chapter2.40
「おう、今日は留守番か?」
「んん?」
稲葉は三咲組の事務所で一心不乱に頭を伏せていたが、不意に声をかけられ頭を起こすと眼鏡をかけた顔の頬に米粒をひとつくっつけたまま入り口を眩しそうに見る。
声の主は大柄な体躯に作業着姿の坊主頭、榊 鐘観だった。
15坪ほどの事務所は入り口側の窓際に応接セットがあり、その奥は一段高くなっており突き当りの壁に書類棚が並び、棚の手前には四脚の事務机が並ぶ。
稲葉はそのうちの一脚、中央に置かれた一鉄の席で食事中だったのだ。
「おお、榊さん。他の皆は現場だぜ」
稲葉は応えるが、一鉄が昼食にと用意してくれていたチャーハンを頬張ったまま答えるので、もごもごと聞き取りにくい。
「物食いながら喋るんじゃねえよ。行儀悪りぃな」
「んん。サーセン」
注意された稲葉は言いながらお茶を飲み、一息つく。
やや呆れ顔で稲葉を見ながら事務所に入ってきた鐘観は、応接セットのテーブルに荷物を置いた。
「今日はどうしたんだよ? 鉄さんなら夕方までは戻らないぜ?」
「ああ、いい酒が手に入ったから分けてやりに来ただけさ。特に用じゃねぇよ。お、悪りぃな」
そう言って稲葉が手渡したお茶を受け取る鐘観。
鐘観が置いたテーブルの上の荷物には、白い布に包まれた酒瓶らしきものがある。
「おお、酒かぁ! そいつはさぞかし一葉ちゃんも喜ぶなぁ! 酔った一葉ちゃん……いいよなぁ!」
「まったく、お前さんも懲りねぇな。女に不自由はしねぇだろうに」
稲葉は涼しげな目元に通った鼻筋、すっきりした輪郭。顔立ちによっては下品に映るだけの明るい髪色が非常に良く似合う。
鐘観の言葉を聞いた稲葉は、ふふんと鼻を鳴らして得意げに答える。
「いやいや、榊さん。俺が女の子にモテるとか、モテすぎて困るとか、そういうのとは別問題なんだよ」
「……モテるとかモテないとか、じゃねぇのかよ」
先ほどよりも呆れた顔で稲葉に答える鐘観。
「モテないなんてことはありえないだろ? 俺に限って」
「ああ、そうかよ」
鐘観はもう面倒くさそうにはしているが、一応稲葉の言葉を聞く。
「俺がモテるのは仕方ないことだ。俺がどう思おうが、向こうが放っておかないからな」
「ほーう」
既に立ち上がり、大袈裟な身振りをつけながら前髪を掻き上げノリノリで話す稲葉に、応接セットのソファに腰かけてお茶を飲みながら適当に相づちを打つ。
「何たって、俺がモテたいのは一葉ちゃんだけだからな!」
「そう言う割に、他の女にも随分愛想振りまいてるじゃねぇか」
「べ、別に色目使ってるわけじゃねぇよ。女の子は優しい男が好きだろ? 不愛想より、気楽に話せる男の方が好きだろう?」
「いや、そういうのを意識してやってるのが、色目使うって言うんじゃねぇか……?」
鐘観の素朴な突っ込みに、顔を赤くしてムキになる稲葉。
「いいじゃねぇか! モテないよりモテたいだろ! 女の子と仲良くしたいだろ! 強面の榊さんには縁のない話だろうけど!」
「おいおい、言ってくれるねぇ。俺はこう見えても昔はめちゃくちゃモテたんだぜ?」
意外な鐘観の言葉に、思わず稲葉は手を口の前に持っていき冷ややかな視線で返す。
「またまたぁ、おっさんはすぐ『俺は昔は~』って見栄はるんだから」
「失礼な野郎だな! 結花は器量よしだろうが! あれは母似、つまりは俺の嫁によく似てるんだよ!」
目を瞑り、今は亡き愛する妻を想う鐘観。
ここには居ないが結花は、鐘観に似て口調はぶっきらぼうでも小柄でかわいいと大概の人間が認めるだろう容姿である。
口さえ開かなければ、黒髪の似合う可憐な少女と言える。
「確かに結花ちゃんはかわいいとは思うけどよ。アレか? 超頑張って口説いたとか?」
「馬鹿言うな。俺に付いてきたいって言う女はたくさんいたんだぜ?」
「こんなゴツイ男にかよ? 昔の女は強い男が好きだったのかねぇ。 古き良き時代ってやつ?」
「お前の基準こそどうかと思うぜ。顔だけで寄って来る女に、本当の意味でいい女がいるもんかね?」
「そっ、それは俺が顔だけの男だって言いたいのかよ! 顔だけの!」
二人の言い合いは論点が一気にずれてしまい、興ざめした鐘観が再び呆れ顔で返す。
「顔に米粒付けたガキには解らんことだな」
そう言いつつも、稲葉の一葉への一途さは認めるところではある。
世代の違いで価値感には隔たりがあるが、地方の出身ながら縁あって三咲組に身を寄せる稲葉には本人が語らないところで誰もが一目置いているのだ。
どこか演技がかった軽薄さも、知るものには逆に本人の不器用さを際立たせるからである。
鐘観の指摘でようやく気が付き、誤魔化すように米粒を取り口に入れる稲葉は何か言い返そうと口を開きかけるが、呑気な空気が流れる事務所に突然鳴り響く無線の呼び出し音で二人の動きが止まる。
聞き慣れない呼び出し音はけたたましく鳴る、できれば聞きたくない音。
無線に目をやる稲葉は、飛びつくように無線機を取り上げる。
(この音、緊急回線か?)
自治隊員でもある鐘観にも、慣れた音ではない。
胸騒ぎと共に対応する稲葉を見守る鐘観だったが、次の瞬間にはろくに返事もせずに無線を掴んだまま車へ向かう稲葉を追うことになる。
足早に、何てものではない。走り出す勢いでガレージに繋がるドアへ向かう稲葉の只ならぬ眼つきに鐘観にも緊張が伝わる。
「おい! どうした!」
「悪りぃ、榊さん。留守番頼む」
それだけ口にして車に乗り込もうとする稲葉の肩を掴んで制止する。
「どうしたって聞いてんだ! 緊急なのはわかってる! 何があった!」
「一葉ちゃんと霞夏ちゃんが、崩れたビルで生き埋めになった」
稲葉の言葉に思わず目を見開いて驚く鐘観だったが、それだけ言って肩に掛けられた鐘観の手を乱暴に振りほどこうとする稲葉を更に止める。
「お前が急げば解決するのか! 最善を尽くせるように準備しろ!」
居てもたってもいられない気持ちに端正な顔を歪ませる稲葉だったが、鐘観が止めなければスーツさえ持たずに走り出すところだったのだ。
稲葉は鐘観と共に、使えそうな機材を片っ端から乗り込もうとした稲葉の車ではなく、三咲組の予備の車両に積み込む。
すぐにでも出発したい稲葉を窘めて先にスーツを身に付けるよう言い聞かせ、鐘観はその間も無線で田羽多から分かる限りの情報を聞き出す。
スーツを着た稲葉が飛び込むように運転席に着きエンジンを始動させると、無線で話しながら鐘観が乗り込んでくる。
幾つか疑問がなくはないが、そんな場合ではないとガレージから発車した車中、鐘観は手に持つ無線と車載された無線で方々へ連絡を回す。
焦るばかりの稲葉の耳に細かい内容は入ってこないが、どうやら自治隊を動かし人や機材を集めようとしているらしい。
時間が幾何か掛かったとしても、救助を求める一葉と霞夏の元へ救いの手が集まるように尽くしているのだ。
(……くそっ!)
自分一人で感情のまま飛び出していたら、そんな準備はできなかった。
スーツも着ていない自分一人が行ったところで、危険地帯に入ることさえできないところだったのだ。
「大至急だ! よろしく頼むぜ!」
連絡を終えた鐘観に向かい運転したまま、頭を深く下げる稲葉。
「榊さん、俺――」
「いいから前見て運転しろ! ここで事故って間に合いませんでしたなんてことになったら、お前一生立ち直れねぇぞ!」
謝罪の言葉を口にしようとする稲葉を遮って運転に集中させる鐘観。
「おう! 絶対助けて一葉ちゃんにモテてみせるぜ!」
ふざけているのではないことは、稲葉の面持ちを見ればわかる。
彼は、大真面目だ。
「お、おう……」
言っていることはともかく、稲葉は先ほどよりは冷静になったようだ。
一葉に好かれることが稲葉にとってはそれほどまでに大事なことなのだろうと、鐘観は一応納得しておく。
同時にこれも世代の違いでの価値観の相違ならば、確かに自分も齢をとったものだと思う。




