番外編05
どうにか一葉を止めることには成功したものの、三人の視界には未だ薄く黒煙と刺激臭が立ち込め、調理(?)しかけの食材と散乱する調理器具で雑然とする厨房がある。
(ここまではいいけど、どうするよ? これ)
軽い眩暈に襲われるユキだが、何から手をつけたものか躊躇する霞夏と不安そうに自分を見つめるニナを前に、自分がしっかりしなければと気を取り直す。
「霞夏さん、料理は?」
「手伝うなんて大きなこと言ってアレだけど、実はほとんどしたことなくって……ごめん」
「な、なるほど」
ぼやいていても仕方ないと思い、まずは片づけを提案する。
自分のできることで一葉と菱川の酒の肴を見繕い、自分たち三人の夕食を確保しなければと考えながら、先ずは換気扇と空調の電源を入れる。
黒煙と刺激臭は、一葉がこれらを一切使っていなかったため三咲家に蔓延したのだ。
排煙窓もあるが、外はもう暗い。虫が入ることを考えると開けない方がいいだろうと考えたのだ。
ユキは様々な物がごった返す作業台を片づけようと手を動かし始めるが、とりあえずは哀れにも砂糖まみれになっていた海老を洗うことから始めた。
(まだ大丈夫だ。いい海老なのに、危ないところだった)
高級食材であろう海老たちを労わるように洗い流すユキ。
ニナが部屋中に転がる野菜や調理器具を拾って回り、霞夏がレンジを片づけようと作業を開始する。
火傷をしないように気をつけつつ、煙が上がっていたフライパンを洗おうとして刺激臭の正体も判った。
周囲に転がる空き瓶からブドウが原料の濃縮果実酢を、恐らくは醤油や砂糖を大量に混ぜて火にかけていたのだろう。
何を錬成しようとしていたのかは解らないが、身体に害のあるものを使っているわけではなくてホッとする。
洗い終わった海老をとりあえず冷蔵庫に戻し、改めて作業台を見回すユキの目が、黒いオーブンプレートに止まる。
そこには横向きに寝そべるセクシーポーズを艶めかしくキメた丸ままの鶏肉が、砂浜にでも横たわるように置かれているのを見て全身が脱力する。
(くそう! 一体どうすればいいんだ)
義務感に追い詰められ、焦りを感じるユキは言葉もあげぬまま作業台に突っ伏して悶える。
いつまでも時間を掛ければ、心配した一葉が戻ってくるだろう。これからの作業の膨大さと空腹に絶望感すら覚えるのだ。
「話は全て、聞かせてもらったよ!」
少し癖のある声と、演技がかった台詞。
ユキはハッとなり、弾かれるように声のした方に視線を走らせる。
いつの間にか再び開いていたキッチンの入り口には、腕を組んで壁に寄りかかるように粋なポーズでこちらを見る結花の姿があった。
胸元にレースアップのあるゆったりしたパーカーを腰下まですっぽりと被り、一鉄のものを借りたのか黒いタイツが覗く細い足に身に付けた、スリッパ代わりの大き過ぎる室内用サンダルは、ご丁寧に片足で引違い戸を押さえている。
「お困りのようだねぇ、みんな――うわぁ! ちょっと!」
「結花ぁぁー!!」
結花は折角用意していた台詞を、最後まで言わせてもらえぬまま霞夏とニナに抱き付かれて驚いたようだが、ユキだってそうしたかったくらいである。
地獄に仏、大海に浮木。
三人にとって後光さえ見える、まさにそんなタイミングだったのだ。
実は結花は鐘観と共にトラックに乗っており、彼女が一鉄と野嶽と入れ替わりで車を降りる際におおよその状況を聞かされ、三咲組事務所の入り口をくぐったときには既に人の姿はなく、薄く立ち込めた煙と異臭で事を察したのだった。
手遅れだったかと肩を落としながら、とぼとぼリビング向かう結花だったが、一葉からいきさつを聞いて急いでキッチンに移動したわけだ。
寄り合いの話しは聞いていたが、こんな時間から始まる話し合いは、要するに体の良い宴会である。
自治隊員である結花だったが、それを知っているため出席はしない。
農園を手伝う畔木や小山内も青年会として出席しているため、今夜は結花一人だったのだ。
簡単に夕食を済ませるつもりだった結花なのだが、いつも騒がしい三咲組のこと、悪い予感に気を利かせたのだった。
「こんなことだろうとは思ってたけど、やっぱり来てよかったよ」
「本当にありがとう、助かったよ」
床から拾い集めた調理器具をニナと並んで洗っている結花にユキが心から感謝する。
結花の家は神社を管理しながら古くから続く農園を営んでおり、結花自身もハンターとして自治隊に籍を置きながら榊家の家事を取り仕切っている。
ユキと同じ齢17にして農作業で腹を減らした方川達4人と晩酌を欠かさない父、鐘観の胃袋を完全掌握しているのだ。
「結花、泊まっていくんだろう? 久しぶりに一緒に寝ようか」
「おおー、いいねぇ。そうすっかぁ! ん、もちろんニナもねー。」
ニナの頭を撫でながら答える結花の存在に霞夏は緊張も解けニナも嬉しそうだ。
この事態において、結花以上の応援は考えられない。
そして霞夏とは姉妹のようにひと頃を過ごした幼馴染であり、ニナにとっては彼女とユキ以外は理解することのない、森の深部での出来事を共有できる特別な人物なのだ。
片づけ作業は順調に進み、黒煙も目を刺激する異臭もすっかり晴れた。
「さて、みんな粗方終わったかい? 一姉はペース早いからね、多分菱川さんも呑まされてるよ。手っ取り早く何か出そう。空酒は悪酔いすんかだら」
言いながら洗ってあった野菜とポン酢で手早く和え物を作り、武骨な見た目の和皿に盛り付ける。それは見事な手際だった。
「そんで、これをニナが持って行く」
そう言ってニナに皿を持たせ、背中に手を添えて、一緒に部屋を出て行く結花は、キッチンを出る間際、振り返って言い置く。
「二人はできること、しっかりね」
結花はユキと霞夏に、最大限の個人努力を要求しているのだ。
それは危険地域に於いての心得と違いない。
ユキと霞夏もまた、それに応えるために最大限を尽くそうと視線を交わらせるのだった。
ときを同じくして、新市街地の繁華街の外れ、古い雑居ビルに所在を置く稲葉の事務所からほど近い、大きな石造りの倉庫を改築した店舗の入り口に立つ二人の男性。
「ここ、ここ! 旨いんだぜここの酒は!」
やたらに嬉しそうに案内する稲葉に、黙ってついて店に入る早瀬の姿があった。
天井が高く、広い店内の照明は控えめで全体的にやや薄暗い店内に入った稲葉は、スポット照明で浮かび上がるように在るカウンターで腕を振るう、マスターと思しき人物に軽く手を振って見せ、わざわざ仕切られたボックス席の一番奥の席へと向かう。
まだ宵の口だが人気のある店らしく、既に店内には酒を酌み交わす客の姿が散見される。
黒く塗られた太い丸太と壁、かけられた簾でやんわりと仕切られ、個室と言っても差し支えない掘り炬燵状に仕立てられた席の下座にサッと陣取り、さっさと靴を脱ぐ稲葉。
不要な気遣いを感じながらも、空いた上座に腰を下ろす早瀬。
数分と待つことなく、薄い金属製のトレイを持った若いウェイトレスがやって来る。
「コタローさん、ちっスー。今日は何にする? コタローさんの好きなランビックとか……あとミードも入ってるよ」
妙に気安く、ややだらしない口調のウェイトレスが酒の種類なのか、早瀬には聞きなれない単語を稲葉に伝えている。
「マジで? でもとりあえずはいつもの、まだある?」
「はいはーい。 いつものねー。んでお連れさんは――」
ウェイトレスは、そこで初めて早瀬に視線を向ける。
聞いたこともない文字に埋め尽くされるメニューを眺める早瀬はウェイトレスのことなど意識になく自分を見つめる視線に対して、同じものをと適当に答えるのだった。
「あ! は、はい。かしこまり、ました……。コタローさん、お友達? 見かけないね、この辺じゃ」
いつもはフレンドリー過ぎる接客で、常連からしてみれば人懐っこい彼女が、初見の早瀬に対して言葉遣いを正そうとしたのだ。
稲葉には解る。
理解できない単語の並ぶメニューを面倒そうに眺め、諦めるように閉じる武骨なこの男に、無意識に彼女が喰いついたのを。
(マジかよ。……なかなかやってくれるな、健さん。 これが榊さんの言ってるヤツか? そんなにイカツイ男がいいかねぇ?)
否定寄りの感情で改めて見る早瀬は、伸びた髪が目にかかり野暮ったいものの、こういう場で見れば憂いを持って妙に色気を帯びたようにも見えるのだ。
「い、以上でよろしいですか、ね? あ、一緒におつまみとか、どう?」
「……今日は俺の奢りだから、適当におすすめ持ってきてよ」
すっかり馴染んだと思っていたこの店で初めて喰らうマニュアルに沿ったリコメンデーション。それはこの娘の視線が自分でなはく、早瀬に向けられている時点で若干稲葉をイラつかせるのだ。




