chapter2.35
焼け焦げ煤けた旧市街地を眺めながら歩く霞夏。
時間をつぶす以外大した理由もなくぶらつく霞夏の目は色褪せた塗装が微かに残る一つの建物で止まる。
今となっては何が描かれていたのかは不明だが、時間と風雨に色彩を奪われ尽くした景色の中で霞夏の目を引くには充分だった。
(何が描いてあったんだろう? 文字じゃないな。絵かな?)
建物そのものの大きさはそれほどではない。大よそ三階建てだったであろうビルは壁がひび割れて剥がれかけ、補強の鉄筋が所々露出している崩れかけのそれに近づく霞夏。
既になくなっているが、恐らくは硝子があったのであろう場所には瓦礫が堆積している。
(ここは入り口だったのかな?)
霞夏は大きく口を開けた一角から中を覗き込みながら、かつての姿に思いを巡らせてみる。
基礎が頑丈だったのか、大きなコンクリ―トの柱は縦に亀裂があるものの、それ以上には目立つ損傷もないように思える。
内部には土砂と瓦礫に埋もれているが、カウンターテーブルらしきものが見当たり、折れたパイプが露出した壁には装飾と思われる木製の飾りのような物も見えた。
大災害以前の人々の生活の面影に興味を惹かれて霞夏は知らず知らずのうちに倒壊しかけたビルの間近に移動していた。
(ここは……何だろう? 何かのお店だったのかな?)
「霞夏! そんなところで何してる!」
その声に驚いた霞夏が反射的に振り向くと、少し離れたところに立つ一葉がこちらに歩いてくるのが見える。
「別に」
またそんな態度をとる。霞夏は頭では自分の非を理解しているつもりではいるのだが、自分のやることなすことに注意してくる今日の一葉に対して引っ込みがつかなくなっているのだ。
「別にってなんだ? そこを離れろ! どこに立ってるのかわかってるのか?」
霞夏は言われてようやく自分が崩れかけた建造物に接近し過ぎていることを認識する。
しかし霞夏は一葉の意図と自分の状況まで深く理解はできていなかった。
「別に、このくらいどうってことないじゃない。余裕だよ」
「お前何言ってる? そこまで素人だとは思ってなかったよ。いいからさっさとこっちにこい!」
経験不足の人間が無断で単独行動、しかも危険認識の甘さと注意不足。一葉の言っていることは一方的に正しい。年齢では少し上、つい先日成人したばかりの一葉は実は危険地帯での活動期間だけで言えば霞夏よりも少ないのだ。
しかしここでも経験は能力に格差を作る。
この差は一葉が三咲組という厳しい環境で過ごしていたというのもなくはないだろうが、それだけでは生まれない差である。
何処でどれだけ過ごしてきたかではなく、本人が何を思い、何を考えて過ごしてきたかの差なのだ。
見せつけられるプロとしての実力の隔たり、そしてあまりに正しすぎる相手に対し感情に訴え、それを恥と知らず筋の通らない理屈を並べるのもまた、霞夏の幼さであった。
「何さ! 何でもかんでも頭ごなしに! 一姉すぐ怒る! もうやだ!」
思わず霞夏の口からは子供じみた台詞がでてしまう。言った後から本人も顔が赤くなる。これでは益々自分の稚拙さを曝け出すばかりだとわかるからだ。
「ガキみたいなこと言ってんじゃねぇ! 早くこっちに来い!」
霞夏の台詞を聞いた一葉も思わず感情的に返してしまう。
霞夏は一葉に答えることもなく、へそを曲げたようにそっぽを向いて、こともあろうに目の前の倒壊しかけたビルに足を踏み入れた。
その行動を見た一葉は驚きつつも弾かれたように霞夏の入ったビルを目指して走り出す。
ヘルメットの中の一葉の顔は青ざめていた。
「馬鹿! 何のつもりだ! 戻れ霞夏!」
背後に一葉の声を聞きつつも、悲しげに曇った表情で廃れた内部に踏み入る霞夏。
崩れかけていると言っても大災害での倒壊を免れ現在も辛うじて建物としての形を残す廃墟。
先ほど見えていたカウンターテーブルの周りには落ちた天井や割れた硝子に紛れ、倒れたスツールやボロボロになったソファがある。
あまり光が差し込まない室内の奥側には小さな入り口を備えた空間がぽっかりと口を開けているのが見えるが、暗くてその内部の様子は分からなかった。
「霞夏! 早く! 外に出ろ!」
尚も聞こえてくる一葉の声。
ここは危険地帯。大災害で壊滅し、生き残った人々に放棄され未だ荒廃した姿を残す廃墟地帯。
自分はそんな危ない場所で人の言うことも聞かず勝手な行動を取り、更に制止も聞かずに目的もなく危険な状態にあるビルの内部に入り込んだ。
(わかってるよ、そんなこと――)
そう思いつつ薄暗く埃っぽい室内で、ふと視線を下に向ける霞夏は自分の足元に引き裂かれ煤けた布のようなものを見つける。
暗さに慣れてきた目で何気なく眺めた次の瞬間、霞夏の目は見開かれ呼吸は吸い込んだまま一瞬止まる。
足元の瓦礫、落ちた天井材と砕けたコンクリートから覗く、引き裂かれた布地から伸びる何か。
初めて見たかどうかは関係がない。説明されるまでもなく一目で分かるのだ。
まじまじと見る必要はない。布地から延び、霞夏のブーツのつま先にそっと触れるように在るのは紛れもなく人間の手の骨だった。
途端に湧き出し溢れる恐怖に息を吐くこともできず、縋るように定まらない視線を入ってきた空間に戻す霞夏は、床に散らばる瓦礫の間から同じように人体の骨と思しき白い物体が散見していることに今更のように気づく。
ここは危険地帯……大災害で壊滅し生き残った――
つい先ほど考えていた自分の思考がどれだけ浅はかなものだったか現在の自分の状況を把握してようやく理解できた。
商業施設のような一室で、小さく震えだす足とまともに継げない呼吸。
一葉の言葉を無視して何も考えずにくぐってきた入り口が遥か遠くに感じる。
薄く涙が滲みだす視界には床一面に広がる『死』。
ここは崩壊した文明と、そこに生きていた人間の死が、今もそのまま止まった時間に埋もれている場所なのだ。




