの薬によって症状が緩和しています」なんて患者に伝えると、例え今までと同じ薬を与えたとしても症状が緩和するといった感じである。まあ、薬事法ってやつには目を瞑って貰うしかない話なんだろうけど。

 この問題さえ克服できれば工場でもっと楽しく働けるだろうし、無視されるような苛めらしきものもなくなるはずだといつも考えていた。

 こうして考えること自体が、トイレの頻度を助長しているのかもしれないけれど、その思考を止めることが出来ない性格なのだからどうしようもない。

 しつこいようだが、恐らく苛めのようなもので苛めではない。僕が現実を受け入れられずに否定していると受け止められそうだが、それは違うと思っている。

 僕は昔から現実主義者だし、ゲームは大好きだけれど空想と現実の区別もしっかりついている。暴力的なゲームをしたところで、暴力は大嫌いだし人を傷つけるのなんてもっての外だ。とにかくそういったことを区別する能力だって、凄いとは言わないまでも普通にはある。

 小さい頃から『良い子だね』って言われ続けてたし、親だって『手の掛からない自慢の息子』だって近所の人に漏らしてるのを小耳に挟んだことだってあった。

 あくまで上中下でいう中だ。優秀ではないけれども、下ではないのだ。それだけは僕自身だって自信を持っている程である。だから今起きていることだって、苛めではないのだと僕は確信はしている。だからといってその不安が消えるわけではないけれども。


                       3


 そして入社してから四ヶ月目に突入していた。既に青々としていた景色も緑が力をなくし、茶色と赤が入り混じって季節は次のステージへと変化していた。風も生暖かさ二十四時間体制から冷たい風混じりのシフト制へと移行していた。

 このところ工場は忙しさを増して、ラインのスピードもじゃがいもの流れてくる密度も入社した当初と比べものにならないくらい慌ただしく過ぎていった。

 この数週の間もリリーフには呼んでもたまにしか振り向いてもらえず、細川さんからは相変わらず仕事の小言を言われ、太田さんに至っては前以上に家庭での苦労話を聞かされる日々だった。リリーフは仕事量が増えているし、細川さんも仕事量が増えたことで夏以上に不機嫌そうだったし、太田さんは今からが大事な時期である息子の成績が芳しくないらしく、それぞれストレスが増大していたのかもしれない。

 そして相変わらず僕はというと、休憩時間以外にトイレに何度か行くこともあり、ひんやりとした空気感を感じつつも、一応は平和で無難な毎日を過ごしていた。

 今日も相変わらず、細川さんと太田さんは僕に対して勝手に何やら喋っているようだったが、今の僕の耳には何の音も届いていなかった。それでも手だけは全自動さながらに動いているのが今は恨めしかった。

 いつもは小さい方。尿意であったのだが、今日はきゅるきゅるとおじいちゃんの家で骨董品と化した昔のビデオテープを巻き戻しているかのような音が、腸から鳴り響いていた。

 腹痛だ。顔が歪み、口元が緩み、舌が口からはみ出していた。

 それまで自分の話を延々としていた細川さんが、何かの拍子に僕の異変に気づき、そして大声でリリーフを呼んだ。


「ちょっと土谷君が変なんです。顔色が悪いし、早く来てちょうだい」


 金切り声のようなその声は、低く唸るラインの音とは不協和音で、遠くまで不快なノイズとして響いた。ラインで作業する人の列は、手を止めることはなかったが、時々顔だけこちらに向けて、様子を見るように遠巻きに視線を送っていた。

 奥の方からリリーフの一人が急いで僕の持ち場まで駆け寄って来て、迷惑そうに顔をしかめていた。だが、僕の顔色を見ると異変に気付いたのか、すぐさま襟元に付けていたマイクに話しかける。そうして班長やリリーフ同士は無線でやり取りして、常時工場で起きた情報を共有しているのである。


「土谷、大丈夫か」


 知らせを受けた渡班長が、慌てた様子で駆け寄ってきて、ラインから外れて崩れ落ちている僕に、顔を寄せて言った。

 最初に駆けつけたリリーフは手際よく、そして何事もなかったかのように、僕の抜けたラインの穴を補っていたが、細川さんと太田さんはいつも以上に手が疎かになっているようだった。きっと僕の体調が気になっているのだろう。おばちゃんという人種は、ゴシップとアクシデントに対するアンテナは常にびんびんと張り巡らされている。その電波のような意識が今まさに僕に向いているというわけだ。


「お腹が…… トイレに……」

 

 脂汗を掻きながら僕は辛うじて言った。耳を僕の口元に寄せていた渡班長は何度か頷く。どうやら僕の苦しむ理由を察してくれたようだ。


「自分で歩けるか?」と渡班長の問いに僕は何も答えることができなかった。


 班長は近くを通った台車を押している社員に手を挙げて呼び寄せると、何やら耳打ちし台車の荷物を急いで卸させた。その社員は最初、驚いた顔をしていたようだが、渡班長の剣幕に何かしらを感じたのか、ただの班長命令だからなのかは不明だが、機敏にその命令に従った。


「本当は駄目だけどな」とだけ言うと、渡班長は僕の脇に腕を差し込み、台車の上に荷物と化した動けない僕をゆっくりと乗せた。


 そして、「もうちょっと我慢しろよ」とだけ言うと、勢いよく台車を押し始めた。

 最初はきいきいと重そうな音がして、結構な力が必要だったようだが、じわじわとスピードが出はじめると、安定して余裕ができてきたのか渡班長は片手を放し無線に話しかけ始めた。

 大分使い古された台車は前輪が、がたがたと左右に震え、当然人が快適に乗るためのサスペンションなんてないので乗り心地は最悪だった。むしろお腹に響いてお尻を締め上げないとすぐにでも放出してしまいそうだったし、額には大量の脂汗が光っていた。だが、半分担がれながら歩くよりは断然速いのは明確だったし、渡班長の判断は概ね正しい。だが、僕の忍耐がどこまで持つかが自分でも不明だった。今はただ無心にその苦痛に身を委ねるしか選択肢はないのだ。


「すまんが、ライン付近のリフトと台車を一旦ストップさせて道を空けてくれ。緊急だ」


 僕は台車の振動に耐えるように膝を握り締めて堪えていた。もうどうなってもいいやって投げやりな気持ちと、恥は掻きたくないとの思いに揺れながらも目の前の流れる景色が怖くて何も見ないように目を瞑って祈る気持ちでいた。


 ごろごろ、ごとごと――


 どれだけ一心不乱に祈ろうと、その四輪の台車の乗り心地は最悪なままだった。今のお腹の調子よりは幾らかマシだったのかもしれなかったが。

 だが、その振動も相まってというか、相乗効果というか、お腹の調子は平坦な道にも関わらず、急降下の下り坂だった。

 必死で菊の門を締め上げ、少しでも気を紛らわせようと、ゲームの必勝法を想像してみるが、その効果はイマイチだった。

工事中のトイレが目に入る。もしこれが完成していたならば、こんな苦労するはずもなかったのに。そう思うと、朝礼で熱く会社のあるべき姿や夢を語る社長が、憎らしくなってくる。夢や理想は大事だと思えるし、素晴らしいとも思う。だけど、出来るならば声を大にして僕は言いたいことが今の僕にはあった。

 ――アイドルは夢を売るのが仕事だけど、トイレで大だってするんだぞ。しないと言い張るファンは、もっと現実を見ろよ。じゃないと今の僕のようにいつか足元を掬われることに、きっとなるはずだ――って、当然そんな台詞は口から出ることはないし、今僕が出せるのは脂汗と呻き声と、その夢とは相対関係にある現実というやつだけだった。


「着いたぞ」


 班長は言い終わらない内にさっと僕を抱えてトイレのドアを開けた。細身に見えても力持ちで意外とガッチリとしている体つきだった。

 トイレは中で更に男子と女子の扉に別れていて男子は奥の扉だった。そこまでの距離が今の僕には途方もないものだったが、渡班長は引き摺るように僕を男子トイレへ運んでくれた。僕は最後の力を振り絞って何とか男子トイレの扉を開け、いつも愛用している小便器を当然無視し、三つあったトイレの内二番目の個室へと倒れ込むようにだが入ることができた。何で二番目だったのかと聞かれると、そんなものは全く意識していませんと答えるしかないのだが、とにかくお腹の痛みに耐えながら、急いで、しかしおぼつかない手つきでベルトを緩め、お腹を締め付けているズボンの封印を解き、そして全てを吐き出すように一気にパンツを乱暴に下ろした。そして、こらえていたものを爆発させるべく、今までと逆の方向に全ての力を加える。決して気持ちの良くない、むしろ聞きたくもない音をトイレの中に響かせ、僕を苦しめていた苦痛の産物を世界で一番包容力のある白い大便器に放出した。

 大きな音と共に苦痛の波も放出されていく。不本意ながらその開放感に、ただただ感謝するように両手を組んで祈るような格好をしていた。


「はあ」思わず感嘆の溜息が漏れてしまう。


 だが、それは自分ではコントロール出来なかった。本能の所作としかいいようのないその声に混じって、強ばっていた全ての筋肉からは、脱力と虚無が伝わってくる。

 その瞬間にやっと今起きた一連の出来事が脳内を駆け巡り、その中に思考というスペースが生まれた。

 ああ、僕はまたやってしまった。トイレ絡みの騒動。苦痛が退くにつれて思い出したように気恥ずかしさが増していく。

 恥ずかしすぎて自宅に引きこもる若者のように、ここから出たくはなかったが、渡班長はきっと外で待っていてくれているだろう。そう思うとここから出ないわけにはいかなかった。手を洗い鏡を見つめる。その枠の中には青い顔の垂れ目の男だけが映っていた。

 渡班長は僕の気持ちを察してなのか、はたまたトイレに充満するであろう汚染物質、(おっと汚泥物質かな)から逃げるためか分からないが、その場には居なかった。

 両方の頬を掌で叩くと、よしっ、と気合いを入れて踵を返し、その場所を後にした。

 俯いたままトイレを出ると、班長がそこに立っていてくれていた。班長だって忙しいはずなのに、その手を止めて、たかが腹痛で動けなくなっていた僕を待っていてくれているのをみて、何だか申し訳ないような気持ちになってしまった。

 どうしようと思い立ち尽くしていると、班長は何も言わず僕の腰に手を当て優しく誘導してくれた。


「今日は帰るか?」


 と静かだがとても優しい声で話しかけてくれる。僕は首を横に振り、態度でこのまま仕事を続ける意思を表明した。班長はそれ以上何も言わずに頷くと、そのまま僕の担当ラインまで付いてきてくれた。

 丁度その時、休憩時間を告げるチャイムが鳴り、低い唸りを上げながらラインが音を絞って動きを止めていく。静かになるとどこからかエアーの漏れる音だけが響いていた。

 シューシューシューッ――

 普段は全く意識しない音に紛れているその音は、どこか今の自分を表しているようだと思った。普段は大勢に紛れて全く人の注目を集めることもないが、何か事件が起きるとその存在は浮かび上がり、みんなの視線が突き刺さる。休憩ですれ違う多くは、一度も喋ったこともない人達ばかりだったけど、今回のこの騒ぎはみんな知っているのか、哀れみや蔑むような冷たい光を放っていた。少なくとも僕の目にはそう映った。


「土谷君、大丈夫だった?」 


 そう言いながら心配そうに、だが何かしらの話のネタをまるで血の臭いを嗅ぎつけたサメのように、細川さんと太田さんが勢いよく僕の元に歩いてきた。

 班長に支えられるように立つ僕の向かいに、二人のおばちゃんと僕の抜けた穴をサポートしてくれたリリーフが並んで立っている。


「何かあったらちゃんと言いなさいよ」細川さんは額の汗を拭きながら言った。


 いつも僕の言うことなんか聞いていないくせによく言うよ。


「ほんと黙って話聞いてばかりいないで自分の意見も言わないと」太田さんはいつものように神経質そうに息継ぎなしで一息に言った。


 どうせ僕の意見なんて聞いてもいないし、言ったって意見を取り入れることもなく自分の話しかしないじゃないか。

 その横で僕の代わりに作業をしていたリリーフは、表情を変えることなく興味も無さそうにただ黙って立って話を訊いていた。

 俯きながら僕は、心の中で鬱憤を呟く。

 渡班長の前だからって、みんないい人の振りをするんじゃないよ。本当はそんなこと思ってもない癖によく言うよ。

 腰に当てられた手が離れると、その手が僕の肩をぽんと叩いた。僕は顔を上げると渡班長の方を向いて瞳の中の雫を煌めかせた。表面張力のように何かの拍子にそれは零れ出すだろう。だが、それは感動ではなく悔しさからくるものだったのだが、誰もそれに気付いてはいない。


「なあ土谷。そろそろ言っておこうと思うんだがいいか」


 渡班長が難しい顔をしながら、申し訳なさそうにといった感じで重い口を開いた。

 僕はぎゅっと目を瞑り覚悟を決める。きっと今までのトイレの回数のことを注意されるんだ。もしかしたらクビってやつかなぁ。今日のことでもうさすがの班長も我慢の限界なのかもしれない。『好きな仕事だったんだけどな』自分自身の身体の生理現象にほとほと嫌気がさした。それと同時に休みの日に日課にしていたお菓子のことを思いだすと、何だか寂しくなり、自分の胸から何かがえぐり取られるように痛みが突き抜けていった。


「あのな…… トイレとかって人の生理現象だからしょうがないことだと思うんだ。だからいつもギリギリまで我慢とかせずにちゃんとリリーフを呼べ」


 その言葉に僕はぎゅっと瞑っていた目を開け「えっ」と顔を上げた。思っていた言葉と違ったのもあるが、いつも呼んでも無視してるじゃないかと僕は反省の中、少しだけ憤った。


「リリーフもいつも相談に来るんだ。土谷が何を喋ってるのか聞こえないって。細川さんも太田さんもいつも私達が一方的に喋って返事が殆どないから嫌われてるのかなって、心配だってな」


 僕は細川さんと太田さんを交互に何度か視線を泳がせる。二人は優しく微笑んで頷いていた。リリーフもその横で小さく頭を振っている。


「いいかげん四ヶ月目だし慣れなさいよね」


 太田さんは神経質そうに視線を泳がせている。


「引っ込み思案も悪いとは言わないけど、声はお腹に力を入れると大きくなるわよ」


 細川さんは、額を拭いたハンカチをくしゃくしゃに握り締めると、大きく膨らんだお腹をぽんと叩いた。

 僕は細川さんや太田さんの言っていることがすぐに理解出来ずに、渡班長に視線でその旨を訴えた。

 渡班長は首を横に振ってから一度縦に頷く。もう何も言うな、みんな土谷の為を思ってるんだから頑張れとでも言うかのように。

 僕はただただそこに立ち尽くすしかなかった。

 そして全ての謎が今初めて繋がった。


『えっ…… もしかして僕が喋ってたことって、みんなに聞こえてなかったの――』


 なんだ、これまで苛めだと思っていたものの原因は僕自身だったてことじゃないか。

 そう思った瞬間に自然と肩から力が抜けていった。同時に、拳を握り大きく息を吸い込む。

 工場では、しゅーしゅーと嘲笑うかのように途切れることなく漏れたエアーが歓声を上げていた。

 そして僕は初めて自分の気持ちを届けるために精一杯お腹に力を込めて口を動かした。

 

  

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