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chapter2.36

 眼前に広がる死の群れの中で、耳の奥まで感じる苦しい程の鼓動。

 細かく奥歯を打ち鳴らす霞夏かなは、入り口に走り寄る一葉かずはを前に恐怖で声も出せない。


 霞夏の様子と室内の在りようから即座に状況を理解する一葉は、落ち着かせるようにゆっくりと話しかける。


「霞夏、深呼吸して」


 言われた霞夏は胸を押さえ治まらない動悸を落ち着かせるため、なんとか息を吐き出そうとするが上手くいかない。


「大丈夫。目を閉じて、ゆっくりでいい。大丈夫」


 固く目を閉じ、一葉の声を聞きながらどうにか呼吸を整える霞夏。


「よし。足元に注意して、余計なものは見なくていい。ゆっくりこっちに来な」

 一葉は自分も廃墟の内部に乗り出し、迎え入れるように手を広げた。


 霞夏はその言葉に無言で頷いて見せ、一歩づつ進もうと試みる。

 しかし恐怖に囚われた身体は、思うようには動かない。

 頭で命令したとおりに動こうとする霞夏の右足は、その命令に対しどのくらい上がり、どのくらい前に踏み出すのかわからないかのように頼りなく、どうにか前に出した足が踏みしめる足場の感覚を脳に送るのまでが鈍く感じる。

 通常意識の外でやり取りされる感覚情報の伝達すらおぼつかない自分に焦り、いつの間にか呼吸は再び乱れ視界が狭くなってゆく。


「霞夏、心配要らない」

 一葉は瓦礫で埋め尽くされた廃墟の内部に段差を降りてゆっくりと踏み入り、近づきながらできる限り霞夏に向けて手を差し伸べる。


「私がついてる! 立ち止まってもいいから、諦めるな!」

 ヘルメットから覗く一葉の表情は、あれほど気分を悪くさせた自分に対しニカッと白い歯を見せ、真っ直ぐに見つめる。


 霞夏の記憶にある子供ながらに美人で聡明、口は悪いが面倒見が良く、いつだって頼りになる姉のような一葉が、彼女らしく自信に満ちた声で自分を励ましている。


(大丈夫、大丈夫)

 そう心で呟きながら、差し伸べられた一葉の手に向かい精一杯手を伸ばす霞夏。



 足を前に踏み出し、その手に触れられると思った瞬間、踏み出した足が何かに触れた。

 ほんの些細なことだった。踏み出した足を瓦礫に乗せただけのつもりが、折り重なるように堆積したコンクリートの一部を崩してしまったのだ。

 しかし崩れた一部は床を這うパイプをいとも簡単に潰し、延長線上に配置されていた辛うじて棚の体を残すだけの物体は傾いて、壁と天井に向け縦に伸びるパイプに激突する。スチール製だったはずのその棚は冗談のようにバラバラになり、壁にあったパイプは取り付けられていた固定具ごと外れてぐにゃりと曲がって壁と床に叩きつけられた。


 その衝撃が足元から広がり壁と柱に伝わる。

 静まり返る室内に一度だけ『ビシッ』と音が響いた。

 続いて上方から数回、金属質な軋みと遠くで何かが叩きつけられるような音。

 それは真上から感じられ、秒ごとに大きくなり近づいてくる。

 壁から上階へ伝わった小さな震動が倒壊寸前だったビルの均衡を崩壊させ、上階から数百倍になって押し戻されてくるのだ。

 天井からは小さなコンクリート片が止めどなく降り始め、遠くに感じた叩きつける音は轟音と震動に変わった。


 ヘルメットの上から空気の塊で叩かれているような、生き物にとってはすでに打撃に近いと感じるほどの衝撃。

 霞夏は状況の変化に対応できず思考は停止し、そこに立っている以外の何もすることができない。


 一秒の余裕もない。本能的に霞夏の身体を抱くように飛びつく一葉。

 まるで井戸を掘るパーカッションボーリングマシンの地響きがすぐ近くで発生しているような大気の衝撃のなか、成す術もない霞夏に飛びついた一葉は霞夏を両腕で抱いたまま部屋の奥に向かって突進する。


 呆けている霞夏は自分の身体が激しく揺れているのを感じる。抱き上げられて運ばれている。

 一葉の腕の中で一葉の声を聞いた。叫んでいる――自分を生かすために。それを感じてようやく意識が身体に戻ったように正常な思考を取り戻す霞夏。

 突然霞夏の視界は真っ暗になり、一瞬の浮遊感の後全身を衝撃が襲った。


 次の瞬間には鉄が折れる音と地響きが鳴り響き、二人のいる階の天井が上階が崩れ落ちた瓦礫の重さに耐えきれず、突き破られるように崩壊した。

 地階に瓦礫が雪崩れ込んだ衝撃は周囲のビルにも伝播し、同じく倒壊を免れていた近辺のビルも崩れ始める。



 内臓がずれそうになる音が轟き衝撃は空気を破裂させたように震動して、周囲の地面は太鼓の皮面の如くわなないた。 

 

 それらが収まるころ、そこに在ったビルよりも遥かに高く立ち上る砂埃が、吹いてきた風に流されてつい先ほどとは見る影もなく変わり果てた瓦礫の山を覗かせた。


 一葉と霞夏がいたビルは今や、割れ砕けたコンクリートが無造作に積み上げられただけのものとなり、その山にはまるで墓標のように様々な太さの鉄骨が突き刺さっていた。


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