番外編02
「まぁまぁ、瑠依ちゃん。そんな怒らんでも」
怒りも露わに赤い顔のまま稲葉を睨む菱川。
スーツのグローブがギリギリと音を上げ、地面に突き刺したままのカーボンスチールを握る手に力が籠められる。
何とか菱川の怒りを鎮めようと、慌てた様子の稲葉は両手の掌でまぁまぁとなだめて見せる。
「そ、そんな怖い顔しないでさ、瑠依ちゃんの笑顔も、素敵だよ? 華やぐよ? あ、むさ苦しいって言ったの怒ってる? あれは野郎共の話しでさ、瑠依ちゃんは含まれてない――」
稲葉が言い終わる前に一瞬菱川の肩が動き、地面からカーボンスチールを引き抜くと同時に、稲葉の肩口を肘で強めに小突く早瀬。
「今のはお前が悪い」
静かに言い聞かせるように早瀬に言葉をかける早瀬。
実際に危害を加えることがないと信じているため、稲葉にはいい薬と思い傍観していた一鉄と一葉以外は気づいていなかったが、二人の睨みあいの最中に歩み寄っていたのだ。
稲葉との間合いに集中していた菱川と狼狽える稲葉はもちろん、二人の間の緊張感で視野が狭くなっていたユキを始めその場の全員には早瀬が突然現れたようにも感じられた。
「俺からも良く言っておく。今日は勘弁してやってくれ」
菱川も本当に攻撃を当てるつもりはなかったが、早瀬に言われては納めるしかない。
赤い顔のまま、口をへの字に曲げてカーボンスチールを腰に戻す。
「菱川よ、やっちまってもいいんだぜ?」
一鉄は、いらぬ騒動を招いた稲葉の尻を軽く蹴り上げながら言う。
「そのうちお言葉に甘えます」
ジト目で稲葉を睨みつつ答える菱川。
現場の緊張感は解け、軍人と三咲組の面々はそれぞれに撤収準備を進める。
一服を終え崖下の様子を伺っていた野嶽が、岩に腰かけて水分補給していた霞夏に声をかける。
「もういいだろう。そろそろ降りるか」
「はい」
短い返事の後、小休止の間に装備しておいた下降用ハーネスを再確認する霞夏。
肩と腰部、各部の絞め具合と固定、安全環とビレイの位置・状態など怠れば命に関わるため、念入りに行う。
時間をかけて確認する霞夏の動きを、一切言葉をかけずに見守る野嶽。
霞夏はそれらが終わると複数の支点を取ったアンカーから延びるザイルを下降器にセットし、崖の淵に後ろ向きに立つ。
ゆっくりと後に体重を乗せ、問題がないことを確認してから、バックアップのロックに手をかけて野嶽を見る。
終始無言だった野嶽は頷き、少し待てと指示を出してから手早く自分の準備を整える。
野嶽のスーツは下半身のみハーネスが標準装備されているため、バックルの締め直しだけで終わり、霞夏よりも簡易的な装備だがそれを差し引いても休憩中に準備を進めていた霞夏と比較すると非常に手早い。
こういったところにも経験の差は大きく出るのだが速さと良し悪しには関係がなく、懸垂下降を成功させ無事に地上に降りるという目的を達成することができればいいのである。
野嶽の器具の扱い、ザイルを絞め弛みを取る動きなど、その所作の鮮やかさに感嘆する霞夏だったが、見る間に準備を終えた野嶽が霞夏とは別に打たれたアンカーから延びるザイルを持ち、崖の淵で少し離れて霞夏と並ぶ。
「よし、ペースを守れよ」
「はい」
少し力の入った声で返事をした霞夏はロックを外し、急ぐことなく慎重に崖を降り始める。
しばしの間、順調に降りていく霞夏を見守った後、野嶽も下降を開始する。
僅かづつ赤味を強める西からの光が、険しい岩肌にくっきりと影を造る。
地上にいるよりも遥かに近く感じられる、緩やかな風に乗って空を舞う鳶の声と、自分の肩越しに見える遠い崖下の景色が霞夏の五感を刺激し、気力を充実させる。
集中力と筋力を要し今日一日の観測で肉体的な疲労もあるのだが、ヘルメットの中の汗を流す霞夏の表情はとてもいきいきとしている。
野嶽はあっという間に霞夏を追い越し、時折下降する霞夏に視線を送るが、動作は落ち着いておりペースも一定であることを確認すると、オーバーハングの岩を軽く蹴って一気に地上へ近づく。
(いいなぁ、俺もやりたかった)
二人が崖を降りてくるのを眺めながらユキが心で呟く。
崖上の作業は周辺の地形の調査と記録、無線中継器の設置と懸垂下降可能なザイルを張ることだった。
次回はこのザイルを使って崖を登り返すが、あまり複数回使用するのは危険なため次にの登ったときは機材を使って、より信頼性の高いアンカーを打ち込んでワイヤーを張ることになるそうだ。
希望としてはいつものように野嶽と行動し、崖上の作業をやりたかったユキだったが、なにしろ地下トンネルの第一発見者でもあるため、発見時との差異はないかなどを含めた案内役として別働隊となったのだ。
そんなことを考えながらユキが眺めるうちに、下降を完了させた野嶽が地上に降り立つ。
崖の中ほどを過ぎた霞夏の姿を一度確認し、下降前の準備と同じく滞ることなく装備を解除する。
「お疲れ様です」
「おお、お疲れだったな」
声をかけるユキに軽く返しながらバックパックを降ろし、ザイルの端末処理をしている最中、ちらちらと霞夏に視線を向ける野嶽を見て改めて思う。
言葉も少なく厳しく見られる野嶽は、こんなにも同行者を心配し見守っているのだ。
夢中で気が付かなかったことの方が多いだろうが、それは自分に対しても向けられていたのだと思うと、少しくすぐったくなるのだ。
霞夏が無事に地上に降り、装備を解除し終えるまで見届けた野嶽は霞夏に声をかける。
「いい手際だったな」
「……はい、ありがとうございます」
言われた霞夏の表情は、口を真一文字に結ぶが、口角はぷるぷる震え目には明らかに喜色が浮かぶ。
(霞夏さん、喜ぶの我慢してるな)
本人の感情はいろいろあるのだろうが、お世辞にも器用な方とは言えない自分からみても不器用に思える霞夏の性格に生真面目さを感じて共感を覚えるのだ。
撤収作業を終えてそれぞれに車両に乗り込む前に、別の車両に乗り込む一葉と菱川の姿があった。
まだ気が収まらない様子の菱川の背中をポンポンと叩きながら話す一葉。
「まーまー。後でいろいろ聞いてやるからさ」
そんな光景に一瞬首を捻るユキだったが、運転席に座った一鉄に早く乗り込むよう促され急いで乗車する。
そして帰りの車中は野嶽との観測がよほど楽しかったのか、ホクホク顔の霞夏の話しを聞いて過ごし、一日の仕事を終えた達成感と空腹に今日の夕食は何だろうかと期待するのだった。




