chapter2.34
舌打ちしながら、さも面倒くさそうに機材の基部の油圧ジャッキから延びるアーム部を持ち上げようとする葦利だったが、本人が思う以上に重量があるらしく修理に必要な位置まで持ち上げることができないようだ。
「さっさとやれよ!」
「いや、もう少し上げてもらわないと……」
言われた葦利は、能登の言葉を聞き、呆気なく諦めて手を離してしまう。
とても重さに耐えきれずに無造作に手が離され、支えを失った鉄材は地面に落ち、砂埃を上げる。
葦利は、自分の力が足りず必要な位置まで持ち上げることができなかったことを棚に上げて大声で能登を罵る。
「さっさとしろって言っただろうが! 何やってんだよ」
「いや、もっと高い位置でないと接続できな――」
「そんなもん知るか! 俺は社長だぞ! お前とは立場が違うんだぞ! 何で言った通りにやらねぇんだ!」
「いや、だからもっと――」
反論しようとする能登を睨みつけ、続きを言わせぬ勢いで更に声を上げる葦利。
「文句があるなら、いつでも辞めていいんだぜ? 使えねぇ奴は俺の会社にはいらねぇ!」
優秀と言われた先輩技術者達が、この男とのこんなやり取りの末に次々と会社を去っていった。
能登は自分の失態には全く悪びれずに他人を責めることができてしまうこの男は、人間の言葉が通じるのだろうかと思ってしまう。
目を逸らし、バイザーを下ろしたままのヘルメットの内側に、通常より高い温度の息をゆっくりと吐きだして感情を落ち着かせる。
いつものようにやり過ごしたつもりでいたのだが、バイザー越しのその目にはうんざりした感情が滲み出ていたようだ。
「ああ? 何だその目は? 反抗的じゃねぇか」
鍛えられたわけではない、肉が付きただ太いだけの腕にあるご自慢の落書き(タトゥー)をずいっと前に出して能登に凄んで見せる葦利。
そんな二人のやり取りを遠巻きにちらちらと眺め、関わらない方が良いか、葦利のご機嫌をとりに行った方が良いかと思いを巡らす風見鶏たちの視線は、二人に近づく一人の男を捕えていた。
「どうした? 言いたいことがあるんなら――」
無意味なやり取りに浪費される時間を、できるだけ少なくするために黙っている能登の目は修理のために必要だった位置まで持ち上げられた鉄製アームが映る。
殆ど聞いていなかった葦利の言葉を完全に無視し、反射的に固定用金具を差し込んで各部を固定する。
突然動き出す能登に、何が起こったかわからず振り返る葦利の目の前には、こともなげに左の脇にアーム部を抱えて持ち上げるスーツ姿の見覚えのない男がいた。
パイプレンチ、ウォーターポンププライヤー、バイスグリップ等多様な工具を次々に持ち替え、瞬く間に作業を進める能登。
葦利は能登とアームを支える男を交互に見ながら成す術もないまま、能登はオイルカプラを接続して作業を終えた。
「ありがとうございます。もう離してもらって大丈夫です」
「お前、どこのモンだ? 勝手に手出ししやがって」
礼を述べる能登を押しのけて男に言葉をかける葦利。
支えていたアーム手からを離し、何事もなかったように去ろうとする男の態度に腹を立て、葦利はその腕を取って向き直らせようとする。
「おい! 無視すんじゃねぇよ!」
しかし、掴んだ男の二の腕は丸太の如く頑強で、体格に勝るはずの葦利の力をものともしない。
ギョッとする葦利を、ゆっくりと振り向く男。肩越しに葦利を射抜く瞳は、バイザー越しにも葦利の呼吸を一瞬留める。
相手の眼球の奥に冷気を送るようなその視線は、普通と言われるような人生を歩んでいては決して見せることがないであろう、光のない輝きを見せた。
「……俺は三咲組の手伝いに来ているだけの人間だ。社員じゃない。何か言いたいことがあるならこの場で言え」
ただの気まぐれだったが、あまりに幼稚なこの葦利という男に苛立って手を出したまでだった。
面倒くさそうに向き直り早瀬だと名乗る男に、腕のタトゥーを見えるようにずいっと出してみる葦利だが、身長は自分よりも低いこの男が自分を見下げていると感じる。
葦利も、自分が絶対に敵わない人間を嗅ぎ分けられないほど馬鹿ではない。タトゥーなど目にも入らないように自分を見据える目の前の男に、こけおどしが効かないということが分かる程度には、である。
「そ、そうか! 鉄さんとこの手伝いか! そうかそうか。 手間かけさせたな、も、もう、行っていいぞ」
最低限の本能があれば分かるはずだ。表情を変えずに自分を射抜く視線を放つこの男が、その気になれば容易く自分を殺すことができる人間であることを。
何事もなかったように再び背を向け、その場を後にする早瀬。
(手伝いだと? 何者だあの男? 絶対にまともじゃねぇ! 三咲組の関係者ってのは化け物だらけじゃねぇか)
腕を掴んだ感触だけで充分に分かる、鍛えられた肉体に満ちる力の密度。そしてその肉体を動かすのは、あの目を持つ人間なのだ。
早瀬の視線がなくなったことで、思う以上に強張っていた葦利の全身から微かな震えと共に力が抜けて行った。
休憩のため同じ車両に戻っていた一葉と霞夏。
しかし食事を終えた霞夏は自分の態度のせいで気まずくなった空気に居心地の悪さを感じ、食事を終えた後話もせずに車両を出て行った。
そんな霞夏の行動に片目を瞑っていた一葉ではあったが、少々戻りが遅い。
いくら軍の護衛があるとはいえ、ここは勝手が許される場所ではない。へそを曲げた小娘がウロウロしてよい場所ではないのだ。
それが仕事である以上、プロとして両目まで瞑るわけにはいかないのだ。
(あいつ……!)
戻ってこない霞夏の身勝手さと危険地帯に於いての常識の無さに心で悪態をつきつ車両を後にする一葉だったが、ただ苛立ったように見えても、もちろん本心では霞夏の身が心配で気が気ではない。
当の霞夏は軍人たちが護衛しやすいように車両がある程度かたまって止められているあたりから少し離れ、まだ整地が進められていない一角に差し掛かっていた。
不透明で憂鬱な灰色の空と同様に、無機質で無気力な表情しか見せない朽ちたビル達。
そこは瓦礫の撤去が進んだ先ほどまでの区画と違い、崩れた舗装とひび割れた硝子、剥きだした鉄骨を露わにした文明の亡骸が広大無辺に横たわるのみだった。




